【連載小説】雨恋アンブレラ_4
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「自分で蒔いた種は、咲かすも枯らすも自由だが、責任を持って面倒を見ないといけない」
なにそれ、ニーチェ? と櫻井美姫が言う。
「おれ」
教室の床に寝そべった歌川萌音を一瞥して、天海陸はため息をついた。数分前の自分に、首を絞められているかのようだ。
「美姫、先に帰ってていいよ。あとはおれがなんとかする」
「そんなに、コイツとふたりきりになりたいの」
「そんなことは言ってない」
「別にいいよ。じゃあね」
櫻井美姫の機嫌は足音で判断することができる。教室を出ていく櫻井美姫の足音が、甲高く大きいものであったことは言うまでもない。
天海陸はまたため息をつく。
******
風が吹いたような気がした。
夏に海で吹く涼しい風ではなくて、駅のホームに電車が入ってきたときほど強くもない。
生ぬるくて弱い風――。
「え……え!」
目を開けると、天海くんの顔があった。天海くんの、顔?
「ああ、やっと起きたか」
やっと起きた? それでわたしは自分の体が横たわっていることに気づいて、体を起こしたら、天海くんの向こう側にあれが見えた。
「ひっ」
「ああ、驚かせてごめん。文化祭でお化け屋敷やるでしょ。それで誰かをサプライズで驚かせたいなあ……って思ってて。黙っててごめん。てか、黙ってないとサプライズにならないか。ハハ」
いろいろ聞きたいことはあったけど、まず出てきたのが「櫻井さんは?」だった。
「あいつは仕掛人的な。ほら、他に驚いている人がいたほうが、もっと驚きが大きくなるというか。相乗効果みたいな」
「なんで……」
「なんで?」
「なんで、わたしなの?」
「誰でも良かった、わけじゃないんだ。ほら、歌川さんは部活のほうが忙しいから、クラス企画の手伝いとか参加できていないでしょ」
あなたのことを描いている、とは口が裂けても言えない。
「ごめん……」
「いや、責めてるんじゃなくて。だから、おれらがどういうものを作っているとか、知らないなじゃないかと思ってさ。知っている人は驚かすことができないし、別のクラスのやつには内緒にしておきたいし」
「でも」わたしじゃなくなっていいじゃないか。それとなく理由をつけて呼び出すなら、誰だっていい。
「っていうのは口実なんだけど」
口実?
「驚いている顔が見たかった。倒れるくらいまで驚くとは思わなかったけど」
******
すでにため息をふたつついた天海陸は、今度は嘘をついた。
天海陸が歌川萌音を選んだのは、騙されやすそうだから、という理由に過ぎない。それはオレオレ詐欺のグループが老人をターゲットに選び、若者を選ばないことと同じだ。ダーツで喩えるならば、高得点の中央だけを狙った結果ばらついて小さな得点を刻むことになるくらいであれば、一定以上の得点が期待できるスポット重点的に狙うようなものだ。
それを言うならば、ダーツの矢を投げたのは天海陸だが、狙う位置を指示したのは、つまり歌川萌音を選んだのは、櫻井美姫だ。
そして、そこには「騙されやすそうだから」以上の理由が隠れているが、それを天海陸は知らない。天海陸が知り得ないことは、ここでは語ることはできない。
なぜなら、これは天海陸の視点だからだ。
さて、状況を整理したところで、話に戻ろう。
天海陸がついた「驚いている顔が見たかった」という嘘によって、歌川萌音は完全にノックアウトされている。気をつけて! 騙されているよ! と教えることはできない。なぜなら、これは天海陸の視点だからだ。
恋愛をはじめとした人間関係とは、難しいものだ。本音を隠し、建前の仮面を被り続ける。与えられたキャラクターを演じ、気づけば自分を見失っている。それなのに心の奥には信念みたいなものが存在していると思い込み、いつか仮面をとることができるのではないかと淡い期待を抱いている。
はっきり言ってしまえば、天海陸は歌川萌音をからかっている。相手が自分に好意的な感情を持っていることに気づいたうえで、それをうまく利用してやっている気になっている。
それだけ聞くと、最低な人間だと思うかもしれない。だが、怒らないであげてほしい。彼もまた仮面に操られているだけなのだから。
本音の部分ではどう思っているのか、まだ天海陸は気づいていないだけだ。それを変えられるかどうかは、実は歌川萌音にかかっている。
******
熱い。体が熱い。顔も熱い。
そのまま蒸発して、全身が気体になってしまいそう。やかんのお湯だったらとっくに沸騰しているし、鉄だったら打たれている。
「大丈夫? 顔、赤いけど」
そんなことを言われたら、よけいに赤くなってしまうと、天海くんはわからないのだろうか。いや、天海くんのことだから、わかって言っているのかもしれない。きっとわたしのことを、からかっているのだ。
これは、あれだ。
好きな人にちょっかいを出したくなる心理に違いない。
でも、わたしはどうすればいいんだろう。天海くんの言動に恥ずかしがっているだけだと、いつまでたっても距離を縮めることはできない。少しくらい、強引になってもいいんだろうか。それともありのままで、天海くんの一挙手一投足に感じるままの反応をすればいいのだろうか。
「そんなに赤い?」
「すごい赤い。熱あるんじゃない?」
「触ってみる?」
「は」
「触って……みる?」
******
この正確に繰り出されたボディブローは効いた。意表を突かれた天海陸の「は」という声がすべてを物語っている。すかさず間合いを詰めて、もう一発。一発目とは違うリズムでパンチを打ち込む。
これはすごい。下剋上、大番狂わせ、ジャイアントキリング、とにかく形勢逆転が起きるかもしれない。天海陸の仮面が剥がれるときが、刻一刻と迫っている。
これだから、恋愛小説の語り手はやめられない。
(つづく)