【連載小説】雨恋アンブレラ_3

 3

 その日、ミキちゃんは朝から機嫌が悪かった。
 昨日、一昨日と学校を休んでいたから、一昨日のお昼休みのことは知らないはずなのに、知っているとしか思えないような機嫌の悪さだった。
 ハイヒールを履いているのかと思うくらい足音を鳴らして教室に入ってきたかと思えば、机に鞄を放り投げて、すぐに出ていった。
 その数秒だけで、教室の空気が凍りついた。わたしの下腹部は生理のときみたいに痛みだして、背中を丸めて痛みをやり過ごすことしかできない。
 机の上に投げ出した両手の中で、スマホが震えた。突っ伏したままLINEの通知を見ると、天海くんだった。
〈あとで話せる?〉
 クラスLINEに入っているのだから、「友だち追加」は簡単にできるけど、その勇気はなかった。この前電車で一緒に帰ったとき、話が盛り上がっている途中でわたしの最寄り駅に着いてしまって、話の続きをするために天海くんからメッセージが届いたのだった。
 それから、LINEでちょこちょこと話をするようになった。教室ではふつうの関係なのに、スマホの中では親密になれた気がしていた。
 そんなときに――。
 二日前を最後に、天海くんとのLINEは途切れていた。
 それとなく天海くんの席のほうを見たけど、天海くんはわたしのほうを見ていない。
〈直接?〉
 わたしが送ると、天海くんの顔が下を向いた。
〈そう 放課後〉
 天海くんが何を話そうとしているのか、わたしにはすぐにわかった。スケッチのことだ。
 どういうわけだか、あのスケッチを描いたのがわたしだと、誰も気づいていないようだった。クラスで美術部に所属しているのは、わたしだけなのに。真っ先に疑われても仕方がない。
 でも考えてみれば、美術部ではなくても絵を描いたっていいし、「テストの範囲表」、どのクラスの人も持っている紙の裏に描いていたのが不幸中の幸いだったのかもしれない。お昼休みということもあって、クラス関係なく教室の出入りは盛んだったし。
 なんて無理矢理自分を納得させていたけれど、天海くんは絶対に気づいている。そして、ミキちゃんにも話したんだ。そうに違いない。
 放課後、呼び出された場所に向かうと、天海くんとミキちゃんが二人で待っているはずだ。ミキちゃんがヒステリックに「最ッ低」と言う声が簡単に再生できる。天海くんはたぶん何も言わない。黙っている。だから、どう思っているのかわたしにはわからない。嫌なら嫌だと拒絶してくれればいいし、「いい絵だね」なんて褒めてくれることはないだろうけど、せめて何か言ってほしい。
 そんなことをぐるぐる考えていたから、授業はいつも以上に頭に入ってこなかったし、放課後はすぐに訪れた。

 わたしは一度美術室に向かい、荷物を置いて、天海くんからの連絡を待った。天海くんは放課後そのまま教室に残って、教室から人がいなくなったタイミングでわたしを呼ぶ、そういう段取りになっていた。
 10分もしないうちに、スマホにメッセージが届く。ミキちゃんに問い詰められたときの言い訳をずっと考えているけど、何も出てこない。
 天海くんがカッコよかったから。ダメ。直接的すぎる。
 天海くんが描きやすかったから。良さそうだけど、ダメ。だって、天海くんはちっとも描きやすくない。
 天海くんに頼まれたから。ダメ。ただの嘘だし、口裏を合わせられていない。
 天海くん――。
「いった」
 相手が発した声のほうが、わたしの痛みよりも先に届いた。その声はわたしよりもずいぶん低い位置から聞こえた。
「ミ……櫻井さん……」
 わたしがぜったいにミキちゃんと呼べない相手、櫻井さんは、廊下に座りこんで華奢な脚を投げ出していた。
「ちょっ、マジいたい」
「ごめ、ごめんね。わたし、考えごとをしていて……」
 ミキちゃんはむすっとしていたけど、怒っているふうではない。どちらかというと、ふてくされているような感じだ。「ちょっ、マジいたい」も、痛い思いをさせたわたしが言うのもおかしいけど、不思議なあたたかさを感じた。
「どこ行くの?」
 なんてことのない問いかけだけど、いちばん返答に困る。トイレ、と嘘をつくことは簡単なのに、「教室に、忘れ物を取りに」なんて、中途半端な嘘をついた。
「ふうん。ヒマだからあたしも着いていく」
「え」
「ダメ?」
 ダメに決まっている。だって、教室には天海くんとミキちゃんが待っていて、わたしのことを問い詰めようとしているのだから。
 ミキちゃん?
 ミキちゃんはここにいる。ということは、ミキちゃんは教室にいない。じゃあ、天海くんはどうしてわたしのことを呼び出すの?
 混乱したわたしのことなど気にかけることもなく、ミキちゃんは「ほら、行くよ」と歩いていく。わたしは数歩後ろを歩きながら、天海くんにメッセージを入れようか迷っていた。
<今から櫻井さんが教室に行く>
 でもそれを伝えたところで、何になるのだろう。

 教室の扉を開けたのはミキちゃんで、わたしはその後ろからそっと様子を窺った。
 その瞬間、わたしの心臓が大きく跳ねた。
 大きな声がしたからだ。
 それは、ミキちゃんが発した叫び声だった。
 ミキちゃんが見たものを、遅れてわたしも見た。
 教室の机は四方に寄せられ、中心を丸く囲んでいる。
 その中心には、どんな絵具でも表現することができないような、黒々とした赤色の海が広がっていた。
 風がひとつ吹いた。
 開け放たれた窓からは、ペトリコールのにおいがした。

(つづく)

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