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ディストピア作品と恋と愛

ディストピア論

 吉川浩満氏の述べる功利主義の三大特徴を、ふたつのディストピア作品と照らし合わせて掘り下げていきたいと思う。彼は功利主義とディストピア作品について「浅薄で、下品で、グロテスクでありながら、同時に深遠で、エレガントで、美しい。」と綴っている。
 ここで私が扱う「ディストピア作品」は小説だけに限らずあらゆる作品についてであり、ここでは「ディストピア作品」の解釈を少し広義的に捉える。ディストピアは、「現実とはひとつ離れた世界線で繰り広げられる話だが、どこか現実味を帯びていて、このまま進めばこちらの世界線でも起こり得る」と広義的に解釈できる。この解釈をするとき、ディストピアと現実の世界線はひとつ以上離れてはいけないし、ひとつよりも現実に近づいてはいけない。

 ディストピア作品における浅薄さ、下品さ、グロテスクさについては言うまでもないだろう。その要素なくしてディストピアの崇高な冷たさは表現できない。ディストピア作品の多くは表面上は監視だとか破壊と再生だとか、そういう浅はかなグロテスクによってコーティングされていて、大衆はそれを味わうことを目当てに本屋や映画館、劇場へ足を運ぶ。それはディストピア作品の最大の特徴であり一定のエンターテインメント的品質を保障するための要素であるといえよう。

 しかし本質はそこではない。ディストピア作品の本質は、その舞台における社会的背景と主人公の心理的動向の対比によってあらわになる。
 『一九八四年』ではヒトの思考という不確定要因の排除のために、「ニュースピーク」が使われる。主人公〈ウィンストン〉はノートに自身の思考を書き留めることで政府に抗おうとする。それに対し『真夜中乙女戦争』では、現実社会に絶望している主人公〈私〉が〈黒服〉という人物に出会ったことをきっかけに東京を破壊へと導いていく。
 『一九八四年』を代表例とする功利主義化した社会と「思考」を持った主人公との対立、その逆である『真夜中乙女戦争』を代表例とした「功利主義化しない社会」と「それを破壊し再構築しようと目論む主人公」など、多くの場合その二つは対極にある立場で描かれている。その中で、功利主義を主張する側はたいてい総和最大化された幸福主義を謳っていて、その手段として不確定要因を排除しようとする。『一九八四年』はその主張が分かりやすいが、『真夜中乙女戦争』では幸福と不確定要因の排除が同時かつ極論的に起こるため、本質を見抜くことが難しいとされるだろう。
 ヒトがそのコンテンツを受けた時に感じる深遠さ、エレガント、美しさとは、総和最大化された幸福主義と不確定要因の排除(=功利主義)であり、その功利主義に抗う立場が、功利主義の本質を一層際立たせる。
 この本質こそが、ディストピア作品が読者や観客を満足させる所以なのである。

 『一九八四年』は1949年に出版され今日でも多くの人々に読まれている謂わば「古典SFディストピア」であり、対する『真夜中乙女戦争』は2018年に小説が出版されてつい二週間ほど前に映画化となった、「最先端ディストピア作品」である。
 作品の広告として浅はかなグロテスクを主張し大衆を引き寄せ、その作中で功利主義の本質を際立たせることで、エンドロールまで堪能し映画館や劇場から出る人々、読み足りずあとがきまでしっかりと読み終えた人々を満足させる。それがディストピア作品が近現代で長く人気を誇っている理由だろう。

ディストピアと恋と愛

 これは完全に私の読書経験上の主観だが、ディストピア作品には「恋と愛」がつきものである。

 功利主義の美点に挙げられる「帰結主義」は動機や状況(=不確定要因)を排除することであり、煩雑な動機や状況を生む恋と愛は、功利主義を望む側からすれば邪魔だ。本来の功利主義は「全体社会のために個別の生命を犠牲にする」が理念なため、「そのひとりが自分の世界の全てになる(=恋)」や「そのひとりに自分の持ちうる全てを捧げる(=愛)」とは対極に位置する。

 しかし、主人公は恋をすることによって功利主義から目を覚ますことが往々にしてあるのだ。
 『一九八四年』では主人公〈オーウェン〉が自身と同じようにまだニュースピークに洗脳されていない〈ジュリア〉と出会い隠れ家で共に過ごすようになる。のちに彼らは思想警察に捕らえられるが、オーウェンは自身の信念を打ち砕かれ党の功利主義的思想を受け入れるその直前までジュリアを愛し、拷問を受けながらも彼女のことを思って自分の全生命力を捧げて耐え抜こうと抗うのである。
 『真夜中乙女戦争』では、なにもかも壊したいと心から望んでいた主人公〈私〉が〈黒服〉と出会い東京を破壊する計画を進めていくが、〈先輩〉への恋慕を募らせていく中で彼女が視界の全てになり、彼女だけでも生きていてほしいと願い「計画」から逃げ出すことを決意する。

 これらのように、ディストピア作品における「恋と愛」は主人公の意識を功利主義から引き離す役割を担っている。主人公の意識の変化は物語が進行していく上で重要な転機を迎えるために必要な要素であり、もしなければその作品はどうにも単調な構成になってしまうだろう。恋と愛は、意識の変化に非常に分かりやすいきっかけを与える。ディストピア論で前述した通り繰り返しになるが、ディストピア作品は「功利主義」と「個人の幸福」の対比によって観客を魅了する。その対比をつくりあげる上で、恋と愛が重要な役割を担っているのである。

 私がここで「恋愛」ではなく「恋と愛」と拘って表記しているのは、これらには決定的な違いがあるからなのだが、「恋と愛」についてまで掘り下げて書くとかなり話が伸びてしまうためまた別の機会とする。序でにいずれ書きたいことをいくつかここに書き留めておく。
「小説と映画化作品について」
「恋と愛が生み出す作品の“エモさ”」
「忘れたくないことを忘れることと、忘れてもいいことを忘れていないこと」


P.S.
最後に一九八四年を読んだのはもう二年も前のことですし、真夜中乙女戦争もまだ原作は読めていませんからどこか記憶違い、解釈違いがあるかもしれませんし、あくまでも私の浅い浅い人生経験における主観ですので、どうかお手柔らかに。

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