【連載小説】雨恋アンブレラ_5

 3つの条件がそろった。
 けれどわたしは一人でバスに乗り、天海君が隣にいない窓際の座席で、信号待ちで止まるたびにお尻から突き上げてくるようなエンジンのうなりを感じながら、じんわりと外気の熱を伝えてくるぬるい窓ガラスに頭をつけて、見るとはなしに雨の景色を見ている。いくら条件がそろっても、天海君が休んでしまっているのだから、一緒に帰れるはずはない。
 思い出されるのは、先週のこと。
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろうかと、考えれば考えるほど恥ずかしくなる。からかわれているのだとわかっていても、いや、わかっていたからこそ、その精神的な余裕の埋められない差にはむかってみたくなったのだ。
 誰もいない、ふたりきりの教室で、わたしは天海君の手を取って頬に当てようとして。結局、驚いた天海君が手を引っ込めてしまい、なんだか少し気まずい雰囲気になって、そのまま。
 普段からクラスでよく話すというわけでもないし、目が合うこともめったにはなかった。でも、先週のあの日から、天海君とわたしの間にある何かが少しだけ、でも決定的に変わってしまったような気がする。きっとあのとき、少しひんやりして骨ばった、皮の薄い天海君の手を頬に当てられたなら、また違う変化が起きていたような気がする。あくまで、気がする、だけれど。
 焦り、戸惑った天海君の顔を思い出すたびに、胸の奥の不透明でやわらかいものがぎゅっと熱くなるような感じがする。
 光の加減で、窓ガラスに遠い昔に指で書かれたらしい、相合傘の落書きが映った。名前はつぶれていてもう読めない。けれど、ぐにっと歪んだハートの形と、簡略化された傘のマークは意外とくっきり残っている。
 これはいたずらなんだろうか?
 それとも、恋? ほんとうに?

 文化祭まであとひと月を切っていた。
 展示作品として描いている例の絵は、まったくはかどっていない。わたしは完全下校時刻ちかくまで居残りを続けながら、でも、ほとんど展示作品に手を付けられない日々を送っていた。
 集中できないのが一番の理由だった。
 あの昼休みの一件を思い出してしまうから、とか、展示したあとにみんながどういう顔をするのかが怖い、というのではなく。ただ単純に、自分が本当に求めていることが自分の絵には形にできていない気がして、それでもその正体がわからなくて、もやもやが晴れなくて。わたしはあるかないかもわからない、本当に自分が求めているものを探し求めて悶々としていた。

「かー、萌歌は詩人だねえ」
 購買で買ってきたカツサンドをほおばりながら、千里は笑う。背もたれにまたがるように座っているから、スカートの裾から日に焼けた太ももがむき出しになっている。
「笑わないでよ。あと、それパンツ見えそうだから」
「いーじゃん、見えたって減るもんじゃないし」
 ほれほれ、と千里はスカートの裾を持ち上げたり戻したりして見せる。わたしは千里の斜め後ろで昼食をたべている男子グループの視線がちらちらと千里の脚にむけられているのに気づかないふりをして、はぁ、とため息をつく。
「萌歌もさー、身体動かしなよ。頭空っぽになるまで走ればたいていのことはどうでもよくなるよ」
「運動が嫌だから文化部に入ったのに」
「でも美術部選んだのは絵が好きだからでしょ?」
 少し前までなら、即答していたはずだった。わたしはなんとなく目をそらして、「まあそんな感じ」と濁す。
「千里が陸上部に入ったのは走るのが好きだから?」
「んー」と千里はコーヒー牛乳に刺したストローをくわえて「よく考えたらそうでもないかも? なんか人より走れるっぽいし、向いてんのかなーって気がしてたから、好きだと思ってたんだけど」
 それも勘違いだったみたい、と競技大会で惨敗した話をあっけらかんと話す千里を、わたしはまっすぐに見ることができなかった。。
「好きだと思ってたことが実は好きじゃなかったって、たまに気づくことあるよね。かけてきた時間とか努力とかを思うとちょーっとだけつらいけど、でも、気づいちゃったものはしょうがないし」
 人より絵を描くのが得意だから、わたしは美術が好きなのだろうか。自分を直視して、なお開き直れる千里の強さがまぶしかった。誰でも一度は似たようなことを考えるのだろうけど、今は、どうしてもわかるとうなずきたくなかった。
「え?」
「じゃあ、なんで千里は陸上続けてるのさ」
「痩せるし」いたずらっぽく白い歯をのぞかせて、千里が笑う。
 どっと肩の力が抜けた。たしかに千里はスタイルがいい。長距離選手特有の、バランスがよくて無駄のない体つきをしてる。いつもハイカロリーなものを食べている印象があるけれど、それだけ、消費するエネルギーが多いということなんだろう。
「いいなあ、スタイルよくて。羨ましい」
「そんなこと言ったら、あたしは萌歌が羨ましいよ。絵うまいし。それに、好きなものに一直線って感じがしてさ」
 話題はそれから、芸能人の浮気ゴシップに流れてしまった。
 わたしは自分で気づかないふりをしていた、決定的に変わってしまった何かの正体が遠い霧の向こうに見え隠れしているような気がして、ずっと、心が落ち着かなかった。


(つづく)

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