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「声なき言葉」──ジャック・ランシエールによるフォークナー『響きと怒り』論 « La parole du muet » 概要

Les Bords de la fiction, (Le Seuil, 2017)

要約

 フローベールの語り、プラトンやアリストテレスによる政治的動物の定義、といったランシエールお馴染みの布置のなかに、フォークナー『響きと怒り』の声、とりわけベンジーの声を置き直し、そこに交錯する「時間」を主題化することで、フォークナーの小説における「フィクション」の賭け金が問われる。

《『響きと怒り』がもつ2つの特徴》

・物語の時間構造の複雑さ、4つの声のあいだで分裂する物語
・そのうちの一つ、白痴のベンジーの語り
ランシエールの問い:「この小説がもつ複雑かつ精緻な時間構造と、その後ろにはなにもないような現在の直接性のなかを生きていると思われる一人の男、一人の白痴のありのままの言葉がもつ重要性との間にある、この一見矛盾した関係をどう理解したらよいのだろうか。」

《ベンジーの語り》(p.214-215)

 ベンジーの生きる現在と、語っている現在との乖離(I could see ...)。1 ページのなかで 語られる、異なる時間に属する3つの異なるシーン。 この「分離」からなる時間は、しかし一方で、非分離をしるしづけるものでもある。
→時間の混交・過ぎ去っていない過去の言葉としての「汎過去(prétérit/preterite)」 この汎過去によってフォークナーは、英語には存在しない時制、つまりフローベールの半過去を導入しようとしている。
フローベールの半過去・・・叙法のあいだの境界を曖昧にし、意識の状態に沿った出来事の流れを均質なものにする。

《フォークナーとフローベール》(p.215-217)

 フローベールにおいては、三人称のくだらないものたちの声(la voix bête)が非人称の声へと変容するなかで、理由も目的ももたない世界(宇宙)の、「存在論的な愚鈍さ (bêtise)」が表現される。
:「純粋な偶然(le pur hasard)」。
 それに対してフォークナーにおいては、より古き劫罰〔→ジョー・クリスマスの「過ち」〕 へと送り返すのはつねに、「因果の連鎖(enchaînement causal)」である。

 しかしながら、「一人称のなかで白痴の声に宿ったのは、紛れもなくこのフローベールによる非人称の声のもつ愚鈍さ」である。 「しゃべる聾唖という非人称のエクリチュールの声が、白痴のうめき(gémissement) や鳴き声(grognement)と同時に、彼の周囲を取り巻く言葉をも、その均質な織り目のなかに取り入れるのである」。

《プラトンとアリストテレスに抗して》(p.217-219)

プラトン:言葉をもつ存在の位階、あらかじめ行き先を方向づけられた言葉。(『国家』 にて語られる occupation の原則:各人には各人の持ち場・仕事・場所があるのであっ て、二つの場所=仕事を同時に占めることはできない。)
アリストテレス:政治的な共同体における、動物的な声とロゴス的な声の区別。動物的 な声は快・不快の感情を示す「音」に過ぎない一方、人間的なロゴスは正・不正を表明 する「言葉」である。
アウェンティヌスの丘での反乱:平⺠たちはまず、貴族たちに対して、自分たちが「言 葉」をもつ存在であることを示さなければならなかった。

「重要なのは、エクリチュールによって、白痴がたてる物音(bruit)を人間の言葉(parole humain)へと変えることである。」
物語最終部における客観的な語り:「ここではもちろん、ベンジーはしゃべっていない。 なぜなら、白痴の聾唖は、客観的には、しゃべることがないからだ。」

« Ce nʼétait rien, nous dit-il, juste du son. » « Cela aurait pu être la totalité de temps, de lʼinjustice et de la douleur prenant voix pour un instant par une conjonction de planètes. »
「それには何の意味もなかった。ただの音だった。」「あるいは、あらゆる時間と不正と悲哀が、惑星の合の作用により束の間を発したのかもしれなかった」

和訳部分は桐山大介訳『響きと怒り』(河出書房新社、2024年9月)、276頁からの引用。なお、強調は引用者によるものである。

「白痴が「彼みずから」言葉を発するのは、自らが話す存在であるということを証明す るためでは決してない。それを行うのは、作家である。」

《フォークナーのフィクション》(p.219-221)

政治的ディセンサス:自らも言葉を話す存在であるという証拠を示そうと欲する者たち によって、集団的発話という形式のもとで行われる。

文学的ディセンサス

「文学、それはこの〔自らも言葉をもっているという)証明をすることができないものたち、まったくしゃべることができないものたちに、ひとつの特異な=単数の(singuliere)言葉を与える。小説がベンジーに与えたのは、白痴のありのままの言葉──自分自身の苦しみについての発話──ではない。それは、声なきものの言葉(parole des sans-voix)、より深くより隔たった、正しさの言葉である。唖の声を、啞のエクリチュールの声に重ね合わせることで、フォークナーの小説はそれ固有の正しさを実行している。それによって組み立てられる感性的世界(monde sensible)では、不平のうめきが発話として聞かれる。そうした矛盾を含んだ感性的世界なのだ。‥‥‥〔白痴のエクリチュールという矛盾に含まれているもの、〕それは、この共通の時間(temps commun)、共通の世界(monde commun)の存在である。‥‥‥勝者の時間は、すべての人々にとって同じであることを確証するが、それは自身のリズムに適合しないものたちを、その外縁へ、その避難所へとさらに追い立てるためである。白痴によるフィクション、それは、共通のものと共通でないものの新たな分節=発音(articulation)を提示する。一方で、こうしたフィクションが白痴にもたらすのは、抜け目ない者たちの単調な時間に対比される、豊かな時間、奥行きのなかで複数化された時間である。また他方でこのフィクションは、共通の世界の中心にある傷として、白痴とふつうの人々のあいだにある分離の解消不可能性を維持してもいる。
 共通のものと共通でないもののあいだにあるこの緊張の只中においてこそ、白痴の独白の特異性=単独性(singularite du monologue)は物語りの複数性へと分節化され、発音される(S'articuler)のである。」

ほかの語り
・ベンジー同様、時間と声の混交からなるクエンティンの語り。自らの発話を聞くこと がない、クエンティンとベンジーの語り。
・抜け目ないひと、経済的合理性のひとであるジェイソンは、時間を混ぜ合わせない。 直線的な語り。白痴や、合理的なやり方に適合しないものたちを「出口」へと追いやる。
(→『ボヴァリー夫人』のオメー的な人物)

《『響きと怒り』の賭け金》(p.221-222)

 小説の語りの構造の複雑さは、その時間と声の分裂のなかで、ベンジーのような白痴が外縁へと追いやられてしまうその瞬間を際限なく先延ばしにし、共通の世界、共通の時間を現出させる。「エクリチュールによって分裂した時間は、大文字の物語=歴史 (Histoire)の線的な時間を先延ばしにする」。Histoire の時間とは、経済、力、勝者の時間であり、ロドルフやオメー、ジェイソンの時間でもある。
 それに対し、「なにものでもいい瞬間」とは、この分裂の力、複数化の力である。それによって、支配的な時間、 勝者の時間はその「勝利」が最も約束された時点においてさえ破裂させられる。 まさに、そうした時間が、言葉と時間の埒外にいる者たちを追いやった、このなんでもないもののほとりで」。


制作:協力者A

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