不死身だと思っていた祖父が亡くなった
祖父が亡くなったので遺影にする写真を探して古いアルバムを見た。花嫁衣装の祖母が、若い頃の母親にそっくりだった。若い頃の母は私とそっくりなので、いずれ私も祖母のようなお婆さんになるんだろう。
仕事柄、社員の忌引き休暇の処理をすることがあった。私の祖父母は長生きなので、いつか私も忌引きを取ることがあるんだろうなと思っていた。二人とも普段から元気な人だったので、私は忌引きを取ることは一生なくて、祖父母はもしかしたら不死身なのかもしれないと思っていた。でも祖父が死んだので、不死身ではないのがわかった。私もあの人もいつか終わりが来る。
家族の前では何故か泣けなかった、涙は出たけど。一番泣いていたのは祖母だった。何十年と連れ添ったんだからそりゃそう。起きろと言いながら祖父の頬をペチペチ叩くので、納棺前に口元が崩れてしまった。母と叔母はずっと働いていた。叔父も働いたりしていた。私も働いたり、祖母の近くにいると、祖母を大きな妹のように思うなどする。一人になるとようやく泣くことができた。本当は、こういう時は泣いた方が良い。
祖父の戒名には「優」という字が入っている。確かに優しい人だった。参列した親戚たちも優しいおじさんだったねと言っていた。でも優しいという言葉がどうも嘘っぽく見える。文字を打ち込んでいる今でも。優しいという言葉は、優しい、という要素以外の全てを切り落とす。
私が家族からかけられた言葉の中で最も多いのは「頑張れ」だと思う。早産で小さめの赤ん坊だったので、保育園でも小学校でも背の順がいつも前の方だった。かけっこが遅かったので頑張れって言われたり、食べるのが遅くて頑張れって言われたり、他にもたくさん言われた気がする。応えたくて何かを頑張ったけど、それは何だったかもう分からない。頑張り屋さんだねとも言われた。嬉しかった。年齢を重ねても頑張れとは言われたけど、何を頑張ったら良いのか分からなくなっていた。この時多分中学生くらい。勉強や部活で私くらいの「頑張り」をしている人は沢山いたし、もっと多くそうしている人もいた。頑張れという言葉が嫌いになった。
実家を出ることに決めた時、家族からお祝いの言葉やお金をもらった。一番喜んでいたように見えたのは祖父だった。頑張ってくれな。葬儀でお経を聴きながら、祖父の遺影を見ながら、この時の「頑張れ」を思い出した。自分で自分の呪いを解くこと、今より自由に生きること、やりたくないことをやめること。連れて行って欲しいとか私もそっちに行きたいとかは思わない。帰ってきてほしいとも思わない。祖父の孫は私しかいなかったから随分特別扱いしてくれたと思う。最近はいつもこれが最後だと思って会っていたから、もう良いんだけど。生きたままの身体では、とっくに亡くなった祖父のお母さんや、兄弟や友達には会えないし。ただ、もうどこにも、祖父が居ないことだけが寂しい。
祖父が亡くなってからお通夜のあった日の昼過ぎまで、私たちは祖父の亡骸と暮らした。知らない人の死体だったら絶対いやだけど、それは祖父だった死体だったから怖くはなかった。亡くなったばかりの祖父はまだ温かかった。だんだん冷たくなって、握り拳も開かなくなった。冷房をつけまくった祖父の寝室は生身の人間には寒かった。祖母は、祖父の亡骸の前で何本も線香をお供えするので、部屋中が煙たかくて頭痛がした。林のように立ち並ぶお線香。「仏さんはお線香の香りが好きだからね。」仏さんって誰のことだか直ぐにはよく分からなかった。戒名をもらうだけで可成お金がかかる。それに、生前の性格や生き方を基に決めてもらうそうだが、俗名の響きとは全然違うものになるので何となく嫌だった。だから私が死ぬ時は俗名で良いと思っていた。
火葬場から出て来た祖父の白い骨を見て、これは私のおじいちゃんじゃない!と、はっきり思った。これは俗名で呼ばれていた、かつて私の慕っていた祖父とは別の物体、戒名で呼ばれるべき物だった。あれから自分の戒名が欲しくて考えている。 いま私が死んでしまったら、小鼻の毛穴とか、おできとか、お棺の窓から何度も見られるのかな、困ったな。スキンケア頑張りたい。
2023/5/16 15:01
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