私が私で無くなる前に
コンテンツを「履修」したことの感想は、観た読んだ聴いただけでいい。こういう場所でつらつらと書き連ねるぶんには大いに結構だが、長々と説教臭く講釈垂れている人間はまともじゃないね。私が言うのもなんだけどさ。
言動の線引が出来ないオメーは一生ROMってろ。
俺はオメーが嫌いだよ、フィクションとリアルの区別くらいつけろ。それが出来ないならコンテンツを「摂取」しようとするんじゃねえ。結局文句つけるんだからさ。
可能性論の飛躍は社会の「平均化」、出る杭打て打てな風潮を加速させる。だったらオマエタチのその言動も「表現の自由を、他のプライバシー(笑)を侵害するかもしれない」として一律禁止になってしまえ。
さて、昨今と言えば脳死で流行を追う人間の母数が増え、そして更に言えばその「流行」は1つの柱ではなく、複数方向存在する。サブカルチャーという概念は疾うに「サブカルチャー」ではなくなった。インターネットの普及によって誰もが発信できて、何でも「摂取」できるのである種暗がりというものが無くなってしまったのだ。
境界線は既に不明瞭化し、混ざり合っている。互いが互いを侵食し合い、排他的言動も加速している。
凡そ先進国と呼ばれる国家は既に成熟し、成長は必然的に鈍化している。カウンター、アンダーグラウンドカルチャーからサブカルチャー、それらは社会の、国家、体制の加速に伴って産声をあげる。そして過渡期成熟期にかけてそれ等は前者後者共に失速し前述の様に膨張、境界線の不明瞭化が重なり既出の概念はその形を保てなくなる、形骸化する。
そう考えると、前時代的体制に抗った昨今(迄)のポリコレやフェミニズム運動、そこから反対に保守、国家主義的運動への流れは非常に反動的、謂わばカウンターカルチャーの変遷と言っても過言ではない。
歴史は、世界は、反動によって創られていく。