人馬一体ならぬ、人馬補完のだまし絵~パラドックス定数『トロンプ・ルイユ』
2019年1月11日、シアター風姿花伝にパラドックス定数『トロンプ・ルイユ』を見てきた。
2019年・初芝居。初パラドックス定数である。
熱心に劇団公演に足を運んでいる友人に勧められて一緒に行った。事前に「競走馬と人間の話である」ということまでは把握していた。
演劇で、馬の話?
わたしの脳裏には『マイ・フェア・レディ』や『ウォー・ホース』が去来していた。
加えてタイトルは『トロンプ・ルイユ』。「だまし絵」。
演劇で、馬の話で、題して『トロンプ・ルイユ』?
見る前は正直、この三点が像が結ばなかったのだが、幕が開いてほんの数分で得心した。
コミカルで、笑いももりだくさんで、しんみりともさせるヒューマン&ホース・ドラマとしての側面も大いに楽しんだ。
しかしそれだけでなく、俳優の身体をメディウムとして、人と馬との「トロンプ・ルイユ」を描き出そうとする意欲に心躍らされた。
以下、上演やストーリーに踏み込むので、知りたくない方は引き返してください。
ある地方競馬の厩舎に属する人と馬、競馬場に足を運ぶ人の悲喜こもごもを描く本プロダクション。
その表現上の最大の特徴は、俳優たちが人と馬の両方を演じることである。
人と馬の切り替えはスムース、というよりシームレスといえる。
一瞬前まで「逃げ馬」ロンミアダイムに扮していた俳優はロンミアダイムに入れあげる青年に代わり、騎手になれなかった調教助手は怪我を抱えた中央競馬出身の五歳馬ドンカバージョへと変容する。
衣装は変わらない。ネクタイやシャツにフックが装着されており、そこに手綱があるか否かで人と馬とは見分けられる。が、あくまで便宜的なものである(便宜的、というのがポイントである。この点についてはのちに詳述する)。
俳優の身体がメディウムとなって複数のキャラクターを去来させる仕掛けは、演劇の特性を活かしたものといえる。
だがそれは、今回の『トロンプ・ルイユ』だけでなく様々な上演で用いられている。
たとえば "Twilight: Los Angeles, 1992" などで知られるアナ・ディーヴァー・スミスの「ドキュメンタリー演劇」や、ニューヨークのBedlam Theatreのパフォーマンスでは、俳優は複数の人格をショートスパンで演じ分ける。
しかしそれでもなお、本プロダクションに得も言われぬ喜びともいえる楽しさを覚えたのは、この演劇的な仕掛けが人と馬が織りなす「トロンプ・ルイユ」を描き出すために巧みに用いられていたからである。
おおざっぱに調べるに、「トロンプ・ルイユ」はいくつか種類があるようだった。
トリック・アートのようにあたかも存在するかのように見せるタイプ。
「ルビンの壺」のように見方を変えることで別の絵が現れるタイプ。
エッシャー作品に代表的な、矛盾を書き込んだり、錯覚を誘発するタイプ。
本プロダクションの「トロンプ・ルイユ」は、「ルビンの壺」タイプだと私には感じられた。
人と馬の組み合わせは補完的な関係をなしている。馬たちの物語を人たちが背景となって引き立て、その逆もまた然りである。花瓶のイラストの地となっているときには眼中の外に置かれるが確かに横顔が描かれている「ルビンの壺」のように。ドクロに焦点を合わせていたら像を結ばないが確かに鏡を見つめる女性が書き込まれているチャールズ・アレン・ギルバートの絵のように。
また、「ルビンの壺」タイプの「トロンプ・ルイユ」は、見続けるうちに図と地が絶えず入れ替わり、焦点がずれ続け、しまいには二つの絵を同時に等位なものとして鑑賞できている感覚が生じることが、大きな魅力だと考えている。
パラドックス定数の『トロンプ・ルイユ』は、単に引き立てあう人と馬の物語として美しくまとまっているだけでなく、異なる二つの絵が同時に等位なものとしてキャッチされるときの一種の眩惑感を喚起させた点で見事だった。
先ほど、人と馬との切り替えは手綱の有無でとりあえずは見分けられると記した。ところが劇が展開していく中で、馬に手綱がつけられない場面も盛り込まれていく。
そうなると、舞台上に立つ身体がなにを表しているか、観客はコンテクストで判断するしかなくなる。手綱という外的な判断要因がなくなる分、観客の認識の中で地と図の関係の変転が生じていくこととなる。
加えて、劇が終盤に近付くにつれて、人によるものなのか馬によるものなのか判然としない発話も増えていく。ますます地と図の関係は流動的となり、人の物語と馬の物語が同時に等位なものとして立ちあがっていく。
演劇的な仕掛けを用いて認知を刺激し、複眼的な見方を誘発するという点で、本プロダクションはよくできた「トロンプ・ルイユ」なのである。
2019年、幸先のよい芝居初めである。
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