みんな一緒でなくてよい
みんな写真とるよー。こっちおいでー。
子どもたちの集合写真を撮ろうとして、中に入ろうとしない子どもがいました。「一緒に入りなよー」と大人が呼びかけるも、写真を撮られるのが嫌だと言って動きません。大人がその子に近づき、手をとって中に入れました。
あー、これが同調圧力の正体なんだ、と思いました。
外れていた子を中に押し込んだ大人は「記念写真はみんなが揃っているべき」といった信念に基づいて行動したわけで、悪気はありません。
むしろ、その子のためを思って「こういう場面では皆と同じ行動をすべき」と教育したかったのだと思います。
でも、本当に「その子のため」を考えるのなら、本人が入りたくないと言っているのだから、その意思を尊重した方がいいはず。
実のところ、子どもの手をひいた大人は、その子のために動いたのではありません。「みんな一緒で」ないと自分が気持ちが悪いからそうしたのです。
このような「みんな一緒で」を強いる行為を同調圧力といいます。
ぼくは同調圧力するのもされるのも気持ち悪い。かぼそい声で「本人が写りたくないなら別にいいじゃん」とつぶやきました。
最近、「自粛警察」なるものをニュースで知りました。営業している店舗に「ミセシメロ」と張り紙する人がいるのだそう。
おそらく、自粛警察を自主的に行っている人も悪気はありません。集合写真に入りたくない子を無理やり入れた大人の姿と被ってみえます。
ぼくが捉えた同調圧力の正体は「正義感」。自粛警察の場合は嫉妬もあるかもしれません。
同調圧力を行使する人は、己の正義感に基づいて相手を自分の正義に従わせようとします。正義感から相手を全否定し、攻撃するので厄介です。
相手にも別の正義感があり、それぞれが主張し、譲らないと敵対的感情が生まれます。大袈裟にいえば戦争が始まります。
ところで、ぼくは密かに、同調圧力エネルギーがwithコロナで弱まることを期待しています。
コロナ対策で「みんな一緒で」が不可となり、同調圧力が発揮できないシステムになるからです。
学校はとりわけ同調圧力を生み出す機関になっていました。国語で空気(行間)を読む力を鍛え、気をつけ・前ならえで全体に従う同調訓練を恒常的に行います。
学習全般が画一的な進め方です。一斉授業は学習塾で予習が済んでいる子と、学習につまづいている子を一緒くたにして進めます。落ちこぼれや浮きこぼれに辛いものがありました。
一つの教室に大人数を押し込んで行なう一斉授業は密で、今後もしばらくは難しいでしょう。
学びをとめないために、先日学校から宿題が届きました。大量のプリント教材と計画表が入っていました。プリントやドリルなどの反復学習は一斉授業で行う必要はありません。
ずっとプリント教材で行うのが望ましいと思わないですが、各自の学習到達レベルに応じて、それぞれのペースで進める勉強スタイルが学校教育の常態になるのは悪くないなと思います。
学校で「みんな一緒で」の前提が崩れるところから、同調圧力がなくなることを期待します。
学校で友だちに会えなくなったのは寂しいことです。友だちと普通に遊べる日が早く戻ってほしいと願います。
でも、勉強をマイペースで進められるようになって、ホッとしている子はいるような気もします。
ちょっと話しがそれますが、中田英寿さんがサッカー選手を引退した理由についてインタビュー次のように語っています。
「これまでサッカーを20年やって分かったことがある。おれの性格が団体競技には合わないんだよね」
すごく納得しました。ぼくは中学でバスケット部、高校で野球部に入り、ともに団体競技でした。団体競技の部活も同調圧力が強くて、上下関係や集団規律を叩きこまれました。
自分を中田ヒデ選手に並べるのもどうかと思いつつ、同じことを感じました。
ぼくは団体競技で鍛えた協調性をウリにサラリーマンを15年やってきましたが、独立してみて初めて、自分は集団行動に向いていなかったと知りました。フリーランスになってみて、本当は個人競技が得意だったと分かりました。
みんながみんな、団体競技をやらなくてもいいよね。
2月末に政府が学校閉校や自粛要請をした頃は、「1,2週間をしのげれば・・」と目論んでいた人が多かったと思います。緊急事態宣言の延長で覚悟が定まった気がします。
これを機に何でも一律にやろうとするシステムがリセットされて、再構築されて、同調圧力がゆるみますように。学校で「みんなちがって、みんないい」の世界が始まりますように。
最後にもうひとつ。ぼくは正義を振り回す人には近づかないように気を付つています。正義感には敏感に。ごみの分別もビン・カンに。
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