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風鈴草

角を曲がったところに、その小料理屋はあった。
ずっと前からあったような気もするが、僕には通学通勤の景色の一つになっていたし、その日まで余り気に留めた事はなかった。

7月の雨の日、白い猫を見た。
小さく古びた店の、花の模様が入ったガラス窓の向こう。猫は前足を揃え、外の様子を見ていた。

ようやくその時まじまじと見たその店に、そういえば看板はなかった。そこが小料理屋であるらしいと前から知っていたのはなぜなんだろう。
木造の家屋が鈍色の瓦を重たそうに乗せていて、端から一つや二つ、簡単に転がり落ちて来そうだった。

それから角を曲がる度に、僕は猫の居た窓を確認した。これまで気がつかなかったが、玄関の脇にはいつも新しい花が植えられていた。その一角だけは、周囲の暗さに飲まれずに今日という季節を歓んでいた。
猫は、あの日以来見なかった。

8月に入った頃、轟音と共に台風が過ぎた。風雨が酷く会社には行けず、テレビ中継を横目にふと、その古びた店が頭に浮かび、心配になった。どこか壊れていやしないか。

嘘のように晴れた翌日、角を曲がると、何ら変わりなく瓦を乗せた木造家屋の横で、新しい花が明るく揺れていた。

お盆を前に、僕の営業担当としての仕事は不調を極めた。そういう時は立て続けに起こるものだ。その日も、得意先から申し訳なさそうに言われたのだった。この度の台風で工場が一つだめになり、今回の案件に予算をつけられる状況ではなくなってしまったと。

仕方のない事だった。誰を責める事もできない。
僕はちょうど昨年の今頃に亡くなった祖母を思い出していた。
「雨の後こそ、空が一番綺麗なのよ」
僕が泣いている時、祖母は決まってそう言うのだった。

重く暗い雨の降ったその日の帰路。白い猫を見た。
猫は店の窓ではなく、玄関先で雨に濡れていた。
まるで青い宝石のような目をしていた。猫は僕をじっと見上げた後、引き戸のすき間から店の中に消えた。

確かにそこは小料理屋だった。店内はオレンジ色の灯りに暖かく包まれていて、奥の暖簾から静かに店主らしきおばあさんが姿を現した。割烹着を着て、混じりのない綺麗な白髪を清潔にまとめていた。

「あいにく、今日はもう雑炊しかお出しできないのです。でもどうか少しでも、あたたまっていってください」
「ありがとうございます。ではその雑炊を頂けますか?」

鮭の入った優しい味の雑炊だ。
食べる間、店主は一言も話をしなかった。それでも、細く尖って凍えた僕の肩が、不思議とほどけて温まる気持ちがした。いつの間にか、お猪口が手元に置かれているのに気がつく。店主をみやると、上品に口角をあげて静かに僕を促した。ふわりと甘く、心を癒やす香りの酒だった。

かなりの時間、そうしていたように思う。
思い出せば店内に時計はなかった。
「ごちそうさまでした。そろそろお暇します」
「お口に合ったでしょうか…」
不安そうに揺れる目が、青みがかって見えた。
「料理も酒も、とても美味しかったです。
心が軽くなった気持ちがします。」
店主はきらきらと目を輝かせ、にっこりと微笑んだ。
僕は生前の祖母をふと思い出していた。

雨のあがった翌朝、空は遠くまで青く透き通っていた。
何故だか晴れやかな気持ちだった。
角を曲がった時、僕は思わず呆然と立ち尽くした。

鈍色の瓦も、花の模様のガラス窓も見当たらなかった。
そこに木造家屋は無かった。

代わりに、一面に広がる青い風鈴草が、嬉しそうに風に揺れていた。
日の光を浴びてまるで宝石のように光るその青は、
あの雨の日に見た両目に、どこか似ていた。

2020.3.24


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