『葵の覚悟』

 私の夢は医者になること-
 開業医の元に生まれた葵は、その環境から自然と、将来は医者になると決めていた。お金は問題ないし、幼い頃から家庭教師を付けられて育った葵は、成績も優秀だった。
 医者への第一歩が医学部に入ることは言うまでもない。そのために葵は必死に勉強してきた。しかし現役では受からず、一浪して臨んだが、惜しくも合格を勝ち取ることは出来なかった。

 私には何が足りないのだろう…葵は考えた。まずは本当に医者になりたいのか?と考えた。ただ医者の家に生まれたから、そう思っただけではないのかと。でもそんなことはない。幼い頃から父の働く姿を見て、私も医者になろうと固く決意した。ただ何となく決めた道ではない。

 どうしたら良いか分からず、父に相談してみた。
「医者になる、ならないは葵の自由だよ。無理にここを継いでほしいとも思っていない。でも葵、君はお父さんみたいに人を助けたい、いつもそう言っていたんじゃないのか?」
「そうなんだけど…。」
「世の中には、医者になりたくてもなれない人は大勢いる。どんなに努力しても、ある程度のお金と頭がないと、正直なるのは難しい。葵はその両方を持っているじゃないか。」
「そうよね。恵まれているよね。でもどうしたらいいんだろう…。」
「覚悟が足りないんじゃないのか?」
「覚悟?」
「そう。全てを懸ける覚悟だよ。葵を見ていて、確かによく勉強しているけれど、どこかこう、死に物狂いで医者を目指す、という気迫は感じられないんだよ。」
「……。」
「気持ちの問題だよ。そこを考えてごらん。」

 その晩、夜中まで考えた。私には覚悟が足りない…父の指摘は鋭い。勉強の息抜きと称しては、あちこち遊びに行き、化粧も覚えた。彼氏こそ作らなかったが、高校生活を満喫していた。浪人生活も、模試の成績が良ければ自分へのご褒美を与えていた。心のどこかに「これだけ勉強すれば大丈夫。医学部に合格して当然。」という甘えがあったのではないか。

 考え疲れて歯磨きをしに洗面所に立った時、ふいにこんな考えが浮かんだ。
 「この髪、受験にはいらないかな…。」
 葵の髪は長い。アレンジを変えたり色を入れたりして楽しんでいた。よくよく考えてみると、髪を洗ったり、セットしたり、美容院に行く時間がもったいない。その時間を勉強に充てたら、少しは合格に近づくだろうか。髪を切ってみようか…。
 どれぐらい切ろうか?ボブだとまたすぐに伸びてきて、毛先を揃えないといけない。思い切ってショートにする?でもショートにしている友達によると、月に一度は美容院に行かなければならず、案外時間もお金もかかるらしい。寝ぐせを直すのも大変とも聞く。
 ボブでもショートでもない髪型…一つとんでもない事を思いついた。丸坊主だ。いっそのこと丸坊主にしちゃえば、髪にかかる時間が浮く。彼氏がいるわけでもないし、外に出る時はウイッグでもつければいい。それに勉強が大変で、お洒落なんて考えていられなくなるだろう。伸びてきたら床屋に行けばいい。いや、その時間ももったいない。バリカンを買ってきてお母さんにやってもらおう。
 こけだ!と思った。私にはこの覚悟が足りなかった。
 
 でも丸坊主…背筋がゾクッとした。髪をかき上げてみた。物心がついてからは、ショートにもしたことがない。伸びてくるとボブにすることがあったぐらいだ。普段はポニーテールにしていることが多い。それを一気に丸坊主…でもそれぐらいしなければ、医学部には受からない気がした。
 一瞬、スキンヘッドにしてしまおうかとも思ったが、剃刀で剃られるのはなんだか怖い。しばらく切らなくても済むように、一番短い丸坊主にしてもらおう。
 恐る恐る動画サイトで女性の坊主を検索してみた。すると思いのほか沢山の動画が見つかった。試しに一つクリックしてみると、女の子が集団で坊主にされていた。外国のチャリティーのようだったが、その姿に驚いた。たいてい笑顔で髪を刈られている。前髪からバリカンを入れられて、ロングヘアがあっという間に丸坊主にされていた。
 外国にはこんなチャリティーがあるんだ…みんな嫌じゃないのかな。でも私よりも年下の女の子が出来るんだから、私にも出来るかな…。よし、丸坊主にしよう!
 
 次の日、決心が鈍らないうちに、まずは床屋探しを始めた。美容院だとあれこれ言われて断られるかもしれない。床屋ならば坊主にも慣れているし、断られはしないだろう。ネットで検索して、女性理容師が切ってくれるところを探した。男性にバリカンで坊主にされるのは恥ずかしいし辛い。同じ女性なら、私の気持ちも少しは分かってくれるかもしれない。 
 運良く自宅からそう遠くないお店を見つけた。顔写真も出ていて、優しそうな女性だった。春香さんというその理容師のプロフィール欄には【お洒落な坊主が得意です】と書いてあった。この人にしよう。予約ボタンをクリックするのに、手が震えた。髪を刈られているところを人に見られるのが嫌なので、一番遅い時間にした。
 
 床屋に行く前日、丁寧に長い髪をシャンプーした。今までありがとうという気持ちを込めて。明日にはこの髪が全部なくなる。そう考えると、何だか悲しくなってきた。やめてもいいかな…。でもこのままじゃいけないな…。
 
 次の日。昼間は勉強をするも、身が入らない。少しでも気を抜くと、髪のことを考えたり触ってしまう。今夜にはもう丸坊主になっている。こんなことする必要があるのか、しかしこれぐらいしないと医者にはなれないとも思う。自問自答の堂々巡りをしているうちに、予約の時間が迫ってきた。
 身支度を整える時、ふと髪をどうまとめようかと考えた。いろいろ迷った末、最も好きな髪型のポニーテールにしていくことにした。こうしてポニーテールを作ることも、もう当分ない。何年したら今の長さに戻るのだろう。

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 溢れそうになる涙を飲み込んで、家を出た。電車に揺られ、駅に降りた。ふと丸坊主の男性が目に入った。今刈ったばかりだろうか。きれいに整っていた。私ももうすぐああなるんだ…。その男性が立ち去るまで、葵はしばらく見つめていた。
 床屋は駅前だったので、すぐに見つかった。何往復かして、コンビニで立ち読みし、気持ちを落ち着けてからお店に入った。扉が重く感じた。
 丁度高校生ぐらいの客が散髪椅子に座っていた。理容師はバリカンを手にしている。もしやと思ったら、彼の前髪からバリカンが入った。もともと短かかった髪が一瞬でなくなり、地肌が見える。バリカンは止まることなく進み、次々に髪を刈っていく。ものの5分で丸坊主になった。椅子に座るのも忘れて思わず身構える葵。動画で見たのと同じ光景が、目の前で展開されている。あれがバリカン…私もああやって刈られるんだ…自然と髪に手をやっていた。

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