【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_8
高温に熱した鉄板に肉を載せた瞬間の、じゅぅうううという暴力的なまでに食欲を刺激するあの音に鼓膜を揺さぶられ、僕はたまらず生唾をのんだ。
焼いているのは分厚くステーキカットにされた霜降り牛。
キッチンにあるものは何でも食べていい、とヤカタさんは言ったが、そもそもキッチンには冷凍庫しかなかった。それも、狭い1Kのキッチン部分から今にもせり出してきそうな、業務用とおぼしき冷凍庫だ。
"冷凍庫"にはおよそ肉しかなかった。
手に取る限りの、肉、肉、肉。赤身から骨付き、霜降りからなにかの筋らしい部位にいたるまで、冷凍肉のフルコースだ。
肉食か草食かで分けるとするなら、ヤカタさんは肉食だと断言できるが、まさかここまで度を越した肉食だとは。
草食な僕は肉の部位に詳しくない。たぶん味の違いもわからない。が、牛肉と豚肉の区別はつくし、筋張った肉よりも霜の入った肉のほうが旨いことはわかる。僕は肉の山から牛肉らしき肉を選り分け、解凍し、昼から肉を焼いている。
家主のいないヤカタさんの部屋で。仕事の昼休みに。
じゅぅうううう、と焼けた肉から煙が立ち昇り、そこでようやく換気扇を回してないことに気づいた。壁一枚を隔てて隣の僕の部屋と全く同じつくりの換気扇は、僕の部屋と全く同じ音を立てて、ガコンと動き出す。
キッチンには冷凍庫と僕。
リビングにはスーツケースが二つ。
机もなければテレビもなく、空っぽのコンセントには僕の社用PCがつながっているだけだ。
空港での騒ぎはすぐにニュースに取り上げられた。予定していた飛行機が欠航になったことを電話で上司に伝えると、いとも簡単に出張はとりやめになった。
<出社してもらってもいいが、スーツケースもあるだろう>
「はい、スーツケースはありますね」
僕はヤカタさんを見る。ヤカタさんの脇には、スーツケースが二つ並んでいる。
<一度家に帰るなら、今日はそのまま在宅勤務でもいい。決めていいぞ>
「どうしましょう」
ヤカタさんは僕を見た。吸い込まれそうなほど妖艶な目。
<迷うくらいなら、出社してくれ。そのほうが何かとやりやすいしな>
「いえ、決めました。今日は在宅で仕事します。では」
<おい──>
僕が自宅の鍵を落としていたのに気づいたのは、玄関前まで着いてからのことだった。
「どうかしましたか?」
「鍵がないんです、家の」
「スエヒロさん、どこで落としたか覚えてますか?」
そう言ったヤカタさんはすっと目を細めた。
「わかりません」
「こういう風に、よく、鍵を落としたり無くしたりしますか?」
「しない方、だと思いますけど」
実際、パスワードはよく忘れる。スマホの暗証コードやキャッシュカードの番号はまだしも、通販サイトのパスワードは怪しく、昔のメールアドレスともなるとほぼ完全に忘れいている。
でもアナログには強い、はずだ。
「スエヒロさん」とヤカタさんは囁いた。「しばらく私の部屋に居ていいですよ」
「いいんですか」
「いいんです」
でも、と続けたヤカタさんは、少し考えるふうに自分の頬に触れたあとで、「2つ条件があります」といった。
一つ。元々部屋にあるスーツケースには絶対に手を触れないこと。
二つ。夕方に業者が来たら、空港で増えたスーツケースを預けること。
「このあとは別の用事があって、夜まで戻らないつもりですが、それまでわたしの部屋にいてもらえますか?」
「そんな、すぐ鍵屋を呼びます。玄関さえ開けば中に合い鍵もありますし」
「嫌ですか?」
「えっ」
「わたしの部屋で夜まで過ごすのは、嫌ですか?」
ヤカタさんが一歩距離をつめてくる。上目遣いと、鼻先をくすぐる爽やかで甘い匂い。抗えるはずもなく、僕はふたつ返事でヤカタさんの部屋にとどまることを決めた。
その判断が正しかったことを知ったのは、ほんの数時間後のことだった。
違和感のきっかけは、音だった。
業務用冷凍庫が放つブーンという一定の重低音のはざまに、足音が聞こえた。近隣の住民が返ってきたらしい、と思ったのもつかの間、鍵が挿し込まれ、玄関が開く音。
すぐ近くだ、とぼんやりと認識した瞬間、僕は違和感の正体に気づいた。
僕の家だった。
静かな部屋の中で、心臓の音がやけに大きく聞こえる。足音は複数。耳を当てた壁一枚を隔てた隣で、部屋が荒らされていくのを、僕はじっと聞いていた。リアルタイムで。
(つづく)