東洋西洋の音階はメソポタミアにある
音楽の基本は、西洋式ピタゴラス音階で決められているが、もう一方の古代音楽として東洋旋律があるのは、あまり一般的には浸透していない。そもそも「カラオケ」で歌うにしたって、「ではこの曲は何Hzにしますか」という指定しなくても自動的に440Hzで演奏されている。
だがら、それがなんで440Hzなのか、考えることもない。それは天動説、地動説の論理と同様、自分が廻るか、相手(太陽)が廻るか、という壮大な話しだが、別に、どちらにしたって、天変地異がやってくるわけではない。
その、アインシュタインの説明した「相対的」に解釈すれば、地球が廻るは相対的である、ということである。(それを理解するのが物理科学)
そのロジックで説明するのが西洋音階440Hz(正しくは442)で、東洋旋律(古代東南アジア系列)では、430Hz(432)が基本になっている。
もともと大昔の紀元前メソポタミア時代ころは同一らしかった。楽器にしても、メソポタミアから東西に枝分かれた楽器が、いろいろな旋律の楽器として世界に伝播したとされている。
そんなことが、なぜ判るかと云ったら「古文書徒然草」にその記録があったので、現代人は、それを基に知識を得たという叡智だった。
というのも、その昔、「腕時計」というものがない。年間サイクルというのは太陽観察によって「冬至」「夏至」で365日を計る、というのは世界の原始天文台でも知識としてあった。
現在の太陽暦は「グレゴリオ」暦が基礎となっており、昔の太陰暦では、誤差が生じて、実際の天体サイクルとは合わないので、今では使っていない。(占星術、陰陽五行説、各呪術占いも同様に昔のまま)
おなじように西洋音階と東洋音階が、僅か10Hz違いだから、廃止した、ということにはらない。一番の問題が楽器で、特に吹奏楽器については、穴が固定されていて、各音度調整ができないし、また合奏についても全体が430Hzに設定する必要がある。
一方の西洋音階もおなじで、全部の楽器が440Hzでチューニングする必要がある。クラシック合奏の始まる前、各パート楽器が好き勝手に演奏しているのが、ソレである。
かくして地動説と天動説は、おのおの、違う会場とキャステングによって、二律背反的に、素晴らしい演奏が可能となる。(よくわからん対比の比喩メタファーのようだ)
さてその「徒然草」の話にしよう。
この雅楽旋律について「徒然草」に書いており、黄鐘〈おうしき〉ラの基準音"430Hz"という決めは、すでに紀元前古代中国音楽にあることは判っている。日本の徒然草の記述でも記録されていた。
その『妙心寺の七不思議』について
この古鐘の通称にある“黄鐘調”とは、何のことなのでしょうか? その答えは吉田兼好が鎌倉時代末期に書いたとされる、日本三大随筆のひとつ『徒然草』にあります。 『徒然草』の第220段の中で次のようなことが書かれていたのです。
「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。西園寺の鐘、黄鐘調に鋳らるべしとて、数多度鋳かへられけれども、叶はざりけるを、遠国より尋ね出されけり。浄金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」
(現代語訳:鐘の音の基本は黄鐘調だ。永遠を否定する無常の音色である。そして、祇園精舎にある無常院から聞こえる鐘の音なのだ。西園寺に吊す鐘を黄鐘調にするべく何度も鋳造したが、結局は失敗に終わり、遠くから取り寄せることになった。亀山殿の浄金剛院の鐘の音も、諸行無常の響きである。)
現存する鐘。「戊戌年(698年)筑前糟屋評造・・・」銘のある日本最古の鐘。
その音色は、吉田兼好も『徒然草』の中で「黄鐘調の鐘」として絶賛している。廃寺となった浄金剛院から移されたもので、1973年(昭和48年)まで鐘楼に吊るされていたが、現在は保存のため法堂に置かれている。
日本音階「黄鐘」ラ音と、西洋式ビートルズ音階
シルクロードで東西音楽にわかれた理由
その西洋音楽の解説に終始してしまって、いささか私としても心地よい疲労感を味わった。というのも当事の若い頃を思い出し、日本社会を席巻していた「ビートルズ」の数々のエピソード記録も箪笥の下の敷き紙のファイルにもぐっていた。(1966年6月30日から7月2日にかけて東京・日本武道館で公演したもの)
いまにして回想すれば、それは画期的なことで、また、「武道館ライブ」というのも日本の音楽シーンで新機軸のアプローチではなかったかとおもう。
その当事、自分も若かったこともあって、「ビートルズ」旋律のメロディーが、どの程度優れていたか、という学術的な知識もまったくなく、ただキャーキャー(圧倒的少女パワー)騒ぐ黄色の声に圧倒され、その強大なバイアスに社会全体が引きずり回された、というのが実際だった。
※そのどうして「黄色」なのか調べてみた結果。古典邦楽12音階の基音ラを黄鐘おうしきといい、それからきていると思われる
したがって「ビートルズ」が帰国した後も、それがなんであったのか、まったく自覚もなく、レコードを頻繁に聴いたという記憶もない。もっとも、レコードを回すオーディオ機器にいたっては、金持ちの道楽がたしなむ高額趣味範囲で、中高男子(女は騒ぐだけでミュージシャンにはならない、湯川れい子は別)が手の届く場ではなかった。それでもエレキギターだけは持っていた、というアンバランスは説明のしようがない。
「音の世界」については、随分と探索した。もともと古典芸能に興味があり、地元の神楽演奏に自分がたずさわっていたことも関係して、自分の演奏してる笛の音と、ビートルズが弾くギターの音は、理論的に、何が違うのか、という基本を調べはじめたのは、つい最近のことだった。
そうしているうちに、自分だけでなく、ちょっと前の昔の人も、その疑問に捉われて、膨大な研究書籍を書き残していた。その大家が「伊庭孝」であり、民俗的な音と態様とその伝承物語を文書化して、冊子にまとめた「遠野物語」柳田國男などがいた。
今日は、その話をしようとおもう。昨今、そうした「生活民芸的」な話はネット上に散見するが、では実際にそのような生活を体験できるかといったら、殆ど皆無といっていい。
また日本の国勢的な事情も絡んで、地方田舎の過疎化、快適な生活が望めない不便な田舎を捨て、都会へと人が移住しているという実態が拍車をかける。
おそらく、この場で、そうしたことの打開策(地方創生)をいったところで、まったく効力はなく、大きな潮流は「人知のおよばざる領域」として止めようがない。
~古典音階下記詳細~ より引用
voice.徒然草の黄鐘
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