米津玄師という境界存在に捧げる
ありがとう。~2023 TOUR 空想~
思春期の願望
中学生か高校生かの当時、そう強く願ったのを記憶している。その頃の自分が思春期の苦しみから逃れる方法といえば、この程度の漠然とした願望の形しか取り得なかった。
あるいは、苦しむ「自己(自我)」を消せばよいのかと煩悶し、仏教思想にハマってみたり。
思い返せば、この願望は『「世界」と繋がりたい』という願望であったと、今なら言い換えることができる。本来性は無いが定住生活を営むために仕方なく人類が創り出したこの「社会」。
その外側に対する直感的な希望があった。人間さえもごく小さい要素に過ぎない、全体としての「世界」に触れた時に感じる、あの享楽(相対的な快楽ではない絶対的なもの)を、崇拝し、求めていた。
ヒトが地球上に出現し、集団をつくり、定住して人口が増え、大規模定住(文明)となって、人間中心的な社会システムを構築してきた。
あらゆる社会システム、あらゆる思想たちが、人間中心主義をベースとして組み立てられてきた。目に見える合理性のみが至上とされてきた。
私たち『人間』が『人間』であるために必要なものは、果たして人間中心的な合理性の先にあるのか?
祈ろう、「見ていてください」と。
超成熟社会は、心を汚染する
マックス・ウェーバー(社会学者 1864~1920)が考察したように、合理性でもってして社会システムを組み上げ、それが複雑性を増すと、もはや自分の仕事が”具体的に”何に貢献できているのかが不透明になっていく。人が社会システムを使っていたはずが、“気がつくと”社会システムの檻(鉄の檻)に囲まれ、システムが回るために人が使われるようになっていく(没主体)。
没主体と化した人間は、入れ替え可能だ。入れ替え可能とは、「条件を満たすなら、お前じゃなくてもいい」ということを突きつけられること。これが、人を孤独へ追いやり、孤独から不安が分泌される。
不安は、心に空いた底なしの穴のようなもの。人々はそれを埋め合わせるために、合理的で入れ替え可能化を押し進めた社会システムに、”心身ともに”適応していく。
社会に過剰適応した結果は、周知の事実だ。
過剰に法にしがみついて「〇〇は違法!〇〇も違法!」と騒ぎ立てること、精神的に脅かされると「被害・加害図式」を持ち出してハラスメントだのポリコレだのと騒ぐこと、社会的正当性に飲み込まれ合理的な正論さえ持ち出せば主張が罷り通り全て上手くまわると思っている人々…
このように過剰適応した人々が、医療現場での関わり、性愛、子育てをすると何が起こるか。考えただけで悍ましい。
さらに恐ろしいのは、この過程は極めて無自覚・無意識に進行していくことである。放射能汚染のごとく、知らず知らず体内に汚染物質が入り込み、内側から我々の精神を蝕んでいってしまう。
だが重要なのは、これは制度の不備でもなければ、誰か悪役がいるというわけではなく、『人間に備わっている規格体』が招いた必然的な悪夢であるということだ。
僕たちは、良いことかのように利便性や合理性を追い求めた結果、目に見えない精神性はノイズのように除去され、心身が社会システムの内側に完全に閉じてしまっていたと言える。
境界存在に、人々は感染する
社会の内と外の境界に位置する存在。畏怖する存在。
森、大海、宇宙、あらゆるアーティスト、性愛…
これらの存在に付随する体験。
ライブの一回性が尊い。このライブのDVDが出ても、あの一回性の享楽の代替にはならない。
「あの体験は一体なんだったのだろう」と後になって考える。だが、全く同じ体験をすることはできない。
「この社会は何かがおかしいんじゃないか…」
あの体験を追体験するように、僕らはこれまでの生き方を顧みる。
生物学者の福岡伸一氏は、「記憶は、想起するたびに神経回路が再構成されてつくり出される。本来は、記憶もその場限りの一回性だ」と言った。
再現性を追求する科学的世界観も、究極的には一回性に満ちている。だが、「社会」はそれでは回らない(回らないという理由のみで)から、建前であらゆるものを構築する。これが不自然に感じるのは必然だ。感性の鋭い者なら、この違和感をきっと感じる。
米津玄師は、「社会」と「世界」の境界存在だ。僕たちは、彼を通して「世界」に触れた。彼自身が、アートだった。
「社会は紛い物だ!回帰せよ!」
そうコールしているようだった。
アートとは、本来人間に”傷”をつけるもの。”傷”をつけられた者は、それ以降同じようには生きられない。「その生き方は間違っている」と突きつけられるから。
社会の外側、「世界」に触れたとき、その瞬間は永遠になる。
その享楽を共有したとき、”僕たち”は「力」を得る。
力を得て、僕たちは日常(社会)へ緩やかに着陸する。
非日常で回復した”力”、それを使って仮初めの「社会」を営む。
”力”は、モチベーションという単語で想像する範疇のものを凌駕する。
だが”力”はいずれ尽きる。そして日常から非日常へ旅立つ。
定住以降、人類が”祝祭”を必ず文化として持っていたのは、「社会」の化けの皮を剥がすためであり、「人間」の矛盾・混沌としたものを爆発させるためだった。
だが、社会的合理性のフィルターに、人々の大部分は覆れてしまった。
「世界(社会の外側)の喜び(享楽)を知っているかどうか」が鍵だ。知らない者に何を言っても無駄なんだ(自己保全の範疇で受け取られ歪んで解釈されたり、嫉妬に巻き込まれたり嫌悪されたり違法だなんだと騒がれる!)。
喜びを共有したい。でも、失敗の連続だ。希望を持っては失望し、時々成功したような気になってみたり。諦めないでいたい。”実感”として、喜びの共有が可能だと知っているのだから。
祈り
次はきっと火を焚こう。仲間と一緒に。映画を観よう。音楽を聴き、同じ道を歩こう。お酒を酌んで、他愛もない話をいくらでもしよう。そうして、喜びを共有しよう。
そして、見ていてほしい。私の心が、芯まで汚されないように。世界に触れていられるように。
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