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いつもの「ノーベル」文学賞は?

日本の「芥川龍之介」ノーベル賞はいつだったか

いや芥川はとってなでしょう、取ったのは川端康成でしたよね「伊豆の踊子」を書いた。

https://ja.wikipedia.org › wiki ›  「伊豆の踊子」
『伊豆の踊子』(いずのおどりこ)は、川端康成の短編小説。川端の初期の代表作で、伊豆を旅した19歳の時の実体験を元にしている。孤独や憂鬱な気分から逃れるため伊豆へ向かう話。

実体験とありますから、そこでその少女に恋をした、という話しを小説にした、それが「伊豆の踊子」でした。

よく似た話が芥川にもありました。

■芥川龍之介 (芥川荘 千葉県一宮町)
一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1961)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられました。
芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる「塚本文」に長い球根の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させていたのでした。
建物は明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建てで、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっています。
※詳細情報 「一宮観」 所在地千葉県長生郡一宮町一宮9241(一宮館内)連絡先 0475-42-2127

■余談話ですが~、かつてこの一帯は東の白砂青松「大磯」として名を馳せ、特に上位軍人トップの別荘地でした。その核は、皇族系施設の「一宮学園」があり、その近衛的な任務を担っていたと思われます。また、歴史的には古代史の一項目として「延喜式神名帳」にある「上総国一宮」とありますから歴史的には「親王任国」として、国家的地位はあったようです。

その芥川とノーベル受賞の川端康成は、いずれも別荘地で、避暑として過ごし、その合間に恋をして小説にするという、今風にいったらシンガポールの現地妻滞在記、といったらその文豪たちに𠮟られますが。

ま~、その「親王任国」赴任先でも、現地妻、とかいうのがあって、1千年まえの男と女は、まったく変わっていないということです。もちろんセクハラなどありませんので、やり放題だったですがね。

やっぱりノーベル賞と云えどもオリエンタル思考はムリ?

話しをノーベル賞に戻して、2024年は誰か、という話しです。今のところ該当各賞日本人はいないようで期待感は少ないです。

かつて川端康成受賞の時のノーベル賞受賞の余談話が、ありますので、これを紹介しましょう。

その相手が誰かといったら、今でも存命していたら受賞間違いないという人が「三島由紀夫」です。物故者にはそれ該当しませんので永遠にない。

その真逆、川端は取ってから自殺して名を遺した。その対極、三島由紀夫は、外した2年後に自刃割腹して果ててしまった。川端はその4年後ガス自殺。

と、それを知る度に思いますが、なぜ、ノーベル賞は、三島由紀夫を正当評価できなかったのか。(詳細は下記文で)

今でも三島由紀夫作品は海外でも人気の高い作家です。相乗して、今の若手作家にしても、そのエージェントが海外に売り出していて、国内無名作家が、あっという間にメジャーになることが増えました。

それとは別に、三島由紀夫は、日本の神道にも通じた精神性を書いている作品ですから、ノーベル賞は、有史以来の最大の瑕疵を犯してまった、というべきでしょう。(なんか今のEV車騒動を近似、彷彿とさせます)

話は似てませんが、「ジョン・レノン」「ステープ・ジョブス」が、物故してさらに名、ーを遺した、とするなら「三島由紀夫」は、その筆頭でしよう。

一宮観内 芥川荘 (千葉県一宮町 見学可能)

芥川荘

2024年ノーベル賞発表 10月7日~

2024年のノーベル賞発表は10月7日(月)の生理学・医学賞からスタート。物理学賞は8日(火)、化学賞は9日(水)、文学賞は10日(木)、平和賞は11日(金)、経済学賞は14日(月)

記録で見るノーベル賞 ノーベル賞は “最高権威”
ノーベル賞は、ダイナマイトを発明したスウェーデン人、アルフレッド・ノーベルの遺言に基づいて1901年に創設された賞です。現在は、『医学・生理学』『物理学』『化学』『文学』『平和』それに『経済学』の6つの賞があります。それぞれの分野ごとに毎年3人までが受賞し、これまでに900をこえる個人と団体が受賞しています。自然科学の分野では、ノーベル賞は「世界で最も権威がある賞」とされています。

ノーベルの遺言では「前年に人類に最大の貢献をもたらした人々」に賞が贈られることになっていますが、実際には前年の功績とは限らず、数十年前の成果で受賞することがあります。
選考は、毎年9月に世界中の研究者に数千通とされる推薦状を送り、翌年のノーベル賞にふさわしい人物を挙げてもらいます。

推薦状は、翌年1月に回収したうえで、そこから1組3人以内に受賞者を絞る作業を行います。
物理学賞と化学賞の場合、「ノーベル委員会」という選考機関が候補者を絞り込み、最終的には、専門家350人が参加する「スウェーデン王立科学アカデミー」が協議して受賞者を決めます。ノーベル賞は原則、生きている人しか受賞できません。
誰がどの人物を推薦したかなど選考の過程は秘密とされ、50年後にならないと公開されない仕組みになっています。

日本人受賞者は
『医学・生理学賞』『物理学賞』『化学賞』の自然科学系、3つの賞でみると日本人はこれまでにアメリカ国籍を取得した人も含め22人が受賞してます。
『平和賞』『文学賞』でも3人が受賞しています。
日本のノーベル賞受賞者(自然科学系)
受賞年 氏名(受賞時年齢) 対象研究
1949
湯川 秀樹 (42)

物理学賞
核力の理論的研究に基づく中間子の存在の予想
1965
朝永 振一郎 (59)

物理学賞
量子電磁力学の分野における基礎研究と素粒子物理学についての深い結論
1973
江崎 玲於奈 (48)

物理学賞
半導体内および超伝導体内の各々におけるトンネル効果の実験的発見
1981
福井 謙一 (63)

化学賞
化学反応過程の理論的研究
1987
利根川 進 (48)

医学・生理学賞
抗体の多様性に関する遺伝的原理の発見
2000
白川 英樹 (64)

化学賞
導電性高分子の発見と発展
2001
野依 良治 (63)

化学賞
キラル触媒による不斉反応の研究
2002
小柴 昌俊 (76)

物理学賞
天文物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献
2002
田中 耕一 (43)

化学賞
生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発
2008
南部 陽一郎 (87)

物理学賞
素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見
2008
小林 誠 (64)

物理学賞
小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見による素粒子物理学への貢献
2008
益川 敏英 (68)

2008
下村 脩 (80)

化学賞
緑色蛍光タンパク質(GFP)の発見と生命科学への貢献
2010
根岸 英一 (75)

化学賞
有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリング反応の開発
2010
鈴木 章 (80)
2012
山中 伸弥 (50)

医学・生理学賞
成熟細胞が、初期化され多能性を獲得し得ることの発見
2014
赤﨑 勇 (85)

物理学賞
明るく省エネルギーの白色光源を可能にした効率的な青色発光ダイオードの発明
2014
天野 浩 (54)

2014
中村 修二 (60)

2015
大村 智 (80)

医学・生理学賞
線虫の寄生によって生じる感染症に対する画期的治療法の発見
2015
梶田 隆章 (56)

物理学賞
ニュートリノが質量を持つことの証拠であるニュートリノ振動の発見
2016
大隅 良典(71)

医学・生理学賞
オートファジー(自食作用)の仕組みの発見
受賞年 氏名(受賞時年齢)
1968
川端 康成 (69)

文学賞
(代表作)山の音 雪国 伊豆の踊り子
1974
佐藤栄作 (73)

平和賞
非核三原則の宣言など
1994
大江健三郎 (59)

文学賞
(代表作)飼育 万延元年のフットボール 新しい人よ眼ざめよ
世界のメダル数をマップで見る 地域別の受賞者数

https://www3.nhk.or.jp/news/special/nobelprize/2018/table.html

NHK NEWS WEB

三島由紀夫×川端康成 ノーベル賞の光と影 2019年2月4日(月) NHK クローズアップ現代
1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成。その時、同時に候補となっていたのが、三島由紀夫だったことが分かった。1月にスウェーデン・アカデミーが当時の選考過程を公開、三島は「今後の成長によって再検討も」とされていたのだ。しかし、その2年後に、三島は割腹自殺。さらにその2年後、川端はガス自殺をする。二人はなぜ死を選んだのか?宮本亜門さんをナビゲーターに大胆に読み解く。

2024年のノーベル賞発表は10月7日 三島がノーベル賞を受賞していたら
ゲスト宮本亜門さん(演出家)
ゲスト平野啓一郎さん (芥川賞作家)
ゲスト中江有里さん(女優・作家)
宮本さん:あまりにもノーベル賞、そして2年後の三島自決、また2年後の川端の自殺ということは、やはり何か影響があるのかなと気になるところではありますよね。正直、個人的に言いますと、あの三島由紀夫がノーベル賞ごときで影響するのか。してほしくないという、個人的なですよ、個人的な。文学者としては。
平野さん:僕は三島の「金閣寺」を読んで文学に目覚めて、本当に三島なくしては自分が小説家になれなかったというくらい非常に大きな影響を受けましたけれども、ノーベル賞を取った作家ということで手に取ると、またちょっと印象は違ったと思いますよね。
中江さん:三島がもし取っていたら、川端のノーベル文学賞もなかったわけですよね。ダブル受賞というのはたぶんありえないと思うんですね、これまでのことを考えると。だから、ちょっとあまり現実的じゃないなというのが私は正直な印象ではあります。どうしても年功序列というか、やはり上の方が取るんじゃないかなと。
半世紀たち明らかに ノーベル賞巡る2人の思い
宮本さんがまず訪れたのは、三島の最期の場所となった自衛隊の駐屯地。ここで三島は、日本刀を手に自衛隊の幹部を監禁した末、切腹したのです。
「刀傷。」
宮本亜門さん
「これは三島由紀夫さんがつけた?」
「(三島が)『邪魔するな、出てけ』ともみ合ったそう。」
宮本亜門さん
「ここまでしなければならなかったのか、疑問ばかりが残るな。」
以下省略 

denmira.jp 手紙


denmira.jp

ノーベル文学賞秘話 2018.10.10 NHK サイカル

小説家の川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞したのは、今からちょうど50年前の1968年。それから半世紀、この文学史に残る出来事が違う結果となっていた可能性があったことが分かってきた。

NHKがこの時代のノーベル文学賞の選考資料を調べたところ、賞の選考機関が、2人の日本人作家に同時に賞を贈る可能性を秘密裏に検討していたという、これまで全く知られていなかった事実が明らかになったのだ。
選考機関はなぜ「2人同時」を検討したのか。その「2人」とは誰なのか。この発見について、取材記者が報告する。


Google

50年を経て公開される選考資料
スウェーデン・ストックホルムの旧市街は、中世からの建物に石畳の細い坂道が入り組み、歩いているだけでなんとも歴史を感じさせる場所だ。

その中心地に位置する広場に、ノーベル文学賞の選考を行う「スウェーデン・アカデミー」がある。

先月、私は、アカデミーの閲覧室に入っては、連日、膨大な量の文書と格闘していた。

読み込んでいたのは、アカデミーに保管されるノーベル賞の選考過程を記した資料だ。これらの資料は50年にわたる秘匿期間を経て、見ることができるようになる。

来年1月には川端康成が受賞した1968年の資料が公開されるため、それ以前の資料を改めて徹底的に調べ直そうと考えたのだ。

情報公開請求を行った資料は、谷崎潤一郎と詩人の西脇順三郎が初めて候補となった1958年から67年までの10年分。

リサーチャーの助けを借りながら250ページにのぼる資料を読み進めていくと、これまで目にしたことのないある資料にたどりついた。

「2人同時授賞」検討の新事実 見つかったのは、1965年の選考資料の1つ。

アカデミーが賞の選考に役立てる目的で、この年に日本で行っていた聞き取り調査の報告書だった。
報告書の末尾には「1965年8月8日」の日付と共に「東京」と記されている。翌月・9月に行われる文学賞の選考に間に合うよう東京で報告書をまとめ、本国・スウェーデンへ送られたものだったのだろう。

ノーベル文学賞の選考資料は数多く見てきたが、「調査報告書」という種類のものを目にしたのは初めてだ。
さらに驚いたのはその中身。報告書は15ページあり、その冒頭には次のような調査目的が記されていた。

「日本の教養のある人々が4人の日本人候補者ー川端康成、三島由紀夫、西脇順三郎、谷崎潤一郎―とノーベル文学賞についてどのように考えているか。また賞をこのうちの1人、あるいは2人の作家に授与した場合の考えうる反応について調査した」

「2人の作家?」と私は目を疑った。

この時期、谷崎・川端・三島・西脇の4人が候補となっていたことはすでに報じられていたが、「2人同時授賞」の可能性をアカデミーが検討していたというのは、初めて明らかになる事実だ。

秘密裏に進められた調査
報告書を読み進めると、この資料がとても興味深いものであることがわかってきた。

聞き取りの対象は10人あまりの日本人で、匿名のため肩書きだけが記されていたが、文芸評論家や日本文学が専門の大学教授などのほか、文学への関心が高い財界人や国会図書館の司書など、さまざまな立場の人から話を聞いている。

調査自体は小規模だが、報告書の中には「守秘義務が何より重要である」とか「メディア業界の人間は避けた」などとも記されていて、調査を秘密裏に行おうとしていたことがうかがえるのだ。

報告書によると、聞き取りを行った日本人からは川端と谷崎を評価する声が特に多く聞かれたということで、三島については「比較的若く、日本では候補として真剣に考えられていない」と記されている。

また、「日本人作家のノーベル賞受賞に対して数年前から非常に大きな関心を抱いている」と、国内で日本人初受賞への期待が高まっていることにも触れているほか、2人同時受賞についても、「文学賞が川端と谷崎のうちの1人または2人に与えられたら、日本で批判が出る可能性は全くないであろう」という大学教授の声を取り上げている。
そして報告の最後には、「川端と谷崎のどちらが賞に値するか、限られた資料の中で結論を導き出すことはできない。したがって2人に同時授与する方法が考えられる」と調査担当者の提言が記されているのだ。ノーベル文学賞の選考の歴史を調べている専門家は、今回明らかになった資料について次のように分析する。

「2人同時授賞を考えているという情報はこれまで全くなかった。ここでの『2人』は川端と谷崎を念頭に置いていたと思われるが、それだけ2人の評価がアカデミー内できっ抗していたと考えられる。純粋な文学的評価だけでなく、知名度や評判や人気といった、日本人の本音の部分も知りたかったのではないか。また、初めて東アジアの国に賞を与えるにあたって、『1人の作家に対して』というよりも『アジアという地域や日本という国に与える』という意識があったのではないだろうか」(日本大学大学院 秋草俊一郎准教授)

2人同時受賞は幻に…

しかし、現実の選考は、この報告書の提言のとおりには進まなかった。谷崎潤一郎が、この年の選考を目前にした7月30日に79歳で亡くなったのだ。

ノーベル文学賞は生きている作家にしか与えられない。

結果的に、谷崎はこの年の選考の対象から外れ、日本人初のノーベル文学賞は、3年後の1968年に川端康成が1人で受賞することになる。この選考資料の存在を知った後となっては、谷崎の死がなおさら惜しく感じられる。

調査の裏に意外な“日本通”
今回の調査報告書を読み進める中で、私はひとつの疑問に行き当たった。
報告書によると、聞き取りは主に英語で行われたということだが、同時に「2~3のケースはごく初歩的な日本語で行われた」とある。
1960年代のスウェーデンでは「初歩的」といえども日本語を話せる人物は多くはなかったはずだ。
はるか東の日本を訪れて聞き取り調査を行ったこの男性、いったいどのような人物だったのだろうか…。

唯一の手がかりは、報告書の末尾に記されていたサインだった。
記されていた「ヨーン・ローンストローム」という名前について調べると、この時期の「スウェーデン王立図書館」に同じ名前の司書が存在したことがわかった。

すぐに王立図書館に何か手がかりがないか尋ねてみると、数日後に回答が。なんと、いくつかの資料が見つかったという。
さっそく王立図書館を訪れると、対応した女性スタッフは「私もこの人物については知らなかった」と語りながら、ひとまとまりの書類の束を見せてくれた。
表紙には報告書と同じ「ヨーン・ローンストローム」の名前があった。

書類の1つにはこの人物の経歴が記されていて、「60年代中頃、日本に長期滞在した」とある。

まさにあの調査を行った人物で間違いなかった。
1916年にロシアで生まれたローンストロームは、翌年に勃発したロシア革命によってストックホルムに亡命。生後間もなく母を亡くし、のちに父とも離れて、おばに育てられたという境遇は、勝手ながら、幼くして肉親を失った川端康成の生い立ちと重なって感じられた。

この司書が日本で調査を行っていた時期の書類もいくつか残されていて、そこから意外な事実も明らかになった。

1965年の4月1日から9月30日までの間、王立図書館の仕事を休職し、日本語と図書館学を学ぶという目的で複数の奨学金を受けて日本に留学をしていたのだ。

そして、この年の8月13日に、この司書が東京からスウェーデンに送った手紙までもが見つかった。

宛先の「ウーノ・ヴィラーシュ」は王立図書館の元館長で、この時期のスウェーデン・アカデミーの書記長を務めていた人物でもある。

おそらくこの人物がアカデミーからの依頼を受け、この司書に調査を任せたのだろう。

手紙は、書き上げた調査報告書を航空便でスウェーデンに送ったことを伝える内容で、「お役に立てば幸いです」とまとめられている。

また手紙の途中には、「今は東京に住んでいるが、日本での滞在の最後には京都のお寺でも過ごしてみたい」と記され、ローンストロームが日本通であったことがうかがえる。

資料の中には、きまじめそうな表情でじっと正面を見つめる証明写真風の顔写真も残されている。

アカデミーの思惑は
一方、今回の調査報告書は、アカデミー側の思惑を探るうえでも重要な資料と言えそうだ。

歴代のノーベル文学賞の受賞者は、賞が始まった1901年以降、長く西洋の作家に偏っていた。アジアでは1913年という早い時期にインドの詩人、タゴールが受賞したが、タゴールは母語のベンガル語で詩作を行うかたわら、みずから英訳した詩も発表していた。

西洋の言語で作品を書かないアジアの作家の受賞は、1968年の川端康成が初めてだったのだ。

この時期のアカデミーによる選考の経過をまとめた「議事録」を見てみると、三島由紀夫が最終候補となった1963年の議事録には、「新しく重要な言語領域にノーベル賞を広げることを強く望んでいる」と記されているほか、川端康成が最終候補となった1966年には「日本に賞を授与することは賞の地理的拡大を意味し、その観点からも魅力を感じる」という考えが示されていて、当時のアカデミーにとっては、日本という“新しい国”に賞を贈ること自体が大きな意味を持っていたことがうかがえるのだ。

しかし、当時のアカデミーが日本文学を正しく理解することは、簡単なことではなかった。

スウェーデンにおける日本文学の受容に詳しく、村上春樹作品のスウェーデン語訳も手がけているジャーナリストで翻訳家のデューク雪子さんは、文学は言語の壁があることから理解が困難だったとして、「関心があったが、読めるのは英語かドイツ語かフランス語の訳だけで、アカデミーの知識はまだ非常に浅かった」と当時の状況を説明してくれた。

そのうえで、アカデミーが日本での聞き取り調査を行っていた理由については、「有名な日本文学者に尋ねても、川端がいいとする人もいれば谷崎の方がいいとする人もいて、戸惑っていたと思う」と、日本文学を正しく理解・評価することに苦慮していたのではないかと指摘している。

2人の運命は変わっていたか
今回の発見によって明らかになった、日本人作家の“2人同時受賞”の可能性。実現した場合、最も可能性が高いのは谷崎潤一郎と川端康成の組み合わせだろうが、取材を進めながら、私はある考えについても思いを巡らせていた。

「もしも、川端と三島が同時受賞していたら…」

デビュー前から川端を慕っていた三島と、その才能を高く評価してきた川端。いわば文学的な師弟関係にあった川端と三島は、長年にわたって書簡を交わしてきたが、川端がノーベル賞を受賞した1968年以降、その手紙のやりとりは少なくなっている。

そして川端の受賞の2年後、三島は割腹自殺をして45歳にして帰らぬ人となった。

さらに2年後には川端自身も自殺によってこの世を去る。

すべての出来事の因果関係は不明だが、もしも2人が同時にノーベル賞を受賞していたら、その先の2人の運命は少しでも違ったものになってはいなかっただろうか。空想であると分かりつつも、ついそんな思いを抱いてしまう。
いよいよ川端受賞の真相が明らかに

そして来年1月、川端康成が受賞を果たした1968年の選考資料がいよいよ公開される。

川端はどのような評価を受けて受賞を決めたのか。その年の三島の評価はどうだったのか。これまで名前のあがっていない別の日本人作家も候補に挙がっていたのかなど、新たな事実が判明する可能性もある。

日本文学史上初の快挙の背景にはどのような事実が残されているのか、正月返上の取材が今から楽しみだ。


ノーベル賞秘話 サイカル

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