Dance aloneと生について
インターネットを眺めていると日々多様化した音楽の情報が流れてくるが、4.5年ほど前に認知して以来情報を追っているアーティスト、それが長谷川白紙とパソコン音楽クラブだ。長谷川白紙は国立音大出身のシンガーソングライターであり、現代音楽、ジャズ、ポップ、電子音楽などを取り入れた独自の音楽性ながら若い年代に強く受け入れられている。パソコン音楽クラブは二人組のDTMユニットであり、90年代の実機を用いた音作りで現代のDTMを再構築している。
その長谷川白紙、パソコン音楽クラブら二組のアーティスト、ユニットによるイベント、『Dance alone』を観覧してきたイベントレポートです。
上記のコンセプトの下行われた今回のイベントはパソコン音楽クラブ西山が車椅子に乗った柴田を押しながら入場、セッションライクなインストから「海鳴り」をプレイ、明るいMCで会場を和ませながら数日前にリリースされた新曲「KICK&GO」やアニメポケットモンスターのED曲として制作された「ポケモンしりとり」で盛り上げる。その後は「reiji no machi」と「Inner blue」で観客のテンションを落ち着かせて出番を終えた。腕を振り回したり小道具を用いて煽る柴田さんと落ち着いて飄々とプレイする西山さんのテンションは対照的で、だが丁寧でテンポの良いパフォーマンスは安心して音に身を委ねることができた。
続く長谷川白紙はアーティスト写真で着用しているジャケットに身をつつみ静かに入場、「長谷川白紙です、よろしくお願いします」の一言で大きな拍手が湧き上がる。「毒」や「怖いところ」などをキーボードを弾きながら歌い上げる。MCでは「誰だこんな曲考えたのは」と笑いを誘いながら「ユニ」、「わたしをみて」などの人気曲を披露し会場の熱気が最高潮に達したところで「あなただけ」「砂漠で」をBPMを変えて歌唱。矢継ぎ早に楽曲を展開し最後までリズムを崩すことなくパフォーマンスをして見せたのは流石だった。退場後のアンコールでは3人の出会いから始まりコラボ楽曲やRimexの話に、そのまま「キュー(パソコン音楽クラブRemix)」「hikari」を披露しイベントは幕を下ろした。
ここまでは諸事情で参加できなかった知人に向けてのイベントレポートでスが、この先は今回イベントでの所感なので読まなくてもいいです。
長谷川白紙とパ音のツーマンライブが開催されると知った時に期待と同じくらい大きな疑問があった。そもそもの話二組ともインターネットレーベルMalchine Recordsからのリリースから活動が始まっているものの音楽の方向性は全く違う。
長谷川白紙はブレイクコアのような攻撃的な音作りや変拍子を精緻なメロディラインでポップにしつつ繊細なボーカルラインを歌唱する楽曲を多くリリースしており、その膨大なインプットに裏打ちされた楽曲の完成度は暴力的ですらある。一方のパソコン音楽クラブは現在のDTMシーンとは対照的なサウンドの90年代のシンセサイザーやモジュールで現代的なポップスやテクノを取り入れた楽曲が多く、正にDTMを再構築している。
メインジャンルや楽曲の想起させる感情の全くちがう両者がクラブイベントやフェスでのツーマンライブという形で共演した時に対比構造以外での成立は成し得るのか、という疑問があったが、今回のテーマである“Dance alone”という目線を通すことで今回のイベントが腑に落ちた。
疾病の流行とかは関係なく人は本質的に孤独であると思う。自己と他者の内外には肉体や精神の明確な境界を介在しながら関係していて存在の全てを余すことなく分かち合うことは不可能だからだ。同様のジャンルや手法で、思想や行動で強固な共通項を持ったとしてイコールではない。しかし多様な手段を持って歩み寄ることは可能だ。そういうことを考えていると彼らの個としての存在が音楽として表現されていることの共通点、音楽性の相違は欠陥した負の関係ではなかった。
全く関係のない話になるのだが先日知人の方と生(なま)とは何かについて話す機会があった。生という言葉からわたしが連想したのはなまものの腐っていく感覚だったが、それは時間と言い換えられる。議論の中でお互いの完全な正解は生まれなかったが、感情や体験における生についての話が頻出した。感情や空気、温度を保った瞬間を再現する為にたとえば文章なら(笑)など口語として存在しない脚注が、映像では自然に見せる為にライティングや質感を変える必要がある。知人は音楽家の方と同じ話題で会話した際「録音された曲や電子音響で加工された音は”生か”」と聞いたところ「”知覚した主体”が”生”、音楽が再生される時それを聴く人は生の時間にいる」と言われたそうだ。
過去に経験した楽曲や本を改めて体験することで当時の感情や場が擬似的に再現されるという事は誰しも身に覚えがあるだろうが、再経験はピンと来なかった作品が自身のことに感じられたり視点や価値観の変化を再確認させ、瞼をこじ開ける瞬発力も保持している。経験の両極の中間にあるグラデーションは新たな生の生産者だ。
今回のイベントではパ音の音源化されていないセルフリミックスでのミックスや長谷川白紙の歌唱での僅かなピッチの揺らぎ、ライブハウスのバランスの良い贅沢な音響が耳に馴染みのある曲を鼓膜を伝う新鮮な刺激へと変化させていた。音楽が私の孤独で脆弱な自己を揺さぶって肉薄してきた今日の時間は、空間は確実に生(なま)だった。それでは。