めでたいのか、めでたくないのか
またひとつ、年齢を重ねる。
年齢を重ねることは、わたしの中では生き延びてしまったという感覚。
そんな誕生日当日、わたしは自主的に強制休養している。
やはり、年齢の壁というのを急に感じるようになった。
気持ちは動きたい、やりたい、やらなければと思っていても身体が動かない。
身体からのSOSは、恐らくその前にこころが疲弊していたということ。
仕事しか職場しか居場所はないから踏ん張っていた結果が、知らず知らずわたしのこころと身体を壊していったということだろうか。
けれど、それだけさまざまなことをやれてやりがいを感じている。
こんな経験していいのか?という経験もさせていただけて、わたし自身色々と追いついていないのかもしれない。
わたしは、頑張ったという言葉を使いたくない。
誰しも頑張っているし、頑張ることは当たり前だと思っている。
そう考えたら、わたしの頑張りなぞちっぽけ過ぎてまだやれると思うのだ。
そうして、知らず知らずやり続けていると身体がブレーキをかけてくる。
そして、わたしは自身の無能さを嘆き責める。
これはきっと、わたしの生まれ育った環境が原因なのだろう。
母方の祖母や曾祖母はとても厳しく、頑張ることは当たり前という人たち。
父方の祖母からは長年に渡り精神的虐待を受け続けていた。
(幼少期には暴力も振るわれた。)
そして、父親からも精神的虐待を受けた。
今思えば、母親もそうだったのだろう。
(父親ほどではないにしても、そういうことはあった。)
父方の祖母や父の場合は、努力してないにも関わらず常にわたしや母を見下し続け精神的虐待をおこなっていた。
そんな家庭環境で、きょうだいもいないからターゲットは自然とわたしに向けられる。
空から見てるか、虐待し続けたお前たち。
お前たちのせいで、わたしはここまで病んでいるのだよ。
やれるものなら、お前たちにやられたことの一億倍お返ししてやりたいね。笑
中には死に逃げした愚か者もいるからね?笑
ここまで生きてきて、本当に欲しいものは今世では得られないのになんで生きているのかとまた考えるようになった。
そんなことは親たちのお陰で分かっていたのだけれど、終活をそろそろ考えようと思う年齢になって加害者である就労移行支援の支援員にまで突きつけられるって…。
あれから2年位経っているけれど、わたしは死ぬタイミングを完全に間違ったのだと今思う。
なんというか、ここまで生き延びていて…苦痛しかないのかもしれないと思った。
結局、個人の尊厳を傷付けられて非人間のゴミ屑だと弱者マウントで悦に浸る加害者のせいでわたしのこころは殺されたのだ。
そんな、所謂【人間としてのベース】を壊されてまで生きなければならないのか?という疑問を持ち続けてここまで来てしまった。
【人間としてのベース】を壊されて、仕事はうまく行ってます?
うまく行ってないし、うまく行っているように見えていたってベースがないのなら無意味だということを感じている。
さて、今年の目標は何がいいのだろう。
というか、目標なんて決めることすら億劫になってしまった。
ああ、そうか。
【死】に対しての恐怖感を減らすこと。
いつでもカジュアルに死ねると思えること。
その為に、恨み辛み何もかもすべてを遺書として残すこと。
我慢しないこと。
案外、目標ってないと思っていたけれど実行したいこと=目標になるのか。
こうやって、わたしの脳内やこころの整理として綴っていくとほんの少しだけ見えてくるものがある。
おめでとうと思えないけれど、後悔しない1年にしよう。
誕生日が嬉しいと思えない年齢になった。
ここまで生きてきて、気付けたことがたくさんあった。
シンプルに、生きていたくない。
その思いだけを抱え、わたしは転生する為の努力をしよう。