![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/79451296/rectangle_large_type_2_d7953ef5c9c95c9bffed38352f331628.jpeg?width=1200)
洗練されること ついてまわるもの
洗練が極まってくると 相手の初期動作を見ただけで、手練れかどうか伝わってきます。見極めの力も高まっているのです。空手の有段者など、道着の着こなしで、その鍛錬ぶりが見て取れる。お茶なども、着物の着こなしはもちろん、所作の染み込み具合で、どれくらい学んできたかがわかる。競い合いの場となれば、結果もある程度予測がついたりします。 ひどい話しが、始まる前に決着はついたりするのです。
俳優がクラスで場面練習をするとき、見る側の椅子に座っていた俳優が、自分の番が来て立ち上がり、見られる側のステージへ向う時。その後ろ姿を見ただけで「やるな」というのが判ります。椅子に座っていた時から、準備が既に完了していた佇まいがあるのです。
洗練された俳優同士が向き合った場合には、相乗効果で良い結果が生まれるでしょう。そうでない者同士の場合は、完成度の未熟さが一瞬で伝わるので、その後の場面練習は退屈なものになります。
但し、洗練を極めすぎると、あるものが付属してくることも理解しておく必要があります。見極めがつくということは諦めもつくという事です。双方の力関係が読めた瞬間、無駄を省くことを選択しがちです。無益な傷は追いたくないとなるのです。洗練は先見に似ている。見極め力には諦め力もついてくる。それをよく理解しておきましょう。ですから、若いうちはそこを目指さないほうがいい。勢いに乗って闇雲に突っ走ったほうがいい。 残るものだけが残る。人も技術も。