【連載小説】発砲美人は嫌われたくない_2
ぱしん、ぱしん、と残業つづきの体にムチを打つ。隅をホチキス止めした資料を抱えた僕は、やっとの思いで会社の非常階段を上り終えた。
といっても、資料はものの6人分で、上った階段はたったの3階だ。
どちらもそう多くない。問題はそれが定時を過ぎてから与えられたタスクであることと、そういう仕事の振られ方が常態化して、僕の体がこってり疲れ切っていることにある。
ひとつひとつの仕事は小さいが、終わったそばから次の雑用がやってきて、気づけば当たり前のような残業コース。それがお前らのやり方か!と、頭の中でいつぞやの女芸人の声が反響するも、もやもやの行き場はない。共有スペースにある資源ごみの回収場所は教えてもらったが、頭の中にある思念ごみの捨て場は教わっていないのだ。
雑用をしているのは僕がこの小ぢんまりとした会社で一番下っ端だからで、非常階段を上り下りしているのは非常事態だからではなく、ただ単にエレベーターがメンテナンス中だからだ。就業時間を見計らってメンテナンスが行われる予定だったのだが、残業が入って僕だけが大きく割をくう羽目になった。割はくえても、飯はくえていない。ぐう、と悲しげに腹が鳴る。
「こちら、明日の資料をまとめておきましたので。これにて本日の業務はすべて終了いたしました」
んあ、と口を開けて僕を見た直属の上司──鱒沢譲(ますざわゆずる)──は、開けた口を閉じ切らないまま頭をぽりぽりとかいた。
「うん、おっけー。あれ、さっき頼んだお弁当の発注って済んだんだっけ」
「はい。本日の業務の業務はすべて終了いたしました」
「あーそっかそっか。うん、うん、そうだ──急ぎの用じゃないんだけど」
「本日の業務はすべて終了いたしました」
「うん、そう、なら手が空いてるね、ちょうどいい。急ぎの用ってわけじゃないんだけど」
「本日の業務は──」
スエヒロくん、と呼ぶ鱒沢さんの声は硬い。僕は努めてまじめに、「なんでしょう」と返した。
「最後にひとつだけ頼まれてくれないか」
「最後に、ひとつだけ、ですね。かしこまりました、何でしょう」
鱒沢さんの手にはレターパックサイズの白い小包があった。
「これに伝票を貼ってポストに投函しておいてほしいんだ。伝票は3階のコピー機の横にあるからね」
開いた口がふさがらない、とはこのことか。
「わはりまひた(わかりました)」
僕はこうしてもう一度階段を下り、伝票を入手し、三度階段を上り、鱒沢さんに確認を取り、ようやくにして帰路についた。
思い返せば定時で上がれたのは入社してから1週間程度のみで、鱒沢さんの直下に配属されてからというもの、定刻きっかりに仕事が終わったためしがなかった。次々と足されていく鱒沢さんからのタスクを揶揄して、「わんこ残業」と名付けた同期は、よく晴れた休日の朝に「ちょっといまから仕事やめてくる」と連絡を送ってきたきり、本当にいなくなってしまった。プロフィール画像のアロハシャツを見るに、どうやらいまはハワイにいるらしい。
ハワイで人生を謳歌している元同期と、いまだわんこ残業にすり減らされている自分。決定的に負けたような気もするし、根本的に勝っているような気もする。そもそも比べること自体が間違っているようにも思える。
ただ、わんこ残業のネーミングが思ったよりしっくりと来ていることが悔しい。今度ハワイで元同期に会ったらこう言ってやることにしよう、と僕は決意した。
調子はどうか、だって?
相変わらず鱒沢さんとのOJT続きだよ。君がいたころと何も変わっちゃいない。OJT(終わらせてくれ 譲(ジョー) 頼むから)さ。
2
帰りがけにスーパーで調達してきた弁当を電子レンジで温めようとして、僕はその上に置き去りにした白い箱の存在を思い出した。あたためスタート、からゆっくりと指を離し、ずしりとした重量を感じる箱をレンジから降ろす。
ヤカタさんに半ば押し切られる形で箱を受け取ってから、なんとなく開けるのがためらわれて、再び電子レンジの上に放置していたのだった。
まさか本物だとは思えないが、万が一本物だったとしたら......? 不用意にさわって指紋でもついたら、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。僕は指紋の完全なふき取り方を知らない。ソレが本物かどうかを見分ける知識もない。
あれやこれやといじくりまわしてみれば、本物かおもちゃか、というくらいはわかるかもしれないが、どうにも試してみる気が起きない。触らぬ神にたたりなし、くわばら、くわばら、と僕はレンジの上からそっと箱を下ろして、狭いシンクの脇に避難させた。なかなかどうして、ちょっとした洋菓子が入っているだけですよ、といわんばかりのこなれ感を醸し出している。どうせ自炊はしないから、レンジよりもシンク横に置いておいたほうが、じつは使い勝手がいいかもしれない。などと考えながら、ぐうぐうとなり続ける腹をなだめるように、僕は電子レンジのあたためスタートを押す。
ピンポーン。
ぎょっとするタイミングでインターフォンが鳴った。
僕は息をつめて玄関を振り返る。身に覚えのある感覚。デジャヴというやつだろうか。
足音を殺して、玄関ドアののぞき穴から廊下の景色を見た。
──ヤカタさんだ。
廊下の左右をちらちらと見ながら、落ち着かない様子で立っている。手元にビニール袋のようなものを提げているようにも見えるが、角度からしてよく確認できない。
ヤカタさんはもう一度インターフォンを押した。
今度こそ居留守を使うときかもしれない、と僕は思った。前回のこともあるし、残業で疲れてもいる。鱒沢さんのOJTと同じように、厄介ごとは立て続けにやってくるものと相場が決まっているのだ。
と、部屋の中に引き返そうとしたその時、大音量でスマホの着信音が鳴った。まずい、と思う間もなく、「スエヒロさん、そこにいますよね」
僕は仕方なく玄関を開けた。
「こんばんは」
ヤカタさんは黒目がちな瞳で僕を見つめると、単刀直入に言った。
「部屋、上がってもいいですか。立ち話も何なので」
「え」
「嫌ですか?」
「い、いいですけど。立ち話も何なので」
どうぞ、というが早いか、ヤカタさんはスッと我が家に身を滑り込ませた。距離が近づいたおり、甘いような香りが髪先から香る。僕は思わず後じさって、ヤカタさんを部屋の中に通した。出ようとした電話は、数コールのうちに切れてしまっていた。なんと間の悪い。
「それで、どうしました?」
僕がすすめた座椅子には座ろうともせず、ヤカタさんは立ったまま、くつろぎきれない僕をじっと見た。あの目だ。
「折り入って、スエヒロさんにひとつお願いがあるのですが」
「はい」真剣な声音にどきりとしつつ、僕は平然を装って「なんでしょう」と返す。
「お風呂場を借りてもいいですか」
「へ?」
「すみません、シャワーを貸していただきたいんです。今すぐ」
おかしい、妙だ、と反射的に浮かんできた声は、ヤカタさんの上目遣いにあっけなく沈められる。
「ダメですか?」
「ダメというか、びっくりしているというか」
「私が嫌いだからですか?」
悠長に考えている余裕はなく、かといって、即答で断れる力も僕にはなかった。気づけば、僕はうなづいていた。
チン、と間の抜けたレンジが鳴った。
ユニットバスから聞こえてくる水音を意識しないように、テレビの音量をいつもより少しだけ上げる。あれほどお腹が減っていたのが嘘のように、コンビニ弁当がのどを通らない。
そういえば、タオルはどうするのか。ユニットバス内にはタオルは置いていなかった。渡すべき? でも、どうやって?
視界の端で、置き去りにしたスマホの画面が光った。
この状況を打開してくれるなにかが現れるのを期待して、僕はスマホを手に取る。通知が一件。ロックを解除して、メッセージアプリを見る。
<最寄り駅まで来ちゃった! さっき電話したんだけど、繋がらなかったから急でごめんね! いまからちょっとだけスエヒロくんの家行くね♡ じゃ、もうすぐだからちょっと待ってて♡♡>
僕はシャワーの音が漏れるユニットバスを振り返って、それから両手で顔を覆って天を仰いだ。
いつだってそうだ。厄介ごとと客人は立て続けにやってくるのだ。
(つづく)
https://note.com/2nomiya_you2rou/n/n86d06f231c92
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