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公開文通✉️ひでへ

「Twitterのゆきちゃん」ことゆきちゃんです!

ひでがツイッターで"ゆきちゃん"と言っていて
わたしか?となったけど、
いやいやまてよ、
ゆきちゃんは世の中にたくさんいるからな、
となってちょっとお伺いを立てたら
わたしでした。

たぶん世代のものなんだけど
平成初期生まれはゆきちゃんが多いみたい。

学生時代はだいたいゆきちゃんがまわりにいたし、 
わたしはその友達のゆきちゃんのことを
「ゆきちゃん」とか、
別のゆきちゃんは
「ゆき」と呼んだりしていたので
あまりゆきちゃんの自覚がなく生きてきたような。

なので私の中ではゆきちゃんは
花子さん、とかA子さん、
みたいな一般化された名前のイメージ。


それで本名だけどハンドルネームって感じで
ツイッターで使ってたのね。


ていうかわたしたちはいつまででも
ツイッターのことをツイッターと呼んでしまうね。


ちゃんとエックス、と呼んでいる人を見るたびにとっても感心してしまう。

時代の移り変わりに柔軟ですね。

こうしてわたしたちはおばあちゃんになるんだろうなという感覚はありながらも
ずっとツイッターと呼んじゃうわたしたちでありたいとも思っているよね。


ひではわたしがツイッターで有名人みたいに言うけど誤解をされないように一応否定しておくけど別に有名人でもなければフォロワー多いわけでもない😂


ひでと会ったのはいつが最初かは
わからないけど、とりあえずネバラン
(※奈良NEVERLAND。奈良のライブハウス)
かなとは思う。
それかどっかのバー?カフェ?でやってた
ライブのときかな。


ざっくりな流れでいうと、
わたしがインスタで
奈良のマイメンゆかちゃんと出会って、
ゆかちゃんはよくネバランとか
いろんなとこで歌ってて
わたしはよくライブに行ってた。

それでだんだんそのまわりの友達とも
みんななかよくなって、
ってかんじでいろんな人と繋がって。


そのときにツイッターをよくしてて
それをゆかちゃんが
いいねとかリツイートとかしてくれてたから、

ネバラン行ったら
ああ!ツイッターのゆきちゃん!

といろんな人に言われるようになり…というかんじだね。

そんでひでや愉快な仲間たちみんなで
遊んだりするようになったりして。

案外それから10年とか経ってるらしい。

そんでこの公開文通ね。
ひではわたしのことをアンテナが高いと言ってくれるけど
こんな風にやりたいなーというものを表に出して
やれるということがすごいことだと思うよー

玉ねぎ染とかもやったよね
って、わたしはそのときは参加できなかったんだけども。

岡山に来てから自炊を毎日するようになったから
玉ねぎの皮はずっとためてる。
またいつかチャンスがあるといいなーとこっそり思って。


そしてええやんおじさん認定(ひでのnote参照)
あざます👍

ええやんおじさんはわたしもだいすきなので
自分もそれやったかー!
ええやんおじさんだったかー!
と思ってによによしちゃった。


思えば基本的にわたしの周りは
ええやんおじさんばっかりの人生なので
ありがたいことやなーと思います。


やめとけババアの言うことは
聞かんかったらいい!


わたしがええやんおじさんやってあげるから
とりあえず話そうね。



文通はたまに友達と手紙を送り合ったりしてるけど
だいたいわたしが先に止めてしまう側なので
これもそうなったらごめんなさいね

でも嫌だからじゃなくて
ただ書いてない期間があいてるだけ
ということは先に伝えておくよ。

いままで文通を公開にしたことはないけど、
公開にするということは
一応他の読む人のことも考えて文字数多めになりがちだね。

ただわたしはギャル(概念)なので
フリック入力がとてもはやい。

長文書くのはお手のもの。
多分しゃべるより打つほうが早い。 

(よく考えたら平成のギャルはケータイ打つの早いけど
令和のギャルは文字を打たずに踊ってる気がした。)



noteもよく書いてた時期があるので、
したためた文章が操作ミスにより
消えてしまうという事態に陥ったことも
何度もある。
なので下書きはメモアプリに書いて
コピペしてます。
(今は自動保存になってたらごめんなさいね)


ひでがわたしのことを

いいとこもわるいとこもある生きてる姿がSNSで垣間見られる

と言ってくれてたけど、
これは結構明確にわたしの中で
意識的な部分があったなー
と思い出すことがあって。


ひでなら聞いたことあるかなー
分人主義っていう言葉。

人には人と接するときに
その人によって違う自分がある。
それはある人には本心を隠してるとか
そういうことじゃなくて見せる顔が違う
ということで、悪いことではなくて。
その全てが自分として存在してるんだよーって
ざっくりそんなかんじのことで。

今はそうだよなーって思うし
それも納得してるんだけど、
当時二十歳前後のわたしは
それが自分の中できもちわるくて。

あっちではこういう子って思われてるけど、
こっちでは全然違う風に思われてるってことが、
自分のアイデンティティとして
ちょっと気持ち悪かったんだと思う。


この人の前ではこの自分出すの
たぶん違うかなとかそういうの対面だと
少なからずあると思うんだけど
それをツイッターではなくしちゃおうと
自分の中で決めて。

基本SNSは対自分だから対自分は
誰が見ても気にしないよ〜
ってスタンスで公開していて。

誰が見てるとか考えるのやめて、
だれでも見ていいよ〜ってしよう、と。

だから多分対面とのイメージと
ちがうパターンのわたしがいるんだと思うけど
それはそれでいいかな、
そういう面もあるんだなって
思われたらいいかなとおもって。

で、共通項として
SNSの中のわたしのイメージがあったらいいなーと。
そこの軸が自分の中で確立されたというか。
だれにでも見せてもいい自分をSNSに置いておいた、
みたいな。

でも表にぜんぶ出すのは中々難しいと普通は思うのかな

これは若干ひねくれ?た話なんだけど
秘密の話ってだいたい秘密にならないよね。
これは小中学生くらいの話。
みんなだいたいしゃべっちゃう。
それが嫌でしかたがなかった。
だいすきな友達にも秘密の話は話さなかったんだけど
高校くらいになって、
あ、わたしこの友達には
自分がまわりに秘密にしてた話をしたい。
と思ったことがあって
でも秘密を話すのは
やっぱり抵抗があって。

だから秘密じゃなくしちゃえばいいのか。
って思って思い切って公表した。
その友達にも話せた。

たぶん秘密という構造?自体が苦手で
それを力技で覆せたというか。

たぶんそういう積み重ねでやってきた気がする。
そう思わせてくれる友達がいたから
できたことでもあって、
それはよかったなーと思ってる。


あと暮らしに情熱をかけているイメージがある
と言ってくれていたけどわたしあまり暮らしに情熱はかけていない気がした!なんだろう、
暮らすの意味がまだあんまりわかってないからかも。

"生きる、というのは、もっと本能的なことで、暮らすと言うのは、そこに価値観だったり、軸があるようなイメージがあって。"

ひでが書いてくれたこの文章になにかヒントがありそうな気がするからもうちょっと考えてみるね。
調べるとか、知ることはいつまでも興味あるかな。

あと最近は若松英輔さんのvoicyを聴いてます(10分くらいのラジオみたいなやつ)
それを聴いててちょうどなにか物を書きたいと思っていたところ!

あとひさしぶりにひでのインスタみて麦さんの畑の玄人姿を何度も見て何度も笑いました

いつもありがとう〜

またね 


2024.6.4 ゆきちゃんより


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