【連載小説】パラダイス・シフト_7
例によって例のごとくサービス残業を1時間半ほどこなして会社を出たおれは、しかし、いつもとは違う電車に乗って、また西新宿の裏路地にひっそりとたたずむ≪パラダイス≫に足を運んでいた。
夕方以降本降りになると聞いた天気予報に従ってコンビニで雨傘を買ったのはいいが、喫煙所の隅に立てかけておいたのがいけなかったのか、気づいたら忽然と消え失せていた。だからおれは、雨に濡れている。
「ちょっと、フロアがびしょびしょなんだけど」
と、入り口で出迎えたマーガレットはおれのつま先から頭のてっぺんまでをじろじろと眺めるや、心底いやそうに顔をゆがめて、カウンターテーブルの端に放置されていた台拭きを放ってよこした。
こいつはおれが「三人目」に選ばれたのが気に食わないらしく、前回からずっとこの調子だ。台拭きを投げ返すのと、犬のようにブルブルと水滴を飛ばしてやるののどっちにするか、それこそサイコロを振って決めてやろうかと大人げないことを考えているうち、横からアイロンがけされたハンカチがすっと差し出された。
「水もしたたる何とやら、だね」と、ほほえむ工藤。
おれは工藤に礼をいって、台拭きの方は紳士らしく丁寧に折りたたんでからカウンターに戻した。ついでに、先ほどからグラスを拭きながら耳をそばだてている無口なバーテンダーにも会釈。
「この調子だとしばらく止みそうにないけれど。傘は持ってなかったのかい」
「持ってたが、気づいたら消えてた」
「自分で置き忘れたんじゃないの」とマーガレットが嫌味をいう。
「馬鹿をいうな。買ったんだぞ、新品だったんだ」
「また買えばいいじゃん、傘くらい。最悪コンビニでだって売ってるんだから」
そういったマーガレットの顔はきょとんとしていて、それが余計におれには堪えた。おれが失くしたのが新品のコンビニ傘だったことは、絶対にいわないと心に決めた。
「まあ、そういうときもあるよ。傘は天下の回りものというからね」
工藤はおれの羞恥と怒りとみじめさに打ち震える内心を知ってか知らずか,上機嫌ににたにたと笑っている。いつもに増してやけに調子がいいと思っていたら、どうやらもう相当飲んでいるらしい。自分の言葉に酔っているだけで,他意はなさそうだ。
「傘は天下の回りもの、か」
「お金の間違いじゃないの?」
いや、と返しかけた口をおれはつぐんだ。
金が天下の回りものなら、おれの元にも回ってこなければおかしい。ビニール傘の一本や二本で歯を食いしばっているはずがないのだ。
「さて,そろそろ本題に入ろう」
工藤は何杯目かもわからないハイボールらしき酒を流し込むと、おもむろにジャケットの内ポケットから薄いスマートフォンを取り出した。先月発売したばかりの、最新式の小型モデルだ。
手垢に汚れたおれの中古品とは違い、画面は表面張力で張った水面のようにつるりとして滑らかだ。映像もくっきりとして鮮やかで、だからこそ、ざらついた街壁と濁った夜の質感が浮かび上がって見えた。
「何なの、これ」
腕組みをするマーガレットは怪訝そうな顔をしている。
それもそのはず、神妙な顔で差し出された画像には、どこにでもある無人自販機と繁華街の壁が映し出されているだけだ。気になるところは何も……
いや、一つだけある。
「落書き、なのか? これは?」
おれは落ち着いた照明のなかで目を凝らして、コンクリート製の壁にぶちまけられた奇妙な染みを見つめた。色はうごめくような真紅。文字らしきものが書いてあるようにも思えるが、意図はつかめない。
「落書き、か。そうとも言えるし、そうでないともいえる」
「どういうこと?」
「これはメッセージだよ。明確な意図をもって描かれた、ね」
工藤は酔いの回った舌でひと言ずつ確かめながら発音するかのように、ゆっくりとそう言った。
「メッセージ? これがか? どうしてわかる?」
「話すと長くなる」工藤は首を振って、「結論から言おう。僕たちは危険な問題に巻き込まれつつある」
「危険な問題って?」
「僕たちの他に、未来を改変している存在がいる。そしてどうやら僕らは、狙われているらしい」
カタカタと机が鳴る。工藤がスマホを置き、目頭を押さえた。
そのとき、おれははじめてスマホをもっていた工藤の手が細かく震えていたことを知った。
(つづく)