「誕生日祝いのおはぎ」と「家を持つこと」の共通点|摩衣の快適部屋とふらふら【#10】
2年前の自分の文章をたまたま発見して、びっくりした。書いた本人も忘れていたのだが、私は元来「当たり前を疑いたい人」だったようだ。
上記の例でいうと、
「誕生日祝いにはケーキ」
これはほぼ誰の目から見ても疑いようのない「当たり前」だが、例えばケーキの代わりに「おはぎ」が出てくることについては、どう思うだろう。
それが「当たり前」ではないのは勿論、私にも分かる。
では何故そう思うのか?
何故ケーキが当たり前で、おはぎは場違いなのか。
私が(主観たっぷりに)名言するなら、それはただの「刷り込みだ」という結論に達する。経緯としては恐らく「誕生日祝いにケーキ」は舶来ものの文化であり、日本に着いたときには既に、その座はケーキの独壇場だったということだろう。
世の中の当たり前とは、大きな声で何度も叫ばれることによって定着すると思う。それの正しい、正しくないは関係なく。
「家」ってなんだ
無拠点生活を始めることに決めたのも、考え方は同じだった。
自分の生活で「当たり前」の立ち位置に鎮座する存在を、疑いたくなったことだ。
そして手始めにまず住居を、そしてその中にあった様々なモノたちについて見直し始めた。
家をつくる
家を解約するちょうど1年前、私はある本と出合っていた。
家をつくる、しかも動く家。これは楽しそう、と思った。実際には、誰でも実現できるものではないのは読んでしばらくして分かったものの、動かせる安価な家の存在は衝撃的だった。今の1ヶ月分の家賃だけでも、モバイルハウスがいくつも建ってしまうのだから。
家に毎月10数万円、年に百万円を超える金額を支払うって、当たり前のことなんだろうか。この本との出合いが「住」について考えるキッカケになった。
家とはどういうものだろう。
英語ではHOMEとHOUSEと2つ言い方があるが、表すニュアンスは違う。
HOMEは、ソフト。
居心地のいい空間、のようなイメージのHOMEは、大切に手を掛けることに価値がある。HOMEと共に心地よく毎日過ごすのは、ある意味で人生の幸せのひとつかもしれない。
一方HOUSE。HOUSEは言わばHOMEのためのハコだ。
私達の両親の世代では、結婚したらローンを組んでHOUSEを持つのは、一種のステイタスだった。一国一城の主。その意義について今更私がアレコレ言う必要もない。
そして私の世代でも、もうその殆どはハコを購入済みだ。友人達のコダワリの家を訪れるたびに、こういうのもいいなぁと素直に思う。
ひそかにインテリアコーディネーターの資格を持ち(腐らせてるけど)、ハウスメーカーと関わりのある仕事に現在進行系で従事しているのだ。住空間には人一倍、興味関心もある。
それでも私は、一旦ハウスを手放すことにした(勿論、賃貸だったが)。
そこに掛かる「経費」を無視できなくなったことが、大きなキッカケのひとつだった。
家のために生きてるな、これ
家を手放す直前、私の家計はおかしなことになっていた。入居した当初から比べると、いつのまにか収入が半分程度になっていたのだ。
特に生活に困窮していたわけではない。払わなければならないものは全部払えているし、必要なものを購入する余裕は、少なくともある。
と一旦は思ったものの、その収入における家にかかる費用の比率を計算して以降、もう無視できなくなった。
家賃、光熱費、水道代、通信費、ウォーターサーバー代、諸々。
私の労働時間の相当部分は、「家を維持するため」に費やされていた。これでは「家のために働いているのと同じ」だ。
勿論、快適な家で規則正しい生活を送り、きちんと仕事をする。子どもと広い家でゆったり過ごせる。この体験自体、プライスレスといえなくもない。
でもこの状況をあと1年、3年、5年と続けたいかと自分に問うと、違和感が残った。ちょっと思い切ってもいいタイミングかもしれない。HOMEは維持して、HOUSEは手放すのだ。
余談
おはぎの記事を書いていた頃、私は子どもの進学のため海外へ飛ぶつもりでおり、モノを選別している最中だった。
(ちなみにその計画は延期になってはいるが、生きている)
当時は94Lの大型スーツケースに納まるだけの荷物で渡航する予定で、相当シビアにモノを処分していたと同時に、価値観に合うモノを探すことにも積極的だった。
海外移住と車上生活、どちらも「モノを選別する」のは同じ。そして意外と相違点もある。その話はまた次回以降に。
ここまでご覧頂き、ありがとうございます。 各地で得た経験を読者の方に還元できるよう、精進します😊