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【note72枚目】 はるなつの推物探訪

 こんなことになるはずやなかった あの頃三十路て言うたら

 なんて聴こえてきそうなお年頃。わたくし32歳。しっかりと記憶がある半分以上を、しっかり「オタク」として歳を重ねています。

 『推し本』を拝読したり、インターネットに数多ある体験談や回顧録も拝読して、そういや自分ってここまでどんな歩みだったかな?などとふと思った。思い出せる範囲でその時々どんな事を思って今に至ってるかとか、書きながら整理出来たらいいな。「おしものたんぼう」はじまりはじまり

1.サエキトモさん、松岡由貴さん

 思い出せる最古かつ私の「オタク」としての起源がこのお2人、サエキトモさんと松岡由貴さん(以下、トモさん、由貴さん)

 2002年頃には、ラジオ大阪で『ラジオ アベノ橋魔法☆商店街』(以下、アベ商)という番組が放送されていた。わたくし当時中学2年生。「夜に勉強する」ことへのモチベーションは「0時以降に放送されるアニラジを聴く→そのために起きておかなくてはいけない」という口実で保たれてたように思う。今はインターネットでラジオが聴ける事が当たり前だけど、おばちゃんの時代はリアタイが必須やったのよ。

 深夜という時間帯に、好き勝手楽しそうに喋る声優さん達のトークが大好きだった。特にトモさんと由貴さんは大阪出身なのでずっと関西弁。ガイナックスの偉い人(当時)ことのーてんき武田さんにもカミソリの如き切れ味の歯に衣着せぬトークで沸かせる。そんな2人も、アベ商を離れると標準語。「関西人の関西弁萌え」という特殊性癖はここで育まれたのかもしれない。苦しかった公立高校受検の時も、この番組が全てのモチベーションだった。

「この日程で合格出来たら公開録音へ行ける」

 不純だけどそんな願望は、より純度の高いガソリンになって志望校に合格。この時、人生で初めて「推し」を肉眼で捉え、同じ空間、同じ時間を共有出来た。例えようの無い感動@大阪ビジネスパーク円形ホール(OBPシアター)

 トモさんと由貴さんそしてラジオアベ商から、ラジオ大阪で毎晩深夜に放送されているアニラジを聴取し、トークがおもろい声優さんが出ているアニメを家族の目を気にしながら視聴し…立派な声オタ・アニオタとしての人格が形成されて今に至る。うちは貧乏だったのでパソコンは無かったし、お小遣いは雀の涙だったので高額な声優雑誌も買えず。そして深夜のアニラジなんて誰も聴いてない。ただただ一人ででひっそりと楽しんでいた。

 なぜか当時住んでた場所の市立図書館が毎月『声優グランプリ』を購読して置いてくれてたからそれにはだいぶ助けられた。

2.荒木宏文

 中学・高校時代をズブズブの声オタ・アニオタとして過ごし、なんとか大学へ進学出来たはるなつちゃん。ここで進学、引越し、家庭不和と目まぐるしい環境変化により鬱になります。当時はそうと思ってなかったけど、明らかに精神に異常をきたしていた2007年。そんな時に足を踏み入れたのがニチアサ。当時は『仮面ライダー電王』と『獣拳戦隊ゲキレンジャー』が放送されていました。

 入口こそ電王と佐藤健でしたが、「なんか声優やアニメのオタクが餌にされてる?」「何でアニメイトにデフォルメされた電王のグッズがあるん?」など、厄介オタクのいちゃもんつけが止まらないようになり、気がついたらゲキレンジャーにいました。印象悪いな。2021年の今となっては、特撮作品のデフォルメグッズなんて普通なんですけど。

 そこで出会ったのが、荒木宏文さん(以下、荒木)が演じる「黒獅子理央」。

 悲しみを背負わされる、悪に仕立てられてしまった色悪。そんな理央様の存在は、それまでニチアサに縁がなかった私には「こんな描かれ方をする悪役もありなのか!」と衝撃的だった。彼の腹心・メレ様と併せてね。そこから荒木と鈴木裕樹さん(以下、ズッキー)の所属するD-BOYS(以下、Dボ)を知り、彼らのバックボーンにときめき、テニミュを知った。彼らが超若手の頃にやってた『表参道がむしゃらドキュメント DD-BOYS』を借りに、阿倍野橋まで行ったこともいい思い出。そんなニッチな作品よく置いてたな。

 今考えても完全にアウトなんですけど、荒木の出身地やDD〜の中にあった幼少期の写真、おじいちゃんの名前を頼りに、大学の図書館で詳細地図を引いてガチの地元を探し出して足を運んだ事もあります。こわ…自分のことやけど。行動がぶっ飛んでるゴリゴリの躁鬱期。荒木はこんな所で生まれ育ったのか…のびのびと育んでくれてありがとうございます。だからといってそこで何をしたってわけでも無いんですけど、「荒木」って苗字が多い集落でした。あとマジで電車の本数がなかった。

 「自分の裁量」が広がったのもこの辺。アルバイトを始めたり、携帯を自分の名前で契約して支払いしたり。初めて東京に行って、初めてオフ会に参加した。今はなきスカイシアターに行ったのもこの頃。強風でショー中止になったけど。

 荒木やズッキー、Dボから当時の若手俳優へ興味の範囲はどんどん拡がって、『CAST-PRIX』『Cool-up』などを毎月買い漁る生活。今はもう無いのかな。CAST〜は、今みたいに「2.5次元」って言葉が当たり前になる少し前からタイトルの一部として採用してた気がする。

 しかし。ゲキレンジャーの放送が終わり、「理央様」ありきの活動は先細って「荒木宏文」として売り出す方向へ動いていきます。活動の拠点は当然東京、そしてテレビではなく舞台。私の生活拠点は大阪。彼の活動を見るには東京まで行く必要があり、舞台のチケットは映画などと比べて高額。往復夜行バスを使ったって、しょせん大学生のバイト代ですから、交通費もバカにならない。東は東京、西は山口まで毎月遠征。たまに出る映画はオタクしか見にこないようなミニシアター期間限定上映ばかり。これから売り出す若手俳優あるあるなんですけど、「いつまでこんなオタクだけ相手してるような商売するんやろう」とぶつけどころのない不満が募る日々。バイト代は右から左、母親からはあまりの貯金の無さに呆れられる始末。ネットで出来た同推しのお姉さんは年上社会人で、圧倒的に金銭面で差が生まれる。

 小さな事の積み重なり続けた2009年末頃には足が遠のき、それからしばらくして「ぷつーん」と音を立てて興味の糸が切れ、それまで蒐集していた雑誌、グッズ、DVDなどの全てをK-BOOKSへ持っていき、ひらひらの1万円になって帰ってきたのを見て

「私、3年も何やってたんやろう」

と虚無に襲われたのをよく覚えています。担降りだのなんだの言うけど、興味が失せる時にきっかけなんかないんやなって思いました。勝手に沸くし、勝手に萎える。荒木のオタクやってた期間の中で一番うれしかったのは、『20世紀少年 第2章』でオカマ役で出たとき。一般認知されてる作品に出られたんやなあって。すぐ殺されたけど。

 今や当時「はるちゃん何必死に毎月東京行ってるん」と言ってた大学の友達(審神者)の方が荒木に詳しい。刀剣乱舞恐るべし。

推しって何。

 若俳で虚無を迎えた私の賢者タイム。しばらくは48Gにどっぷりハマってた当時の友人と行動を共にしていました。別に興味はないけど「握手会」などというトンチキなイベントに彼女が参加する様子を眺め、可愛い子たちだなーとフリーライブを眺めたり。その時初めて「推しメン」という言葉に触れた気がする。好きで応援してる子のことをそう表現すんのか。だったら、荒木は「推し」だったんだなーなどと振り返ってた。

 この時期に48Gにお金をかけることはなかったけど、初代チームKのライブにタダで連れて行って貰えたのはラッキーだった。デビュー前のSKE48(SとK IIの混合選抜編成)も見られたし。

 はるなつちゃん、『言い訳Maybe』を歌い踊る大堀恵を見て号泣。

 この辺で一旦休憩。