
足と浅慮と定型発達
号泣してしまって眠れないから書いている深夜。
わたしは特にネガティヴな感情を殺す癖が強いために
何か言われたりされたりしてから
傷ついた、腹が立った、と感情が上がってくるまでにタイムラグがある。
その日のうちに感情が上がってくるようになったのでだいぶ成長したとは思う。
今日の15時過ぎに起こった出来事に対し
18時頃に悲しみが浮上してきた。
そこから芋蔓式に「言われて引っかかった言葉」がぽんぽんと心に浮かび
「あぁ、嫌だったんだ」と気づく。
浅慮な言葉は流せば良いのに
流せないのはやはり「わたしはこんなに頑張っているのに」と言う思いがあるからだろうか。
愛のない言葉だなぁと思った。
本人はそんなつもりはないだろう。
相手のことを思って言ったつもりだろう。
けれどもそこにあなたが言葉を投げかけた相手は映っていないよ。
わたしも息子もあなたの目には映っていない。
あなたの目に映っているのは、あなただ。
あなたの価値観を発することで「正しいことをした」「良いことをした」と気付かぬうちにエゴに浸っているあなただ。
靴を変えれば足が治るのなら
いくらでも変えてるよ。
どんな高い靴だって無理して買うに決まってる。
けどそんな単純な話じゃないから
原因は靴じゃないから
だからたくさんの苦悩と怖さを勇気に変換し
選択して決断してきたのだよ。
その結果が現状なんだ。
安易に発せられた言葉に腹が立った、傷ついたのも確かだが
何よりもその場ですぐにその言葉に対して「それは違う」と意思表示できなかった悔しさで
夜中に大泣きした。
明日以降でもいいからちゃんと伝えよう。
わたしのために、息子のために、伝えよう。
泣いてしまってもいいや。
嫌なものは嫌だ。
再び干渉されるのも嫌だ。
距離感を間違えられるのも嫌だし
わたしは定型発達という言葉もはっきり言って嫌いだ。
そもそも定型な発達なんてない。
みんなバラッバラなのに。
医療現場や療育現場でならこの言葉を便宜上使うのはわかるが
そんな場ではないしそんな内容の話題でもない流れで
定型発達という言葉で、一人一人違う個性を持った子供たちを括る危うさを理解出来ない者が
子供達に触れるな。
子供はみんなわかっているから。
大人が自分たちをどう見ているかを。
筒抜けであることが肌感覚で分からないくらい
感覚が鈍っているのだとしたら
愛よりも自顕示欲が優っているからではないか。
しかしそんな人と関わったのも何かの縁。
空気を悪くすることが死ぬほど嫌なわたしが
わたしのために空気を悪くしに行きましょう。
悪くなったその空気をどう処理するかは
その人たちが決めればいい。
わたしはわたしの尊厳のために伝える。
あとは信頼して任せよう。
責めたいわけでも謝罪が欲しいわけでもない。
だが現状を変えるために
わたしのために、息子のために
想いを伝えよう。
明日起きたら目が腫れているかな。
それはそれで
ちゃんと泣けたわたしを愛おしむとしよう。