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【駄文リサイクル】浦島太郎
概説
パソコンやUSBの中のデータを整理していたら大学時代に授業の課題で書いたショートショートが出てきた。今でも母校でこの授業が行われているのかは不明だが、この授業ではアンジェラ・カーターの『血染めの部屋』や、倉橋由美子の『大人のための残酷童話』などよく知っている童話を語りなおした作品群をキーテキストに、ジェンダーやフェミニズムを考えるというものだったと思う。
そして授業の最後、受講者もそれぞれ童話の語り直した作品をしたため、お互い読み合う訳である。普通ならこういったものは、「黒歴史」としてそっと仕舞い込むのだろう。ただ個人的にはそれなりに気に入った作品であったし、周囲の評判もそれなりだったので、何となく手を入れて投稿してみた次第である。
「浦島太郎」本文
「火、もらえますか?」
深夜の喫煙所で、丸く肥った男が俺に言った。
断る理由もないので、俺は男の煙草に火を点けた。
ただライターを渡せば良かっただけかもしれない。
ライターに火を点け、もう片方の手を風防にして、男の煙草の先に火を点けた。
男は丁寧に俺に向かって会釈をした。
男の服装は糊のきいた白いシャツにベスト、皺のないスラックス。
服装的にどうやら職業はタクシー運転手らしい。
そういえばこの喫煙所の近くにはタクシー乗り場がある。
男の皺のない服装に対して、俺は汚れたコートに無精髭。
途端に自分が衣服と同じくみすぼらしい存在に感じてきた。
俺は半年前に、仕事と家族を同時に失っている。
「ありがとうございます。お礼にお家まで送って差し上げましょう」
男は俺に向かって確かにそう言った。
俺が耳を疑ったのは言うまでもない。
わざわざ煙草の火ぐらいで? それとも何か裏が? 色々な疑念が俺の頭を巡った。
「煙草の火ぐらいでわざわざ……。しかし、折角ですから言葉に甘えます」
男は莞爾と俺を見た。
家といっても、俺の家は僅かな貯金と日雇いでしがみついている古いアパートだ。
アパートは汚れた六畳一間にキッチン三畳。必要最低限の家具と衣服があるだけ。
雨風をしのぐためだけに借りているものだ。
積極的に帰る理由もないが、交通費が浮くならそれで良い。
俺は男の運転するタクシーに乗った。
車に乗るのは久しぶりだ。
定職に就いている時は、通勤は専ら電車だった。
すし詰めの電車に揺られ、会社に着くだけでクタクタになってしまう。
周りの乗客もスーツを身に纏い、欠伸を噛み殺していた。自分と似た没個性な存在だった。そして自分もその塊の一部を成していた。
翻ってタクシーの車内はゆったりとしている。後部座席には自分一人しかいない。
交通費を吝嗇って自分の足で普段歩き回って疲れが溜っていたのか、俺は微睡んでいった。そして――
気が付くと家に着いていた。どうやら俺は眠ってしまったらしい。
「ありがとうございます……」
ぶっきらぼうな俺の言葉に、「いえいえ」と男が返す。
俺は車から出て、アパートの階段を上る。
アパートのアルミ階段はすでに古く、俺が階段に足をかける度に軋む音がする。
俺は部屋の前で立ち止まった。
必要最低限の物しかなく男の独り身のため散らかり放題の部屋――のはずだった。
部屋の扉を開けると、いつもの黴臭さや埃っぽさも一切なく、灯りが点いている。
それに暖房も入っていて暖かい。
不思議に思っている中、「お帰りなさい」という女の声がした。
奥から出てきたのは、薄い化粧にエプロン姿の女――。
別れた筈の妻が目の前に現れたのだ。
俺の曇った顔を見た妻は「どうしたの?」と声をかける。
「いや、別に……」と、俺は素気なく返し部屋に上がった。
食卓には妻の手料理が並ぶ。
白米と油揚げとわかめの味噌汁、肉じゃが――何の変哲もない家庭料理だ。
妻と別れてからコンビニ弁当やファストフードしか口にしていない。
そんな俺には素朴な家庭料理もかなり美味しく感じた。
妻はただ微笑んで、食事をとる俺の姿を見ている。
翌朝。
俺は目を覚ました。
煎餅布団の万年床も、俺の留守中に妻が干したのか陽の匂いがした。
寝ぼけ眼で食卓を眺めると、すでに朝飯が準備されている。
妻はというと、既に起きて着替えも済ませ、俺の寝床の傍ら洗濯物を畳んでいた。
目覚めた俺に微笑みかける妻。
(夢ではなかったか……)。俺は着替えを済ましてから椅子に座り朝食を摂った。
俺はふと、視線を台所へ向ける。
ガス台の上に弁当箱が一つ。
仕事があるわけでもないが、俺は上着を着て部屋を出ようとする。
その時、妻が「はい」と、やはり微笑みを俺に向けながら弁当箱を差し出した。
「ああ……」と、素気なく受け取る。
「……おかずは何だ?」と聞いてみた。
いつもだったらこんな事は聞かない。
(折角作ってくれたんだ、少しは話さないと……)。
自分なりにも気をつかったつもりだ。
「お昼までのお楽しみ。絶対に、お昼まで開けないでね」
妻の返答はごくありふれたものだったが、声は沈み顔も暗い。
(何か気に障ったのか……)と思いながら、部屋を出る。
妻の顔に現れた蔭りが気になりながらも、見なかったことにして俺は部屋を出た。
思えば、こうしたコミュニケーション不全が離婚の根本の原因だったと思う。
反省も自己分析も出来ているが、しかし人間、簡単に変われない性らしい。
行くあてもなくフラフラしていると腹が空いてくる。
俺が行き着いたのは隣町の公園。
無人の上に、まだ十時。
空腹に耐えきれなくなった俺は、弁当箱に手を伸ばす。
妻の言葉が頭に渦巻いた。
「絶対にお昼まで開けないでね」
しかし、俺はそれを振り切って弁当箱を開けてしまう。
一瞬、俺の視界がぼやけた――。
まるで弁当の中から霞か靄が溢れ出したように見えた。
徐々に明らかになる弁当箱の中身。
しかし、俺の目に映ったのは、白米でも、おかずでもなかった。
妻が古アパートから出ていく様子が弁当箱に映し出される――。
弁当に映された妻の姿は錯覚ではなく、真に迫ったものだと感じた。
いや昨晩から今朝にかけての出来事か夢か幻だったのかもしれない。
(たった一晩だけ夢が見られたのだ。それで良いじゃないか)。
小さく乾いた笑いを漏らしながら、俺は公園のベンチに腰掛けた。
足も腰も普段より重い。
何だか一晩で十年も年をとったような気がする。 (完)