【連載小説】パラダイス・シフト_8

「それは本当なのか?」
 おれが聞くと、工藤の震えは止まった。よほど強く押さえていたのだろう、目頭にはくっきりと指の跡が残っている。
「こんな顔で冗談を言えるとしたら、僕はアカデミー賞候補だろうね」
「工藤、軽口はいいから、イエスかノーかで答えてくれ」
「イエス」
 なんてこった。工藤は「僕らは、狙われているらしい」と言った。僕ら。工藤、マーガレット、だけなんてことはない。「ら」にはおれも含まれている。
 スマートフォンをダブルタップして画像を拡大する。血と同じ色のメッセージは拡大するほど粗く不鮮明になり、縮小しても読み取れない。描いた本人が意図的にやったのかはわからないが、結果として、メッセージは画面上では読めない。
 思わずスマートフォンを投げ出しそうになって、気づく。
「おい、工藤。おまえはこれを解読したから、そんなに怖れているんだよな。なあ、なんて書いてあるんだ?」
「ロトカ・ヴォルテラ」
「ロト……カボ……なんだ?」
「やれやれ。今日はあまり話したくないんだ。すまないけど、マーガレット、説明してあげてくれないかな」
 マーガレットはしぶしぶといった様子で腰を上げ、「ついてきて」と言った。勝手に巻き込んでおいて、何も知らない相手に対しての説明を怠るなんてあんまりじゃないか、と出かかったが、おれの職場もだいたい同じようなものだ。おれたちは、知っていることを話したいときと、話したくないときがある。今は後者なのだろう。

***

 はじめて入る部屋には、ホワイトボードだけが設置されていた。
 マーガレットは2色のペンを使って、2つの曲線を描いた。2つの曲線は同じような波を描いているが、微妙にずれていてぴったり重なり合うことはない。
「これが、ロトカ・ヴォルテラの方程式を簡単にしたもの。横軸は時間、縦軸は……そうね、個体数と考えて」
「個体数」
「横軸がゼロ地点のとき、上にある線が捕食者。下にある線が被食者。意味は説明しなくてもわかる?」
「食べる者と、食べられる者」
「そう。捕食者が多くなれば、被食者が減少する。すると、食料に飢えて捕食者も減少していく。そして個体数が逆転する」
 マーガレットは2つの曲線が交差した地点を差した。ゼロ地点では上にあった曲線は交差した地点を境に、大きく下に沈んでいく。
「食べるものがなくなって、捕食者の数が減ることはわかる。でも、被食者が増えるのはどうしてなんだ?」
「それは、被食者が自然に増殖すると仮定しているから。捕食者からすれば食べるものが減って飢え死んでいくけれど、被食者には食べものがあるってこと」
「なるほどな」
「そして、被食者が増えると、それにしたがって捕食者も増える。それを繰り返していく」
 ロトカ・ヴォルテラなるものの意味は、なんとなく理解できた。しかし、拭いきれないのは、どうしてその言葉に対して工藤があれほどの反応を見せているのか、という点に尽きる。
 それを伝えると、マーガレットは「あたしたちは、今、捕食者なの」と言った。
「捕食者?」
「ええ。パラダイスを振ることで未来を変えることができる。逆に、被食者側の一般市民は、未来を変えられる立場。そういう力関係になっている」
「でも、工藤はパラダイスを振って磯貝の命を救ってくれた。このなんとか方程式にはあてはまらない」
 ねえ、カジカジ、とマーガレットが言う。その口調があまりにも真剣なそれだったから、おれは思わず背筋を伸ばす。
「パラダイスがあたしたちだけの特権だとでも思っている?」
「え、いや」
「いい? サイコロひとつで他人の未来を変えることができると知ったとき、悪いことを考える人間がいないはず、ないでしょ?」
 どういうわけか、おれはダイナマイトのことを考えていた。自動車だってそうだし、包丁だってそうだ。使い方によっては、他人を傷つけることもできる。そして、このサイコロも――。
「そういう組織があるの。それがロトカ・ヴォルテラ。彼らが望むのは、ロトカ・ヴォルテラの方程式を壊すこと。つまり、被食者を根絶やしにしても、自分たちが生存できる世界を構築すること。あたしたちの使命は、それに抗うこと」
「ええと、つまり」
 必死に整理しようとするが、背景があまりにも大きくなりすぎて思うように飲み込めない。
「君たちは、悪の組織に対抗する正義の組織ってこと?」
「2つ間違っている」
「この短い質問の中で2つも」
「ひとつ、あたしたちは正義の組織ではない。だって、他人の未来を変えることが正義なわけないでしょ。ロトカ・ヴォルテラに対抗するという大義名分があれば、何をしてもいいわけではない」
「まあ、それはそうかもしれないけど」
「それから、もうひとつ。君たち、じゃなくて、あたしたち。あたしと、クドウと、アンタ」
 おれは両手を広げて、「ちょっと待ってくれ」と言った。「頭数に入るのが早すぎないか?」
「あら、あなたはテストに合格したじゃない?」
「テスト?」
「パラダイスに頼らずに、自分の力で未来を変えようとした」
 おめでとう、とマーガレットはホワイトボードを回転させた。幼稚園児が描くような、丸と線だけで構成された太陽を模したマークが現れる。
「アンタは、マーガレット団の仲間になったのよ!」
 後にも先にも、このときほど悪の組織「ロトカ・ヴォルテラ」に憧れたことはない。

(つづく)

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