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古代国家パルティア

ひっそり静まり返った一室でひとりディスプレーを眺める。そんなあなたにとっておきの、「読み物」を提供しよう。
 
 話は古代北欧紀元前と後の物語。古代ローマ帝国の逸話にまつわる古代国家存亡諸説。そこにパルティアといういにしえの美しい国があった・

「古代国家パルティア」
 パルティアのことは古代音楽楽器を紹介している本に書いてあった。
「シルクロードの響き」という題名で、それは「古代音楽と楽器のルーツ」を語った本である。その中にパルティアという国を初めて見て知った。
 すなわちそれはパルティアが古代歴史の中での存在感が希薄であるという証明でもある。

 西欧史上の歴史的なアレクサンドロスの東征物語は東洋世界の人間でも知っている。しかしユーラシア大陸、中央アジアを拠点としたパルティア。

 王国は西ではなく東、という座標上の条件も加味され、それ故今日の歴史編纂にも登場しない、という穿った見方もできる。
 今でもヨーロッパ諸国は東側に対して、正当な理由を付けられない偏見をもっている。そのことは古代パルティア戦争、古代シリア戦争にも現れている。
 否、それは逆で古(いにしえ)より、地球規模の東西関係が決して交じり合うことなく闘ってきた、そして今でも闘っているという超現実を物語り、それはDNA次元の深層心理の根の深さを意味している。

 そして次の考察を再度検討する必要に迫られた。それは「ギリシア学術」の変遷過程が余りにも複雑で突飛なことに一抹の不安というか謎、謎そしてナゾに思えたからである。
 ギリシア学術、それがラテン語圏内に移入したことはアバウトに理解したとしても、アラビア語圏内に突飛に及んだという理由が何故か、という想いが拭えなかったからである。

 その答えは紀元前323年、アレクサンドロス没後の政権争いに端を発していた。結論を先に云ってしまえば、ギリシア学術を生来もっていたギリシア人、マケドニア人、バビロニア人たちが王朝執権者の軍事植民地下において重要な組織的ポリス「カトイキア」を形成していたからである。
 古代ギリシア学術の時代変遷については伊東俊太郎氏の著述に詳しいが、大筋で要約すると次のような足跡となる。

 4世紀、古代ギリシアの数学研究は衰退する。主要な研究学術はビザンチン文明圏、シリア文明圏へと流入。シリア的ヘレニズム科学はアラビア語訳されてアラビア文明圏へと移入されアラビア学術文化の勃興の兆としてギリシア学術の存在があった。

 このエッセンスをもとに、当サイトは古代ギリシア科学の主題を追っている。
 そして現時点で判ったことは、上記「ギリシア学術」が12世紀ルネサンスまでに至る経過が、単純にその理由だけではなく、もっともっと複雑で猥雑で余りにも闘いの歴史に彩られていたという歴史書の記述が、あからさまに証明していたのである。

 もしも、アレクサンドロスが居なかったら、仮にもギリシア学術がアラビア圏に及んでいなかったらどうなっていたのか、というレバタラ論は通用しない。今はいまでしかなく紀元前5世紀のギリシア学術が存在して現代「量子力学」がある。

 アレクサンドロス没後、紀元前323年以降、当時の世相は政権争いの大規模戦争時下に突入した。それは今日、20世紀の第一次、第二次世界大戦にも匹敵するような戦争が展開していたのである。

 絶対的な力を誇っていた「アレクサンドロス王」亡き後の政権争いは、その後約300年間も続いた。その後継者たちは王の腹心であり子孫である。
 さらに親子兄弟の戦争と言い換えてもいい。その代表的な王は、アンティゴノス朝・マケドニア、プトレマイオス朝・エジブト、セレウコス朝・シリアである。これらの王朝の傍らには常にギリシア人の存在があり重要なポジションを担っていた。

 シリア戦争はローマとセレウコス朝シリアの間で紀元前192年から前188年に戦われた戦争。マケドニア戦争に勝利してマケドニアとギリシアに影響を及ぼしたローマはシリアの勢力浸透を喜ばずヨーロッパからの撤退を求めた。
 アンティオコスはローマの要求をはねつけ前192年に戦争を開始した、というのがシリア戦争の発端である。

 アンティオコスは講和を申し入れスキピオが提示した条件を呑んだ。前188年のアパメアの和約でシリアはタウルス以西のアジアを放棄し、ローマに賠償金を支払い象軍を保有せず保有する軍艦を10隻に制限され人質を出すことになった。
 ローマは直接の領土拡大はしなかったがシリアが放棄した地域を従属させた。以後もシリアは大国として残ったが戦後すぐにアンティオコス大王が死ぬと内紛に明け暮れ国力を消耗していった。これと別個にアイトリア同盟もローマと和を結びローマに従属することになった。
 幾度となく戦争は続きシリア戦争は第5次シリア戦争までの記録が残っている。

 時代を前後して、それらの戦争相手はパルティアの場合が多かった。その場に常に居合わせたのがギリシア人軍事植民地カトイキアの存在である。敵味方の双方に存在していた。

パルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく古代の記録者たちも彼らに対して格段の興味をしめしていなかった、とはネット検索の記述。
 さらに次の検索では、紀元前63年にはセレウコス朝がローマのポンペイウスにより滅亡、パルティアもローマと直接向き合うこととなった。この時期は政治混乱のために記録が少なくパルティアの内情は不明な点が多い、…と。

 パルティアに関する記述例を挙げたが、このセレウコス朝というのが重要で、ヘレニズム文化の中心となったギリシア人の居住が多いバビロニアで、セレウキアの都市はギリシア文化の中心である。
 それはバクトリア時代にさかのぼり、セレウコス朝とアルサケス朝の度重なる戦闘で政治混乱が起きたというから当然記録も消失したと思われる。
 そのような理由からパルティアの歴史は古代歴史の隠れた歴史のような存在となった。そして私にとっては「エポック」、それはとても重要な時代だと認識したのである。

 また別の情報では、「パルティア(安息)はもともと古代ペルシア語でパルタヴァと呼ばれていた地域で、現在のトゥルクメニスタン南部からイラン東北部をさした。
 だがアルサケス朝パルティア王朝は゛世界を二分゛するほど拡張し、前3世紀半ばより後3世紀初めまでに東は現在のパキスタン国境から西はメソポタミア、シリア、アルメニアまでオリエントの大半を支配した。

 バクトリアの音楽がパルティアの音楽に影響を与えなかったはずがない。マルギアナは前2世紀にパルティア王国の支配下に入ったが、今日のトルクメニスタンのマリ(メルヴ)と呼ばれている土地である。」
参考文献(『シルクロードの響き』 監修 拓植元一)

セレウコス朝の開祖セレウコス1世(位B.C.312?/B.C.305?-B.C.281)が建設した(B.C.305頃)、ティグリス河畔の都市である。王朝を創建後もディアドコイ戦争は決着がつかず、B.C.301年に最大の激戦となったイプソスの戦いでセレウコス1世は当時最大の領域を継承しようとしていたアンティゴノス朝創始者アンティゴノス1世(位B.C.306-B.C.301)と会戦することとなった。
セレウコス1世は自軍の兵力は少なかったが、臨戦前のB.C.305年頃にインドのマウリヤ朝マガダ国(B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)のチャンドラグプタ王(位B.C.317-B.C.298)と同盟を組み、数百頭の戦象を得た。
また同じくディアドコイの対象であったトラキア王リュシマコス(位B.C.306-B.C.281)もセレウコス1世側に加わり、小アジア中西部のイプソスは激戦場と化した。
 結果、セレウコス1世とリュシマコスの連合軍が勝利を収め、アンティゴノス1世は戦死(B.C.301)、マケドニアの領土はいっきに縮小して小アジアの一部とギリシアを領有するに留まり、一方のセレウコス朝はシリア地方と小アジア過半、そしてその以東のインダス川沿いにまでおよぶ広大な地域を領有し、まさにディアドコイの勝者となった。このためセレウコス1世はニカトル(勝利王。征服者)と言われた。

 セレウコス朝の首都セレウキアは人口が増加し、南方のバビロンにかわって繁盛したが、勝者となったセレウコス1世は首都移転を考え、B.C.300年、地中海東岸に流れるオロンテス川左岸に、新首都・アンティオキアを建設した。
 この名称はアレクサンドロス3世の家臣であったセレウコス1世の父アンティオコス(生没年不詳)に因むといわれている(セレウコス1世は、アンティオキア以外にも母や妻の名に因んだ都市を建設した)。
セレウコス朝シリア王国の新しい首都となったアンティオキアは、セレウキア同様、目覚ましく発展していき、ヘレニズムを代表する都市となっていった。

 セレウコス1世は子のアンティオコス1世(位B.C.291共同統治。位B.C.281-B.C.261単独統治)と東西分割統治を行い、ギリシア人入植・移住、区画整理、通貨統一、その他の都市建設などを施し、一時はヨーロッパ遠征も考えていたと言われる。
これにより東方へのギリシア化がすすみ、文化や慣習がより浸透していった。そして、B.C.280年にはトラキア王リュシマコスも討って(B.C.281)、文字通り東方の覇者となった。

 そして目指すは故国マケドニアの領有であったが、同じくこれを狙うプトレマイオス朝のプトレマイオス=ケラウノス(位B.C.281-B.C.279)に睨まれ、B.C.281年、彼によってセレウコス1世は暗殺された(セレウコス1世暗殺。B.C.281)。勝利の王とよばれたセレウコス朝創始者の最期であった。

 一方マケドニア王国だが、アンティゴノス朝はB.C.288年にいったん断絶し、その間はリュシマコスやプトレマイオス=ケラウノスらの王朝がおこるも短命に終わり、B.C.277年にアンティゴノス2世(位B.C.277-B.C.274,B.C.272-B.C.239)が途中断絶するも生きながらえていた。
同時期にセレウコス朝はガリア人の侵入に脅かされていたため、国王アンティオコス1世はマケドニアと同盟関係となって協調策をとり、ガリア人を敗退させて小アジアの民より"救済者(ソテル)"の尊称を得た。
しかし一方で多くの領土を戦役でなくし、セレウコス朝の広大な領土は分裂状態となっていった。
すでにセレウコス1世の晩期にもアッタロス朝ペルガモン王国(B.C.282-B.C.133)という国家が小アジア北西部におこっており、アンティオコス1世の後を継いだアンティオコス2世(B.C.286共同統治。
B.C.261-B.C.246単独統治)の治世にはギリシア系バクトリア王国(グレコ=バクトリア。B.C.255?-B.C.130?)がアム川流域のバクトラ(現アフガニスタン北部のパルフ)を中心にて、またイラン系のアルサケス朝パルティア王国(安息国。B.C.248?-A.D.226?)がカスピ海南東とイラン北部方面にて、それぞれセレウコス朝から独立、セレウコス朝はエジプトからも戦争を仕掛けられて敗退、領土は縮小していった。

 B.C.223年にセレウコス朝シリア王に即位したアンティオコス3世(位B.C.223-B.C.187)は、かつてのセレウコス1世時代のシリアを再興するべく、小アジアの諸勢力を勢力下においたほか、東方遠征を実施してパルティアやバクトリアを支配、インダス川流域まで迫る勢力を得、シリア王国の復興が遂げられ、アンティオコス3世はアレクサンドロス大王の再来として、"大王"と称された。しかしこの政権は短命であった。
ローマの波が押し寄せたのである。第2次ポエニ戦争(B.C.218-B.C.202)で勝利したローマが第2次マケドニア戦争(B.C.200-B.C.197)でマケドニアにも勝利し、マケドニアはローマの勢力範囲となった。
数次にわたるローマとのマケドニア戦争でアンティゴノス朝マケドニア王国は荒廃し、B.C.168年に滅亡(アンティゴノス朝マケドニア王国滅亡。B.C.168)、ヘレニズム三国の内の一国が姿を消した。

(引用記事一部抜粋〆)

チプラスのギリシア世界.1 続編2

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