歌わないことのドラマトゥルギー〜リンカーン・センター版『王様と私』来日公演

わたしは、ロジャース&ハマースタイン作品が好きでない。
正確に言うなら、初演時に興行的ヒットを飛ばしたロジャース&ハマースタイン作品の大半が好きでない(ロジャース&ハマースタイン作品にも、興行的に振るわなかったものはあるのだ)。
異文化へ理解を示し歩み寄らんとするそぶりで巧妙に他者を排除する手つきが鼻につく。

わたしは、シアター・オーブが好きでない。
正確に言うなら、シアター・オーブの動線の悪さとやけに高い天井と耳をつんざく音響が好きでない。
トイレの個室の数が多いのは好きだ。

そんな「好きでない」が二重になったシアター・オーブでの『王様と私』の上演。
「好きでない」が雲散霧消することはないのだが、それでも行ってよかったと思えるプロダクションだった。

まず劇場についてだが、動線の悪さと天井の高さは変えようがない部分なので「好きでない」ままなのだが、音響の質がぐんと上がっていたことに驚いた。ちゃんと、電気楽器や電子楽器導入以前のブロードウェイ・サウンドを響かせる音響設計になっていたので、ストレスが少なかった。
いや、むしろシアター・オーブは電気・電子楽器と相性がよくないと考えた方が筋が通るのか...?

そして作品について。
バートレット・シャーの演出は、今年のトニー賞でリバイバル作品賞を受賞した『オクラホマ!』のように、大胆に作品の読み替えていく鋭さはない。真面目で端正、どこかノスタルジックでもある。
そのため、わたしがロジャース&ハマースタイン作品に覚える違和感や胡散臭さは、この再演版で保持されたままだった。
たとえケリー・オハラの澄み渡る歌声に惚れ惚れしようとも、渡辺謙の王のチャーミングさに微笑みが浮かぼうとも。

とはいえ、発見がなかったわけではない。やはりロジャース&ハマースタインは巧みなミュージカル作家だ、と再確認させてくれる発見だった。

劇の終盤、「シャル・ウィ・ダンス?」で通い合ったかのように思われたアンナと王の間に、恋人と逃亡したタプティムが連行されてきたことで亀裂が生じる。
タプティムに体罰を加えようとする王に対し、アンナは「この野蛮人!」と叫ぶ。王は振り上げた鞭を下ろすことができず、苦しみながら場を去る。
その様子を見ていた首相のクララホムはアンナに対し、「お前が王を変えた、お前が王を壊した」と強い語調で罵る。
いきなり強い語調でアンナに感情をぶつけ始めるクララホムに、わたしは呆気にとられた。なぜなら、『王様と私』におけるクララホムは、王の右腕として権力を握っていると紹介される割には、影が薄いからである。

クララホムの権力が誇示されるのはアンナらがバンコクに到着した場面と、王への最初の謁見の場面程度である。
そして、クララホムがどのような個性のキャラクターとして作られているかと問われたら、チャン夫人や皇太子、タプティムにルンタらに比べて答えるのが難しくなる。なぜなら、夫人や皇太子、若い恋人たちと違って、彼にはミュージカル・ナンバーが割り当てられていないからだ。
そのため、終盤にクララホムがアンナを罵り始めるのを見た時、いきなり感情を露わにしたことに対して戸惑いが生まれるのが否めなかった。
終盤の重要な場面で、これほどまでにアンナに食ってかかるキャラクターなのだから、もう少しミュージカルのキャラクターとして見せ場があってしかるべきだったのではないか?とつい思ってしまいそうになった。

だが、それは違うのである。
クララホムに歌が割り当てられていないことが重要なのである。

王やチャン夫人、皇太子らは、アンナとの接触を経て価値観の見直しや変更、補強を行う。タプティムやルンタは、英語を解するアウトサイダーとして、アンナと近しい位置にいる。
だが、クララホムにはアンナとの接触による自己の変容が訪れない。変わりゆく国と王宮の中にあって、クララホムは変化から疎外されている。
変わるキャラクター、変わることを恐れつつも必要と思うキャラクター、変わることに希望を見出すキャラクターは、歌うことができる。さもなければ、歌の機会は得られない。『王様と私』にはそのような線引きがなされている。
だから、クララホムの最後の罵りは、歌であってはならないのである。
歌う機会がもたらされないキャラクターによる感情の爆発は、歌という形にはなりえないのである。

キャラクターを描写するにあたって、誰が何をどのように歌うかは非常に重要である。それと同じくらい、誰が歌わないか、も重要だ。
『王様と私』にも、歌わないことのドラマトゥルギーが息づいている。

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