掃除と殺意
比例しているような、していないような?
「部屋の汚れは、こころの汚れ」
というような言葉を聞く。
確かにそれはそうかもしれない。
けれど、それは同時にこころに余裕がない表れとも捉えられるのではないだろうか。
部屋が綺麗だからといって、こころが綺麗なわけはない。
それは、わたし自身の生き様で実感できていること。
何故、掃除と殺意という繋がらないだろうものを今回タイトルにしたか?
それは、憎い人間への殺意が強まって行った末の行動が掃除になっていることに気付いたから。
掃除をするには、他にも理由があるのだけれど…相手を殺さずに殺意を一時的に抑える手段が掃除になるのだなと感じたのだ。
と殺意を込めながら、汚れている部屋の一部だけを重点的に掃除をする。
殺意は馬鹿力に変わり、こびり付いた汚れがあっという間に輝きを取り戻す。
元々わたしは握力が強いわけではないので、こういう力(殺意)の使い方は意外と掃除には持ってこいというわけだ。
結果、部屋が綺麗になるのなら良いんじゃない?笑
実際に人を殺すわけではないし、部屋も綺麗になる=部屋の見た目が良いって実質WIN-WINだ。
(わたしは、資格持ちだけで偉そうにしている元支援員や管理者にこころを殺されたけれど←)
そんな新たな気付きであった。
全く結び付かないものが、意外な形で繋がる。
こういう意外性は、自分らしさの一部になると良い武器になる気がする。
そう思っても、消えたい気持ちは変わることはない。