「手に余るもの」が引き直す地図、外に出るか、屈するか、別の姿を聞き取るか〜東京芸術劇場シアターウェスト『福島三部作』
2019年8月26・27日と二日間にかけて、東京芸術劇場シアターウェストにDULL-COLORED POP『福島三部作』を見てきた。26日は第一部『1961年: 夜にのぼる太陽』と第二部『1986年: メビウスの輪』を、27日に第三部に『2011年: 語られたがる言葉たち』を見た。
脚本と演出は谷賢一。すでに各所で述べられているように、福島の原発と浅からぬ縁がある谷が約三年間現地調査を重ねて作り上げられた大作である。
福島県双葉町に生きる穂積家の三兄弟。それぞれが各部の主人公に据えられ、双葉町および彼らと福島第一原発(そして東日本大震災)との関係が紡がれる。
原子力発電を巡る日本現代史を、その中に生きた/生きる人々の姿と声を、真摯に真剣に、同時にポップに、なおかつ静かに、汲み取ろうとしたその試みに拍手を送りたい。 そして、その試みを具現化した俳優・クリエイティブスタッフにも敬意を表したい。
第一部でのパペットの使い方や(首が飛ぶのには笑ってしまった)、第二部での人間が演じるイヌの役割や振る舞い(なぜパイプをふかすのだろう?ホームズ?)、第三部での時間の大胆な使い方など、考えを巡らせてみたくなる要素が散りばめられていて、見終わった後の充足感が並ではなかった。
この作品が三部作としての強度を保つのは、三兄弟が主人公であるからとか、福島第一原発という主軸で統一されているから、というモチーフ面だけでない。
三部通して、双葉町そして人々に引き起こされる葛藤や、葛藤を引き起こす存在に、大まかに同じ性質が見出されつつ、より手に余る存在へと描かれ方が変容していくこと。そして、それに対する三兄弟の反応が大きく異なること。こういったヴァリアントが鮮やかだからこそ、連続して見た時に対比的に見られて楽しいし、退屈しない。
『福島三部作』ではいずれも、登場する人々は迷い、悩み、対立し、打ちひしがれる。
それは何によってもたらされるのか。いずれの部でも、そこに息づく人間が設定した境界や区域を越えて動き回り飛び交うものによってもたらされる。
それらは、町に、人々のマインドに、新たな地図を強く強く上書きしていく。
第一部の「山高帽の男」(実際には中折れ帽の男だ)。彼は地質調査の専門家として双葉町を動き回り、地元の若者の秘密の逢瀬の場にのっそりと顔を出し、農家の子どもがホイホイと上がれない町長の家から出てくる、神出鬼没で不気味な存在として描かれる。
福島第一原発誘致は、穂積家を始めとする双葉町に暮らす人々の転居や、山を切り崩して、地理的地図を書き換えていく。
第二部の吉岡要は、自民党サイドの町会議員秘書でありながら、元社会党で反原発派リーダーの穂積忠に町長選出馬を打診するという越境を行なっている。加えて、メガネの着脱と共に声音と語り口を扇動的なものへ変え、反原発派としての理想に重きを置く忠に、原発に対するリアリストとしてのマインドマップを敷いていく。さらに、メガネを取った吉岡は、舞台上に設定された(観客の目には透明な)壁を抜ける。双葉町の大地を歩き回るに過ぎなかった第一部の「山高帽の男」に比べて、人ならざる不気味さは増している。
第三部において境界を越境し飛び交い地図を書き換える存在として、人間ではなく放射能がその位置につける。たとえばテレビの電波が人間の都合でひかれた県や区や町の境を越え、人間の都合で設けられる中央と辺境のヒエラルキーを撹乱するように、放射能は町の境界を越えていく。そして、別の土地へ避難せざるをえなくさせ、線量を意識した生活へとアフォーダンスさせる。
このように、葛藤のトリガーとなる存在、葛藤の質は三部通じて一貫性が見出せる。と同時に、部を重ねるごとにそれは、「手に余るもの」としてのありようを強めていく。
そして、穂積家の三兄弟の葛藤への対応は大きく異なっている。
第一部の孝は、三部通じて孝が最も勢いよく動き、考え、語る。特に、実家から出ていくことが決定事項となった後、孝は語りたい言葉を語りたい相手にぶつけられるようになる。故郷を捨てる=書き換えられる地図の外部に生きるからこそ、語りたい言葉を語れるようになるかもしれない。
第二部の忠は、他方、語りたい言葉を語るなと息子から懇願されるキャラクターである。また、吉岡のマニピュレーションに巻き込まれ、チェルノブイリの事故を受けた記者会見で明確に原発推進を打ち出して以降、彼は言葉にも書き起こせない引き笑いを漏らすしかなくなっていく。穂積忠の立ち位置は書き換えられ、言葉は引き笑いで飲み込まれていく。
第三部の真は、テレビ局報道局長として自らが語ることよりも、聞き取ることに重きを置いている。テレビ局の後輩は、即座に口について出る言葉をかき集めるが、その言葉は事故で書き換えられた地図に組み伏せられた言葉とも言える。それに対し真は、容易には語られない言葉を何とか待とうとする。「語られたがる言葉たち」を、物語とせずに「ロウソクを集めたように」見せらたらという真のビジョンは、双葉町とその人々の地図を書き換え続けてきた「手に余るもの」に対し、別の総体を示す抵抗とも言える。
このように、どんどん強大で得体が知れないものとなっていく「手に余るもの」に対して、東京へ飛び立つ長男・地元に残り屈せざるを得なくなった次男・地元に残りつつ抵抗を模索する三男と、主人公たちのスタンスにダイナミックな緩急がつけられている。それが三部通しての見やすさに繋がっているように感じた。