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゛切腹゛「引退勧告」、が炎上する異常さの日本社会を論破する.2

「芥川直木賞」発表の顛末を書きましたが、こちらは、AI記事の半分以下、と云うことで、社会がなにを知りたいか、というのを如実に語っていると判断されました。

そのいわゆる作家(書籍)というクリエイターのスタンス、さらに活字媒体という、旧来メディアに対する、社会評価またその価値とか、新聞読むのにタブロイドサイズなんて、今どき死語だぜ、とその動態表現でさえ、通じなくなってしまった、この社会リテラシーは、何が問題なのかという、テーゼさえも不問、じゃないかとおもってしまうのです。

だから成田氏のように「バカ」騒ぎに賛同しないし、冬にいない蚊(いや、今どき過暖房で冬も刺してくるバカ蚊)だったり、一概には、云いきれないのがあって、だからそれは「相対的」であると判断したアインシュタインは、やはり逸材の天才なんですね。

数日前、ゴースト・ブラック・ライターについて、書きましたが、いま製本とか書籍出版とか、完全システム化されていて、へんな話し、直接原稿書きしなくても本ができる、という出版業界という現実が、そこにあるんですね。
そんなことは薄々、感じてはいましたが当の本人(出版社がいう訳ない)は、しらん振りして「期待の新人ついに出来」、とか帯が躍りますが、売ってしまえば儲けになるし、社は安泰という訳です。

では、昨日書いた「ChatGPTの衝撃」は、その自動製本制作出版に対抗するか、またできるか、更に、その場合の"著作権゛を明記する場合、但し書きするのか、それとも完全オリジナルとして、店頭に出せるのか、というのがある。

下記に記述した、長尺文は、全文検索ウイキペディアの引用文だが、さすがに、それを自著として、販売することは出来ないとして、判断しているが、じゃ、その本人以外の記述によって書かれたブラックライター記事、またゴーストライタ―記事にいたっては、許される(現行は可)か否か、という極めてブラック近いグレー色で、業界は黙殺している。

それもやはり相対的な話で時代「価値観」が変われば、同時進行で、代替作が、時代の要請にそって、その著作権を得て、堂々と書店(それがあるかどうかが問題)に並ぶか、という話しだ。

今でも大真面目に思っているが、その膨大な学術論文(大学並み)を網羅しているウイキペディア検索資料で、楽に一冊の本が書ける、と思っている。
そこに冒頭のAI「ChatGPT」を併用して小説を書ける。

それだったら千枚程度の小説でも楽に書けるし、また時代に適合した言葉、比喩、擬態語など、自己リテラシー学習事項とは違った形容が、無理なく表現できるとおもった。

そんな諸々を考えていると、可能性は無限にひろがり、ライター自身は完全アナログで済むが、その駆動する手法方法論を、デジタル化すれば、年齢に関係なく、表現の幅が拡大すると考えた。

そんなことを思ったのは、あるwebサイトの依頼があり、"準備段階゛としてZOOM動画で近況を送れ、という指示があった。

それでふっと思ったが、それはこのweb上リテラシーと機器に精通していることが前提で話は進んでいる、と理解し、また相手は、当然それが整っていると判断しての、話しだった。

勿論、三.四歳の赤子がパソコンをいじるわけはないし、ましてやリテラシーゼロ歳児を相手にしているわけではない。
だが現実的には、「デジタル世界」にまったく縁がない年代、であったとしても「スマホ」バカチョンリテラシーのみであって、テレビ同様、一方的に送られる情報と大量広告を、見るのにひたすらスクロールするだけの機械音痴は否めないでしょう。

結果として、そのwebサイトの依頼に応えられないという格差は、敢然とあるわけです。
いや、それだって相対的であるし夏の蚊は、冬に消えるし、敢えて゛切腹゛勧告をしなくても、時間はどんどん推移して、少子高齢化は、自動的に送られるわけで、別に声高に、それを叫ぶこともないのです。

以下記事は、検索ウイキペディアとか、新聞切り抜き記事引用とか、そのまま引用掲載してある。

ひと昔前だったら、全文引用掲載したりすると、クレームや訂正勧告などのメールが届いたものですが、今は全くない。

だからそれが許可された、とは認識してないが、私の場合は本体記事には手を付けないことを旨として、コメントとして私の意見を書き足している。

スマホ、モバイルの例でもそうだが、「広告」が本体記事を埋め尽くしている、というのはどういうことか、と彼らは判っているのだろうか。
もっとも「有料」だったらそれもないと思われるが、では、金を払うだけの価値のある濃密なネタがかかれているか、という本質論をぶつけたら、今どきの「安倍氏殺害」「旧統一教会」「世界コロナ蔓延」問題は、社会の問いに答えるはずが、まったくなくてマスコミの使途とは何だろうと、今更かんがえてしまうのです。

だから浮世遊離目論んで、来年あたり、新作著作書籍「オナペペピ、プ」の原稿でも書こうかと大真面目に考えているん~です。

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2023年01月22日記事

一般相対性理論の発表(アインシュタイン)

一般相対性理論の発表(アインシュタイン)

一般相対性理論の立証のため、クリミア半島でアメリカ人ウィリアム・キャンベルに依頼し、皆既日食の観測を試みるも、曇天のため失敗する。また、第一次世界大戦開戦でドイツのスパイと誤認され捕虜となる。

1916年、一般相対性理論を発表。この理論には星の重力により光が曲げられるという予言も含まれていた(これはのちに実証される)。

1917年、肝臓病や黄疸といった、いくつかの病がアインシュタインを襲う。病院はけがをした兵士で一杯になっており、一般人は入院できず、自宅で療養することになる。この数年間、いとこのエルザが看病にあたる。

1919年、皆既日食において、太陽の重力場で光が曲げられること(いわゆる重力レンズ効果)がケンブリッジ天文台のアーサー・エディントンの観測により確認されたが理論の立証にはまだ不充分であった。しかし、このことにより一般相対性理論は物理学理論としての一定の地位を得る。
このことは世界のマスコミにも取り上げられ、これによってアインシュタインの名は世界的に有名となった。

一方、彼がユダヤ人であるとの理由から、ドイツ国内における彼と相対性理論に対する風当たりは強かった。なお、アインシュタインの親友のフリッツ・ハーバーもユダヤ人であったが、ハーバーのほうはアインシュタインとは異なった道を進み、ドイツ軍に協力して毒ガス兵器の開発に力を貸した。キャンベルは、アメリカ・ワシントン州で再度日食を観測、曇天の隙間があり撮影には成功したが立証にはいたらなかった。しかし敵国人アインシュタインの名がアメリカで初報道された(上記エディントンの観測を取り上げた世界のマスコミの中にアメリカThe New York Times 1919年11月10日の記事がある)。この間、理論の証明は日食観測によるよりも数式上の確度の立証に移り、水星軌道の変則性から、ニュートンの理論の誤りを数学者のダフィット・ヒルベルトとほぼ同時に発見したが、ヒルベルトはその功績をアインシュタインに譲った。
ケンブリッジ天文台のエディントンは戦勝国者だったため、戦後も自由に海外渡航ができ、アフリカのプリンシペのジャングルで日食を観測、理論の立証を発表したが、学会での認証は得られなかった。1922年に皆既日食が豪州で観測されるとあって、キャンベルをはじめ七つの観測隊が派遣されたが、キャンベル隊のみが撮影に成功し、重力レンズ効果の存在を観測によって実証(立証)、これによって一般相対性理論は妥当性のある理論だと学会でも認められるようになった。
ウイキペディア資料

湯川秀樹、原爆研究記す 終戦前後の日記公開
日経 2017年12月21日 20:44 (2017年12月21日 22:19更新)日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹(1907~81年)が終戦前後に書き残した日記を京都大が21日、初公開した。

原爆研究に関わった記述がある一方、広島や長崎の原爆被害も詳細に記しており、専門家は、戦後平和運動に携わった湯川の歩みを知る記録として注目している。
画像 湯川秀樹 京都新聞 2017.11.24 悔悟(かいご)の原点


京都新聞


湯川は原爆研究への関与を公的な場では認めていなかったが、45年6月に原爆開発についての会議に出席していたことが今回、本人の自筆記録で初めて裏付けられた。
日記は78年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、湯川の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、45年分の3冊が公開された。

このうち、6月23日には「F研究 第1回打ち合わせ会、物理会議室にて」と記され、京都帝大(現京大)の同僚荒勝文策氏ら研究者計12人の名前があった。研究内容への言及はなかった。
F研究は海軍の依頼で荒勝氏を中心に進めていた原爆研究。湯川の関与は他の研究者の残した資料で分かっているが、原料不足などから基礎的な研究にとどまり、製造段階には程遠かったとされる。日記ではF研究に関して、他にも2月、海軍の施設で会合があったことや、5月に戦時研究に決定したとの通知があったことが記載されている。

一方、広島への原爆投下翌日の8月7日には、「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」としている。
原爆投下に関する感想はないが、戦後の9月6日には、「死者 広島7万名 長崎2万名」などと原爆の死傷者数や建物被害数を記している。

9月15日には「米士官2名教室へ来たので直ちに面会」と記述。戦時中の研究について聴取されたことがうかがえる。また、マッカーサー司令部に提出する研究に関する報告書の作成に忙しい日々を送っていたり(10月3日)、海外の研究者と原爆について論じたり(11月22日)していた。
日記を分析した小沼通二慶応大名誉教授は「日記に思いは書かれていないが、国が正しいと考えていた湯川の価値観が戦後になって変わったことが同じ頃に雑誌に書いた記事から読み取れる。1945年に平和運動への道ができたのだと思う」と話している。
日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開する。〔共同〕

折口信夫1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。

そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である。二人は国学の先輩方に当たる賀茂真淵・本居宣長師弟のように、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。柳田は、折口より12歳年上であったが共に1945年(昭和20年)の敗戦時には、60歳を既に迎えていた。その戦後のことを、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人は桜の花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。

もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、海に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。
折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋の硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的で、敗戦の詔を聞くと四十日間喪に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。

第二次大戦で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も天皇の人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人の神や魂といった問題意識は共有していて、折口は後にその問題を「民族史観における他界観念」という著に収斂させていくこととなる。柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化の起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。なお『遠野物語』に折口の跋文がある(現:角川ソフィア文庫)。
ウイキペディア資料



童か0121


構成編集#つしま昇

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