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日本は、世界になにをすべきか?

ゼレンスキー大統領 NYに到着 国連総会で演説へ
総合 2023-09-19 05:29
ウクライナのゼレンスキー大統領がアメリカ・ニューヨークに到着しました。国連総会での演説や安全保障理事会の会合に臨み、各国に軍事支援の強化などを訴えるものとみられます。ゼレンスキー大統領は18日、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に専用機で到着しました。

ゼレンスキー氏はこのあと、ウクライナ兵が治療を受けているニューヨーク市内の病院を訪れ、激励することになっています。また、19日には国連本部を訪れ、国連総会に出席して一般討論演説に臨む予定です。ゼレンスキー大統領が国連総会で演説するのは、ロシアによる軍事侵攻が始まって以降初めてで、改めて各国に対して支援の強化を訴えるものとみられます。ゼレンスキー氏は20日に安保理で開かれる公開会合にも出席し、21日にはワシントンに移動してバイデン大統領と会談する見通しです。

情報提供元:TBS NEWS DIG Powered by JNN


今朝は、先日に続いて、女流江戸浮世絵師 「葛飾応為」を書く予定でしたが、その前に、ゼレンスキー氏が国連と、バイデン大統領と会談するというニュースがあったので、ここに載せました。

あえて併記する必要もなかったのですが、おそらく、こうした世界的ニュースは、日本の市民にとって無関心と悟って、ここに載せた、というわけです。昨日は、北朝鮮「金総書記」がロシアから帰国した、とニュースもあり国際間のパワーバランスは、緊張しているようですが、日本の世間ではあまり話題にあがらない、そんな印象を持ちました。

葛飾応為 (かつしか おうい、生没年不詳)

葛飾応為 (かつしか おうい、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女。

葛飾応為『三曲合奏図』


ウイキペディア

画 中央の遊女が琴、右側の芸者が三味線、左側の町娘が胡弓をひく。「三曲合奏」とは、「琴・三味線・胡弓(または尺八)のこと、またその合奏」の意味だが、浮世絵ではもっぱら尺八ではなく胡弓で描かれ、複数の絵師が同画題を手がけている。
身分が異なる女性が一度に合奏するという現実ではなかったであろう場面だが、これは中国の伝統的な画題である「三酸図にならったとも考えられる。
見事な彩色もさることながら、横長の絹本に、3人の女性に楽器を持たせ、破錠無く画面全体を作り上げており、応為の高い画力を見て取ることが出来る。

なお、イタリアのキヨッソーネ東洋美術館にも伝応為の同名作品(英語題名 "Trio of women playing the shaminen,kokyu andkoto")が所蔵されているが、全体に雑で、女性の帯や衣などが異なり、琴の弦の数が1、2本多い(ボストン本は13弦)ことから、図の模倣品とする説がある。

葛飾 応為 図 1840年代中頃の応為、露木為一筆
著名な実績 浮世絵

配偶者 南沢等明(離別)

葛飾 応為(かつしか おうい、生没年不詳)は、江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の三女。応為は号(画号)で、名は栄(えい)と言い、お栄(おえい、阿栄、應栄とも)、栄女(えいじょ)とも記された。

葛飾応為『月下砧打美人図』

北斎には2人の息子と3人の娘(一説に4人)がいた。三女だった応為は、3代目堤等琳の門人の南沢等明に嫁したが、針仕事をほとんどせず、父譲りの画才と性格から等明の描いた絵の稚拙さを笑ったため、離縁されてしまう。

出戻った応為は、北斎の制作助手も務めたとされている。顎が出ていたため、北斎は「アゴ」と呼んでいたという。80歳後半の北斎自筆の書簡でも応為を「腮の四角ナ女」と評し、自身の横顔と尖った顎の応為の似顔絵が添えられている。なお、北斎の門人の露木為一による『北斎仮宅写生図』にも、北斎と応為の肖像が描かれている(「北斎仮宅之図」 紙本墨画 国立国会図書館所蔵)。

初作は文化7年(1810年)を下らない時期と推定される『狂歌国尽』の挿絵と見られる。同じく北斎の娘と言われる画人の葛飾辰女は、手や髪の描き方が酷似し、応為の若い時の画号で、同一人物とする説が有力である。

特に美人画に優れ、北斎の肉筆美人画の代作をしたともいわれている。また、北斎の春画においても、彩色を担当したとされる。北斎は「美人画にかけては応為には敵わない。彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられている。同時代人で北斎に私淑していた渓斎英泉も、自著『旡名翁随筆』(天保4年(1833年)刊)の「葛飾為一系図」で、「女子栄女、画を善す、父に従いて今専ら絵師をなす、名手なり」と評している。またこの記述から、天保初め頃には応為は出戻っており、北斎晩年の20年近く同居していたと推察できる。

晩年は仏門に帰依し、安政2年から3年(1855年 - 1856年)頃、加賀前田家に扶持されて[要出典]金沢にて67歳で没したとも、晩年北斎が招かれた小布施で亡くなったともされる。一方で虚心は、『浮世絵師便覧』(明治26年)で、慶応年間まで生きていた可能性を示唆している。
人物出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







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