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世界に浸透する「ジャパンお囃子」

文楽古典保護(税)と存続は別次元(後編)

地元東金イベント 東金市篠笛ワークショップ実行委員会~

道の駅 みのりの郷 東金公式ウェブサイト
東金ばやし https://minorinosato-togane.com
道の駅 みのりの郷東金 東金マルシェ外テラス

問合せ:東金市篠笛ワークショップ実行委員会(中川)
【E-mail】n.yasuhiro@gmail.com 新町お囃子会 会長 中川 泰宏

10日に、これに参加しましたので、その実演歓談を紹介します。「笛作り」イベント、は、会長仲川泰宏氏が立ち上げたイベントで、毎年開催されているということです。
また素材の篠竹は、南房総市の特産「篠竹」有効利用ということで、特産団扇(うちわ)激減の対策として笛に使うという有効利用のようです。
昨今、うちわは、プラスチック製に代わって竹本物がなくなりつつあります。これも伝統芸能衰退と、比例して衰微するのは時代のながれなのでしょう。

個人的にいま私も篠笛を作っていたので、タイミングもよかったので参加しました、総勢30名程度が参加しました。素材、道具類は無料で開催市の実行委員会が用意してくれたので無料参加でした。

先生方は、お囃子メンバーの方で、誰でも懇切丁寧にレクチャーしたので約1時間ほどで全員が完成しました。段取り仕度はしてあったので、無駄な時間を使うことがなかったです。
(※スタッフの皆さん、ありがとうございました 對馬)

その後に、出来上が笛の具合を試すのに、全員で吹いてみようという実演会をして、吹いてみましたが、そう簡単には曲になるものではありません。参加者の中に、現役の笛吹きもいて、達者な演奏を披露してくれました。千葉県内印西とか佐倉佐原囃子の方もいて、さすがに旨い演奏でした。
私の笛は「神楽」笛ですから獅子舞とか太鼓調子とは、違ってテンポが合わないので、ムリでした。

まあ~、そんなことで、個人ライフワークの一環としてやっていた伝統芸能が、他にも沢山いて心強いと思いました。

個人的な意見なのですが、こうしたイベントは、洋楽とは別なので、人気があるようです。また、子供の中(小学2年ていどか)には、特別興味を持っている子もたいようです。
そうした事情はどこでも同じで、単発イベントに参加しますが、其の後がないので、では篠笛上達するには、どうしたらいいか、という学習塾などありません。実際それをやるには、地元の保存会とか、隣村の老人に訊くとか、いろいろ面倒な手続きがあるので、それで終わってしまいます。
一番の理由は親が知らない、という決定的な理由です。

昨今の動画で小学天才ギタリストが活躍してますが、その全部が親が、それをしていた、という経験値だからです。ですから先生を探す必要も調べる手間もいりません。また知識も豊富ですから、そく戦力として芸能イベントひくてあまた、のようです。
その逆、古典芸能に関しては、そのどれ一つも該当しないのですから、どうしたってそのー後に続かない、という現実です。それに輪をかけて少子化という国政問題ですから、三重壁に突き当たったようなものです。いまのところその解決策はないです。

そんなことを考えていたら、昔書いた「文楽」の補助金カット(橋下知事)記事があって、ああ行政側でも伝統芸能を排他していたかと思いました。

その今の進行中「篠笛創作」と古典を行政税でカバーしないという二律背反の記事を掲載します。

東金 笛を作ろう会  YouTube


古典学者「折口信夫」世界を具現化した「人形浄瑠璃」復活

2012年、大阪市の橋下徹市長が文楽人形浄瑠璃に対する市からの補助金を減らす、として「文楽協会」と対立した報道は、記憶にあたらしい。が、その後の話題としては、政治家橋下徹市長としてのスタンスが特化して、伝統芸能補助金カットという話しは、消えてしまった。
また、そうした報道もされなかったので、文楽人形浄瑠璃が、その後どうなったのか、世間は知らない。

この知らない程度が、社会的風聞であり、それ以上を知るという手立てが裁たれる。日本人の殆どは、この時点で話題は切れて次の話題(ニュース)に移る。その意味では私も同じだが、ただ自分が伝統芸能者であるという立場として、やはり気になっていた。このところ橋下氏の政治的発言が止まっているので隙間風というか無風の間隙をついて、この話題に触れてみよう。

その記事筆者は渡辺龍太氏で、SNSを足がかりに仕事をしているようだ。主に「日本財団」が舞台のようだが詳細はわからない。履歴は公表されているので知りたい方は自身で検索のこと。

その記事の一部分を抜粋した。抜書きした文が、私の訴状とほぼ重なるので、それで理解してもらいたい。総括は末尾に書くこととする。

※ 抜粋記事

数年前、大阪市の橋下徹市長が文楽に対する市からの補助金を減らす方向で舵を切りました。逆に、これをきっかけとして実は最近、多くの人に人形浄瑠璃を見てもらうための様々なプロジェクトが積極的に行われています。

ところで、人形浄瑠璃が演じられる劇場のことを「文楽」と言い、人情浄瑠璃自体の代名詞となっています。なので、現在「文楽を観に行く」といえば、人形浄瑠璃を観に行くというのと同じ意味なのです。少々恥ずかしいのですが、私は最初、人形浄瑠璃と文楽というのが頭の中でイコールにはなっていませんでした。両者ともに、人形を使った伝統芸能なのだろうという認識はあったのですが、能と歌舞伎のように別物なのではないかという思い込みがありました。私の知識不足というのもあるのでしょうが、こんなベーシックな所からして、伝統芸能というのは知っているようで知らないものだと感じました。

文楽は大阪で生まれて、大阪の庶民に楽しまれてきました。なので、現在も大阪と文楽は切っても切れない関係です。3年前、そんな文楽の中心地である大阪市で、大阪と文楽のありかたについて深く考えさせる出来事が起きました。冒頭でも記載した通り、橋下徹市長が文楽に対する大阪市からの支援金をカットすることを決めたのです。 橋下市長が就任する前年、文楽協会は大阪市から5200万円の補助金を受けていました。しかし、橋下市長は、伝統芸能だからといって文楽を特別扱いせず、集客の努力に応じて市からの補助金を決めるべきだと主張しました。その結果、文楽が10万5千人以上の集客を行えば、文楽協会へ市から2900万円が満額として支給されることに決まりました。さらに、この制度も来年から見直されて、文楽協会への金銭支援はさらに厳しくなると予想されています。

この場合の有形財産というのは、日本各地にある神社、仏閣、城など、形のある財産のことを指します。一方、無形財産というのは人形浄瑠璃、歌舞伎、能など、人間の”技術”のような財産を指し、物理的に存在している何かがあるという財産ではないという意味です。例えば、最近、姫路城の大幅な改修工事が行われました。もちろん、それに対して億単位の税金が投入されたのですが、市民から反対という声はほとんどないそうです。

一方、文楽に対する税金の支援に対しては、市民は割と冷たい反応を示すということでした。確かに、私も橋下市長の話を聞いて、特に文楽を知りもしないのに、税金投入は必要ないのではないかという先入観を持っていました。ですが、姫路城の改修に何億円もお金がかかったと聞いても、『城の修理って、お金がかかるもんだね!やっぱり、全部手作りしないとダメだからかな!?』くらいにしか思いませんでした。これには自分の思考の浅い部分を突かれた気がしました。同時に、姫路城の修理などに対して、どうして自分を含めて世間の人が寛大なのだろうという疑問も感じました。

こうした背景もあり、日本人全体に向け、文楽が必要な伝統文化なのかどうかを真剣に考えてもらうために『にっぽん文楽』プロジェクトは始まったそうです。このプロジェクトは、東京オリンピックまで、年に2回、毎年『文楽』の公演を日本各地で2000円ほどの格安のチケットで行います。

通常、文楽専用の劇場で行われますが、このプロジェクトでは毎回場所を変えて野外中心に行っていきます。そのため、日本財団の支援で1億円ほどの予算をかけて、総檜造りの移動可能な舞台を特注しました。これを使い、江戸時代の庶民の娯楽であった『文楽』の雰囲気を味わってもらうために、お酒や料理を楽しみながら一回の公演で300人ほどのお客さんに文楽を楽しんでもらうというイベントです。300人という人数は少ないようにも感じますが、人形劇である文楽では300人くらいが限界なので、あえて入場制限をしているそうです。(抜粋 〆)

今、庶民の楽しみという原点に返る「文楽」人形浄瑠璃と『文楽』の関係は!? 渡辺龍太 2015年08月25日 06:25 (記事リンクは期限切れ )

「日本の伝統芸能と言ったら、何を思い浮かべますか?」という質問を受けたら、歌舞伎、能などを思い浮かべる人が大半だと思います。しかし、「中学や高校の日本史の時間に、日本の伝統芸能には何があると習いましたか?」という形で質問されたら、人形を使って歌舞伎の様な芝居を行う人形浄瑠璃というものの存在を思い出す人も結構いるのではないでしょうか。

数年前、大阪市の橋下徹市長が文楽に対する市からの補助金を減らす方向で舵を切りました。逆に、これをきっかけとして実は最近、多くの人に人形浄瑠璃を見てもらうための様々なプロジェクトが積極的に行われています。

例えば、今年から日本財団の積極的な支援で、お酒を飲んだり食べ物を食べたりしながら、野外で文楽を楽しむという『にっぽん文楽』プロジェクトが六本木ヒルズからスタートしています。

これは、今まで人形浄瑠璃が演じられ続けてきた劇場を飛び出して、江戸時代の庶民の娯楽として行われていた文楽の雰囲気を再現するような公演を行うというプロジェクトです。というわけで、まったく知らないようで、実は知っている気もする日本の伝統芸能「人形浄瑠璃」の最先端の取り組みである『にっぽん文楽』プロジェクトについて話を聞いてきました。


ウイキペディア

ところで、人形浄瑠璃が演じられる劇場のことを「文楽」と言い、人情浄瑠璃自体の代名詞となっています。
なので、現在「文楽を観に行く」といえば、人形浄瑠璃を観に行くというのと同じ意味なのです。少々恥ずかしいのですが、私は最初、人形浄瑠璃と文楽というのが頭の中でイコールにはなっていませんでした。
両者ともに、人形を使った伝統芸能なのだろうという認識はあったのですが、能と歌舞伎のように別物なのではないかという思い込みがありました。私の知識不足というのもあるのでしょうが、こんなベーシックな所からして、伝統芸能というのは知っているようで知らないものだと感じました。

大阪市橋下市政 VS 文楽

文楽は大阪で生まれて、大阪の庶民に楽しまれてきました。なので、現在も大阪と文楽は切っても切れない関係です。3年前、そんな文楽の中心地である大阪市で、大阪と文楽のありかたについて深く考えさせる出来事が起きました。冒頭でも記載した通り、橋下徹市長が文楽に対する大阪市からの支援金をカットすることを決めたのです。

橋下市長が就任する前年、文楽協会は大阪市から5200万円の補助金を受けていました。しかし、橋下市長は、伝統芸能だからといって文楽を特別扱いせず、集客の努力に応じて市からの補助金を決めるべきだと主張しました。その結果、文楽が10万5千人以上の集客を行えば、文楽協会へ市から2900万円が満額として支給されることに決まりました。さらに、この制度も来年から見直されて、文楽協会への金銭支援はさらに厳しくなると予想されています。

この補助金の大幅カットで文楽協会は大きなダメージを受け、いずれ協会の運営が立ち行かなくなるのではないかと懸念するコメントを文楽協会事務局長がしました。一方で、橋下市長の補助金カットをきっかけに、文楽が生き残りをかけて積極的に世間に向けて活動するようになったとする文楽の学芸員の声もあるようです。こういった経緯があり、文楽は積極的に生き残りをかけたイベントを多く行っているそうです。

数年前から、この騒動に関するニュースをテレビで視聴者として見ていた私は、橋下市長の取り組みが正しいような気がしていました。確かに、いくら伝統文化だからといって、それだけで自動的に税金が投入されるという仕組みはおかしいような気がします。結果的に税金が投入されるにしろ、生き残りをかけた自助努力があってこそ獲得できる補助金でないといけないと思いました。そうしないと、お客さんを集めなくても(楽しませなくても)食べていけることになってしまうので、きっと芸事としても長期的に見て質が低下していってしまうとも思いました。

姫路城の修理と『文楽』保護は同じ

こうした安易な税金投入は良くないという、テレビの視聴者として橋下市長に影響を受けたイメージがなんとなくあった上で、『にっぽん文楽』プロジェクトの中村雅之プロデューサーのお話を聞きました。すると、とても気持ちがグラつく内容でした。中村さんは、非営利事業で文化事業をやるときは、何のためにやるのかが大事であって営利事業とは違い、お金を軸に考える必要はないとまず主張しました。

そして、そもそも世界的にもフランスのバレーなど伝統文化は税金を投入せずに成り立っているものは少なく、日本の宝である伝統芸能は税金をきちっと使って守っていく必要があると語りました。特に、中村プロデューサーが有形財産の重要度は多くの市民が理解するのに、なぜ無形資産だと軽く扱われるのか話していたのが印象的でした。

この場合の有形財産というのは、日本各地にある神社、仏閣、城など、形のある財産のことを指します。一方、無形財産というのは人形浄瑠璃、歌舞伎、能など、人間の”技術”のような財産を指し、物理的に存在している何かがあるという財産ではないという意味です。例えば、最近、姫路城の大幅な改修工事が行われました。もちろん、それに対して億単位の税金が投入されたのですが、市民から反対という声はほとんどないそうです。

一方、文楽に対する税金の支援に対しては、市民は割と冷たい反応を示すということでした。確かに、私も橋下市長の話を聞いて、特に文楽を知りもしないのに、税金投入は必要ないのではないかという先入観を持っていました。ですが、姫路城の改修に何億円もお金がかかったと聞いても、『城の修理って、お金がかかるもんだね!やっぱり、全部手作りしないとダメだからかな!?』くらいにしか思いませんでした。これには自分の思考の浅い部分を突かれた気がしました。同時に、姫路城の修理などに対して、どうして自分を含めて世間の人が寛大なのだろうという疑問も感じました。

重要なら税金を使って伝統文化は残すべき

中村プロデューサーは、そんな私の疑問も解消してくれました。すでに述べたように、伝統文化を残していくには、世界的に見ても民間団体だけの力で上手くいく例は少ないそうです。なので、日本人が文楽を後世に残していくためには、税金を投入する事が不可欠です。そうやって市民の税金を投入する時に絶対的に必要なのが、市民の同意です。そして、その同意を得るには伝統文化に対する理解が不可欠と中村さんは語りました。

一番良くないのは、理解をするだけの関心も知識もないために、同意も同意しないという意見もない市民の無関心だと言うのです。すべての伝統文化を守らなければいけないのではなく、多くの人が知識を持った上で税金を使って守っていく価値がないと判断するなら、それに従えばいいのですが、知識もなく要らないと判断するのは問題だと指摘していました。

確かに、文楽と人形浄瑠璃の関係も分からず、テレビのニュースでチラっと見た程度の知識しか持ち合わせていなかった私は、なんとなく橋下市長的な考えを持っていました。ですが、文楽の価値も分からず、表面的な先入観で同意していただけです。一方で、姫路城の文化的な価値というのは、何百年も前に建てられた古い城だという情報と目の前の城をみれば、特に細かい説明を受けなくても一瞬でわかるような気がします。だから、私も姫路城の改修に税金を投入することに、特に疑問を感じなかったのでしょう。

身近な例に置き換えてみれば、両親や祖父母が亡くなり遺品整理をする際に、故人が美術品の収集に力を入れていたとして、その子供が美術品に全く関心のない人だったらどうでしょう。国宝級の茶器などを持っていても、その価値をまったく分からない人間は『地味な茶碗だね~。』とつぶやいてゴミに出してしまうかもしれません。文楽も何百年も続く、人形劇として世界的に貴重な文化です。それをまったく価値の分からない市民が、取捨選択の判断をするのは確かに良くないことのように感じました。

文楽への理解を広める『にっぽん文楽』プロジェクト

こうした背景もあり、日本人全体に向け、文楽が必要な伝統文化なのかどうかを真剣に考えてもらうために『にっぽん文楽』プロジェクトは始まったそうです。このプロジェクトは、東京オリンピックまで、年に2回、毎年『文楽』の公演を日本各地で2000円ほどの格安のチケットで行います。

通常、文楽専用の劇場で行われますが、このプロジェクトでは毎回場所を変えて野外中心に行っていきます。そのため、日本財団の支援で1億円ほどの予算をかけて、総檜造りの移動可能な舞台を特注しました。これを使い、江戸時代の庶民の娯楽であった『文楽』の雰囲気を味わってもらうために、お酒や料理を楽しみながら一回の公演で300人ほどのお客さんに文楽を楽しんでもらうというイベントです。300人という人数は少ないようにも感じますが、人形劇である文楽では300人くらいが限界なので、あえて入場制限をしているそうです。

このプロジェクトの中心組織である日本財団は、民間団体として文楽に対して何億もの援助を行うことを決定した理由を次のように語っていました。

阿波四国で始まり大阪では、大衆のための芸術だったそうです。というのも、当時の人形浄瑠璃は、有名人のゴシップ的な話題を作品にしたりして、それを野外で庶民が飲んで食べたりしながら楽しんでいた娯楽だったからだというのです。

確かに、それを聞くと、人形浄瑠璃は今でいうところのテレビのような存在だったのかもしれないと感じさせられます。テレビが一台飲食店に置いてあれば、野球やサッカー観戦で盛り上がったりしながら飲めるお店は庶民的の娯楽の場です。
ですが、現在、人形浄瑠璃を演じている方々が人間国宝などになったことから、国立劇場で行われるなど、一般大衆とは離れてしまったと日本財団は考えました。そこで、庶民の娯楽であった文楽の原点に戻ろうということで、日本財団が中村プロデューサーに相談して『にっぽん文楽』プロジェクトは始まったそうです。

今まで、考えてみたこともありませんでしたが、確かに人間国宝ともなれば、庶民の娯楽とは遠く離れた格式高い芸術となってしまいます。それにより、世間での格はあがるかもしれませんが、多くの人が気軽に楽しめるような娯楽ではないと宣言しているような印象も受けてしまいます。

なので、今までは当たり前のことだったにも関わらず、人間国宝の芸を見ながら酒を飲むというのは失礼なことをしているような印象を持ってしまう人もいるのかもしれません。そう考えると、人間国宝を定める制度そのものを考えてみても、行政の支援というのは、すべての伝統文化に対して一律に行うべきではないことを感じました。

”文楽”で同じ方向を見ている日本財団と橋下市政

このように、橋下市政や日本財団の文楽に対する取り組みを見ていく中で、一番重要なのは「文楽というが一体なんであるのか」ということを市民がよく分かる状態にするための支援が一番重要なのだと感じました。その意味では、一見まったく別の方向を見ている様に見える橋下市政と日本財団も、結果的には同じ方向を見ているのではないかと思いました。

たしかに、橋下市長は「文楽は敷居が高くて」と発言し、補助金をカットしました。ですが、それは文楽に対する現在の税金投入の仕組みを否定しているだけのことのようです。例えば、橋下市長はふるさと納税にリンクさせる形で、全国の文楽に関心のある人が寄付できる仕組みを考えています。他にも、鳥取県境港市にある、漫画家の水木しげるさんの漫画にキャラクター像がならんだ「水木しげるロード」という観光地を参考に、文楽を元にした町おこしも考えているそうです。

こうした新しい取り組みと人間国宝などの今までの制度の否定は、税金で支援しながら現在の敷居の高い文楽を変え、本来の姿である庶民の娯楽に戻り、文楽を理解する人を増やすことを目指す動きに見えます。そう考えると、日本財団が行っている『にっぽん文楽』プロジェクトが目指す方向性と、まったく同じだと感じました。私も最初は興行に対する盲目的な税金支援にたいして、深い思考もなく生理的に嫌悪感のようなものを抱いていました。しかし、今回、『にっぽん文楽』プロジェクト関係者の話を直接聞いて、より深く問題の本質が理解できたように感じました。

大阪に戻ってくる文楽

さて、このような経緯で、今年の10月17~20日『にっぽん文楽』プロジェクトの「にっぽん文楽」が文楽発祥の地である大阪で行われます。難波宮跡公園(大阪歴史博物館・NHK前広場)で、今回も飲食も可能ですし、チケットも2000円と格安です。もし、この記事を通じて、私たち日本人の宝である文楽について関心を持った方がいたら、ぜひこの機会に文楽を鑑賞してみてはいかがでしょうか。もし行かれる方は、客席数が少ないので早めにチケットを買うことをオススメします。(取材協力:日本財団)
(記事引用)

※末尾総括 柳田国男たちの功績

江戸時代から大正、昭和にかけて、一般庶民を楽しませてきた娯楽エンターテイメントは、折口信夫、またその師匠格の柳田国男の遠野物語、ザシキワラシやカッパ、神隠し、姥捨てなど、岩手県遠野に伝わる伝承を広めた功績が日本の文化度を高めた。また昭和初期に活躍した「伊庭孝」も、その中の一人といっていい。

日本の今の現代芸能娯楽は、彼らによって確立したといっも差し支えない。それ以前では、何を訊いて、何を謳って楽しんでいたのか、という文化変遷は、学校で教えていない。教えたのは紀元前ギリシア時代のピタゴラス音階であり、はっきり云って「西洋音楽」である。

たまに時代劇に使われる「わらべ歌」など、その典型で「ヨナ抜き短音階」構成のうたである。(※ヨナ抜き短音階, A, B, C, E, F, A, 陰音階の主音をAに変更. ニロ抜き短音階,A, C, D, E, G, A, 陽音階と同じ ... 四七抜き音階」とも表記し、ヨナ抜き長音階を西洋音楽の長音階に当てはめたときに主音、ド、から四つ目のファと、七つ目のシがない音階、ドレミソラ、の 音階。)

独特の哀愁があって、懐かしい、と感じるのは、この音階はいまでも東アジア、西アジアモンゴルなど、この旋律の民謡唱歌を歌っている。だから、それを聴いた我々日本人までも、かつてはそれで育っていたので、アア懐かしい、と感じるのだ。

古典芸能など、話すとキリがないので、ここでは限定するが、私がしている「神楽」は、なにも愛嬌をふりまいて民に幸運をばらまいているわけではない。

演目の全部は「神話」シナリオで、メインは「天の岩戸開き」が定番となっている。世の不吉な世相を病んで「アマテラスオオミカミ」が岩戸に隠れ、すると世界が真っ暗(冬至説)になり、それを憂いた別の神「ウズメ」が須佐之男・スサノオを宥めながら岩戸を開けて(復活祭)世の中が再び元に戻るという、古代のプロパガンダ(プロデューサー・大和朝廷)である。

その物語を、むかしの人々は殆ど文盲で字が読めない時代(識字率0.1%)であったので演劇で国家成立を教育する使命があった。
推定だが、おそらくそれは征服者(朝廷側)による土着マイノリティーの洗脳と思われた。そのことは、古代ローマの円形劇場の演目また、それ以前のギリシア神話など吟遊詩人による「オデッセイ」など、それらとよく似ているので、そのような「人間歴史」は、2000年から4000年という時間を経て、こんにちの現代社会へと継承された、と理解したい。

だから古典芸能や地元に残る伝承芸能は絶やしてはいけない、という理由だ。それがないと自分は何者だ、というアイデンティティーを語ることが出来ない。

長くなってしまったのでこれで辞めにしておく、続編は気が向けば書くが、まったく気がしない、こともありうる。
というのも、木をみて森を観ず、という風潮のなか、神話の最初だけ説明しても、殆どチンプンカンプンの人が多くて、気が失せてしまう。また需給バランスもあって、大切だから残したい、と切望したところで需要市場がなければ、意味もない。そうした情況で財団が文楽のために1億円を出費したという情報は心強い。 (サイト主~) 2016/1/19

ライブドアブログ自著「人形浄瑠璃」復活劇 2016-01-19 06:00:17  | 記事~

人形浄瑠璃 自著blog


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