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日本古典芸能に寄与した両雄

小泉文夫(1927年〈昭和2年〉4月4日 - 1983年〈昭和58年〉8月20日)は、日本の民族音楽学者。 東京都出身。東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)を経て東京大学文学部美学科へ入学。在学中に日本音楽学に関心を持った。卒業後は、東京大学大学院人文科学研究科美学専…
2024年2月8日 (木) 04:54

音楽学者
楽理科の設立(出身者角倉一朗、東川清一、船山隆)までは、普通大学の美学科が本格的な音楽学者を輩出するのが一般的であった(出身者野村良雄、海老沢敏、小泉文夫、服部幸三、皆川達夫、はいずれも東大美学美術史・美学藝術学の出身、礒山雅、長木誠司、渡辺裕らも学部は東大)。普通大学において音楽学が独立した専攻と…

歌謡曲
音楽学者の小泉文夫は1977年に発表した「歌謡曲の音階構造」において、四七抜き音階から二六抜き音階(エオリア短調)へ移行しつつあると指摘し、これを日本の伝統的音楽感覚、民謡音階の復活とみて、1970年代の歌謡曲における「ラドレミソラ」音階を「日本のうたの古層の出現」と評した。 この小泉…

音楽の世界
NHK教育テレビジョンで放送されていた中学生・高校生向けの学校放送(教科:音楽)である。 いずれも日本標準時、別の時間帯での再放送あり。 石丸寛 小泉文夫 西口久美子 [脚注の使い方] ^ 「新作紹介 教育放送 NHK番組紹介 NET番組紹介」『視聴覚教育』第26巻第5号、日本映画教育協会、
1972年5月1日、146…

能管のサムネイル
能管
各部の寸法がある。 日本 能管(能楽) 奏法『双ヒシギ ヒヤヒ』 、『留メのヒシギ』東京藝術大学 小泉文夫記念資料室 日本 能管(能楽) 音階『セメ(甲)』 、『フクラ(呂)』 東京藝術大学 小泉文夫記念資料室 笛「能管」洗足学園音楽大学伝統音楽デジタルライブラリー X…

平凡社
評論家 大澤正道 - アナキズム研究家 加藤九祚 - 文化人類学者 加藤周一(顧問) - 評論家 川添裕 - 文化史家 木村久一 - 教育学者 小泉文夫 - 民族音楽学者 小林祥一郎 - 「太陽」二代編集長。新日本文学編集長、エンカルタ日本語版編集長 沢近十九一 - 科学ジャーナリスト 瀬田貞二 -…

青土社
大佛次郎賞 多田富雄『免疫の意味論』(第20回・1993年) 土門拳賞 石川直樹『CORONA』(第30回・2010年) サントリー学芸賞 小泉文夫『民族音楽研究ノート』(第2回芸術・文学部門・1980年) 松山巖『うわさの遠近法』(第5回社会・風俗部門・1993年) 野崎歓『ジャン・ルノワール…
 - 2023年7月22日 (土) 23:45
音楽民族学
 バルトーク・ベーラ コダーイ・ゾルターン ロヴァース・イレーン フランシス・ジェームズ・チャイルド博士 小泉文夫(日本を代表する音楽学者) アラン・ローマックス 東洋音楽学会 国際伝統音楽学会 


ウイキペディア

 

野村万之丞 (5世)
八世野村 万蔵(のむら まんぞう、1959年〈昭和34年〉8月9日 - 2004年〈平成16年〉6月10日)は、日本の狂言方和泉流能楽師・俳優・演出家(総合プロデューサー)、野村万蔵家8代目当主(1995年 - 2004年)、萬狂言初代代表、NPO法人ACT.JT初代理事長、能楽協会理事、重要無形文化財(総合認定)保持者。本名:野村 耕介(のむら こうすけ)。東京都豊島区出身。
1964年の学習院幼稚園入園から1978年の高校卒業まで学習院に学び、同学年の浩宮徳仁親王(現在の今上天皇)の学友となった。また、高校卒業後も徳仁天皇とは公私共に交流があった。

1995年1月に父・野村萬(七世野村万蔵)から万蔵家当主を譲られ野村万蔵家八代目当主となると共に五世野村万之丞を襲名した。万蔵家当主として一門を総括する組織『萬狂言』を設立した他、長野オリンピック閉会式の演出や「大田楽」の復興や大河ドラマでの芸能考証やお笑い芸人とのコラボレーションなど狂言以外の分野においても活躍した。その後、2003年6月に万蔵家の当主名である野村万蔵を八世として襲名する事を公表した。

しかし、八世野村万蔵襲名を半年後に控えていた2004年6月10日午前8時20分、父の萬に先立ち満44歳(享年46)で死去した(没後の2005年1月に八世野村万蔵を追贈された)。なお、辞世の句は「万蔵に万感の思いで千秋楽」である。

次世代の能楽界を担う若手狂言師のリーダー格の存在であると共に北朝鮮との文化交流を行っていた八世万蔵(五世万之丞)の早世は能楽界並びに芸能界、政府関係者及び「楽劇作品」関係者から「大きな損失」と惜しまれた。

「現代狂言」や新たな「大田楽」、「猿楽」などの様々な構想を遺した志半ばでの死であったが、その遺志を継いだ弟・九世野村万蔵がその活動の多くを受け継いでいる。また、八世万蔵が生前名乗った「万之丞」の名跡は甥の虎之介が六世として引き継いだ。

また、八世万蔵(五世万之丞)が育てた小笠原由祠や山下浩一郎などといった八世万蔵の弟子達も萬狂言の中心メンバーとして活躍し、八世万蔵(五世万之丞)の弟・九世万蔵の補佐なども行っている。

伎楽(ぎがく)は、日本の伝統演劇のひとつである。日本書紀によれば、推古天皇20年(612年)、推古天皇の時代に百済人味摩之(みまし)によって伎楽が伝えられた。中国南部の呉で学んだという(『教訓抄』)。奈良時代の大仏開眼供養(天平勝宝4年(752年))でも上演され、正倉院には、その時使用された伎楽面…

野村万之丞 (のむらまんのじょう)の足あと(1959-2004)
1995年、父より野村万蔵家当主を引き継ぐとともに五世万之丞を襲名。万蔵家当主としての活躍の他に、イベントのプロデューサー才能を発揮し、長野パラリンピック閉会式の演出などを担当、総合芸術家として『TMDネットワーク』を主催。
またマルチメディア関連の活動にも積極的で、文化庁のCD-ROM、通産省のDVD-ROMコンテンツ制作に携わった。NHK大河ドラマの芸能考証も務める。

2004年、神経内分泌がんのため死去。享年44。八世野村万蔵を襲名する目前であったが、死後に追贈された。全国各地での基調講演にて、「文化とは形を変えて心を伝えるもの」という名言を残した。

野村万之丞さんを偲ぶ


私が心から敬愛する狂言師野村万之丞さんが去る6月10日に急逝されました。44歳でした。
4月の北朝鮮公演から帰国直後に発病され、癌があきらかになり、6月にアテネオリンピックへの聖火を見送った直後に亡くなられました。5月22日の私の結婚式に、お祝いのメッセージビデオも贈っていただいていましたのに、私も、悲しみと驚きで言葉がありませんでした。参議院選挙の前日大隈講堂で行われたお別れの会でも、無念の涙が止まりませんでした。

野村万之丞さんは、日本への、アジアへの、人類への、次世代への、答えをすべてもっておられました。そして、すでに始めておられました。本当に、本当に、かけがえのない方を失いました。日本が輩出した世界スケールの天才アーティストであり、天才プロデューサーでした。
竹村真一さんが、「万之丞さんのお仕事の素晴らしさや意義を語れる人はいるけれども、彼に代わって、その仕事を受け継げる人は何処にもいない。」といって肩を落としておられましたが、まさに、そのとおりです。これこそ痛恨の極みです。

私が万之丞さんと一緒に夢みてきたのは、人類史に新たな時代を拓くことでした。文化や芸術を通じて平和な世の中にすることでした。近現代=欲望と戦争の時代は、欧米から始まり、日本を経てアジアに広がっていきました。いまだに多くの人々が物欲主義の呪縛から逃げられず、いまだに戦火が絶えません。結局、二十世紀は『敵』と『争』の世紀でした。

次の時代の主題は何か、それは『友』と『楽』です。良き友と交わり笑い声が響く楽しい時を共にする。このことを最も大事にする時代を創るため万之丞さんは立ちあがりました。狂言の名家・野村家に生まれた万之丞さんだからこそ、誰よりも「笑い」のもつ底力を知っていました。笑いは、その場にいるすべての人々を忽ち幸せの渦のなかに巻き込んでしまいます。世界中を笑いで満たしたい。

だからこそ、万之丞さんは、大田楽や萬歳楽などの楽劇創りに打ち込みました。野村さんが真っ先に仮面(マスク)に着目したのは流石でした。
仮面をかぶった瞬間に、人々の間の垣根が消えて、みんなが心一つに祭りに興じられるのです。
本来の『楽』と『祭』をアジア中・世界中に伝え直していくために、マスクロードの旅を始めました。シルクロードを終点日本から全アジアへと歩みを進めました。
韓国での大成功に引き続き、今年は、北朝鮮に渡りました。数日間ではありますが、あの北朝鮮にすら本当の笑いが戻りました。
来年は北京。それから、いよいよシルクロードへと夢は着々でした。中国奥地へは万之丞さんと私の双方のパイプでお願いしようなどという相談もしていました。このプロジェクトは本当に世界を変えると私も確信いたしました。

笑いの原点である「狂言」の基盤を固めるために、来年1月の野村万蔵襲名を期に、狂言協会構想なども私に熱く語っていただきました。日本伝統文化への万之丞さんの強い愛情と使命感に私は強く心を打たれました。

さらに、芸術・文化を支える仕組みづくりにも野村万之丞さんは奔走されました。昨年は、NPO税制実現のために文化人の先頭にたって永田町・霞ヶ関の関係者を説得して回っておられました。

そのほかにも、NHKドラマの時代考証、日米文化交流プログラム、新たな東京での劇場づくりのプロデュースをはじめ、世界中のあらゆる人々からの、あらゆる相談を、万之丞さんは気持ちよく引き受けていらっしゃいました。

そうした、猛烈に多忙なプロデュース活動の傍ら、本来の狂言師としての舞台も見事に務められ、自らの芸には一切妥協されませんでした。いつもいい舞台でした。さらに、激務のなか、早稲田大学や桜美林大学で若者たちの指導にもあたっておられました。

万之丞さんは、狂言のため、芸能のため、日本のため、アジアのため、次代のため、世界のために、超人的な毎日を、まさに、身を粉にして、頑張っておられたのです。すでに何十倍もの人生を生きておられました。少し飛ばしすぎたのかもしれません。でも、もっと長く、ご一緒にこの時代を生きていただきたかった。

万之丞さん。私は、あなたの構想とあなたの始められたことの素晴らしさを可能な限り多くの方々に伝えていくこと、そして、あなたの構想の実現に関わるあらゆることを力の限りやり続けていきたいと思います。
ただ、あなたの構想をあなたに代わって実現できる方がいないという現実に我々は呆然と立ちつくすしかありません。ここのところは、天国からも、ぜひ知恵を貸してください。また、頼みごとをしてしまいました。すみません。天国では、ゆっくりお休みください。心から、ご冥福をお祈りいたします。合掌 (記事引用)

6月6日の紀尾井ホール『Good Old Days』Part Ⅲ にいらして下さいました皆様、本当に有難うございました。昨年までと"ひと味"違う演出・構成でしたが、おおむね好評を頂き、嬉しく思っております。このコンサートの準備の道程で、まぁまぁ それは様々なことがありましたけれど、野村万之丞さんのことは最大の衝撃でした。彼が倒れられてからお亡くなりになるまでが余りに短い期間でしたので、正直言って、未だに事実が納得できない思いでいます。

3月半ば、万之丞さんが講演のためにニューヨークに見えられ、その時にご挨拶を兼ねてお目にかかったのですが、あの時の、ご自分のプロジェクトの将来について語られる彼の自信とエネルギーに溢れたお姿が目に焼きついており、こんな形で2度とお目に掛かれなくなるなんてことは想像外の出来事でした。
万之丞さんが狂言師だけに止まらず、制作・演出・学術・執筆ほか、総合芸術家として多岐にわたり大活躍されていたことは多くの方々の知るところと思いますが、彼の講演を聞かせて頂き、日本の歴史と伝統に裏づけされた(300年の歴史を持つ加賀前田藩お抱えの野村万蔵本家の直系長男として生まれ、祖父・父君は人間国宝。'05年には8代万蔵を襲名予定だった)深い知識と、文化に対する認識力、そして、洒脱で明快なお話振りに、いたく感銘いたしました。

"文化とは、形を変えつつ心を伝えていくもの。「守り」の姿勢に入ると滅びるものです。形だけ守ろうとすると中味はピーマンのようにカラカラになってしまう・・・文化はシャフルして使わなくてはならない。
伝承→創造→破壊・・・これがひとつのサイクルなのです。"と語られていた万之丞さん。"人類は地球をコンクリートで固めることで破壊を続けています。産業革命までは地球の利子で食べていましたが、産業革命後はついに地球の元金に手を出してしまいました・・・元金は目崩れして破壊へと動いています。

だからこそ今、人類の伝承してきたものに目を向け、新たな創造を始めなくてはならない・・・"というメッセージを持って世界を駆け巡っておられたのだと思います。その「創造」の志半ばで早逝されてしまったことは本当に無念極まりないことですが、彼が力を注いでおられた真伎楽(注・伎楽とは、1,500年前=聖徳太子の少し前=に、ペルシャよりシルクロードを通って日本にもたらされた音楽とパントマイムで、その仮面が多く残っているのは世界でも唯一、日本の正倉院のみとのこと。

中国にもこれだけの遺産はないとか)による「マスクロード・プロジェクト」(仮面文化の存在を確認しながらシルクロードを逆に辿っていく、という)のお話は大変興味深いものでした。ニューヨーク講演で伺った素晴らしいお話の一部を、このページで皆様にお届けすることで、万之丞さんのご冥福を心より祈らせて頂きたいと思います。我々日本人が普段何気なく使っている言葉や慣習の中にシッカリと刻み込まれている伝統と歴史、そして、それらが意味するところ=心=について考える機会をつくって下さった万之丞さんに深く感謝して・・・。(私の取ったメモがもとですから、お話の一字一句を再現することは出来ませんが、彼の残されたご功績に敬意をはらい、以下にまとめてみたいと思います。少し長くなりますが、お付き合いくださいね。)

文化交流の時代は終わり、今や「文化共有」の時代に入りました。音と身体と仮面が、人間のコミュニケーションの基本(もと)です。
古来の芸能・猿楽=こっけいな物まね芸(ちなみに、「まねる」ことは日本文化の基本)=では、三番叟(ソウ)の仮面はおじいさん(翁)であり、一番叟の面は中国にあるものと同じで、それはまた、北アメリカのトーテムポールとも同じ顔をしており、全て世界に通じるところがあります。見えない「神」と、見えない「心」を繋ぐのが仮面の役目で、「型」(=伝統)は過去(見えないもの)を知るために必要な、大切なものです。仮面によって見えない神との交流を図り、また、仮面は神(本質)そのものともなります。
それは「真実」のみを語り、絶対に不変であるのです。目に見えない本物のことを"シ~ン"と言い、それは漢字の神・心・新・身・真などに繋がります。真名(まな)は真実の文字、仮名(かな)は仮の文字の意味です。
カルラとは仮面のことですが、ガルーダ=イーグル(ハゲワシ)と同じ言葉であり、太陽信仰(ゾロアスター教)の鳥葬にも繋がります。ツタンカーメンの仮面にはコブラがついていますが、コブラは地球の支配者を意味し、コブラとガルーダによって過去と未来を伝えているのです。

『演劇人類学』(注・万之丞さんが専門分野として大学で講義をされていた学問)から見ますと、日本の伝統芸能である狂言と能は双子の兄弟のようなものです。"一妻多夫"の、母親は猿楽。父親は先行芸能であり、第一夫:伎楽、第二夫:雅楽(1,000年前に日本に入り、天皇家で脈々と受け継がれている。ちなみに、"神様の動き"のことを「振る舞」というそうです。だから、振る舞いに気をつけなさい、などと言うのですね!・・・筆者より)。第三夫:田楽(1,000年前に生まれ、500年前に滅びた。一本の棒にしがみついている姿を「串刺し」と言い、田楽ゴマや田楽豆腐にも一本の棒がついていますが、それらは全て田楽の名残り。筆者はちょっと聞き逃しましたが、竹馬に乗る姿と関係があったよう・・・)です。その中から生まれ、日本人が最初につくった芸能が狂言(兄)と能(弟)であり、兄(狂言)は母親似で「喜劇」=生きる="あ"の音。弟(能)は悲劇=死ぬ="ん"の音。『あ・ぅんの狛(こま)犬』を神社などで見かけますが、元来はサンスクリット語で、「過去」と「未来」を通って生死の世界を考える、という意味なのです。

能や狂言のような仮面舞踊は、韓国や北朝鮮にも存在します。ちなみに、伎楽の仮面を作る技術は現在、日本にしか残っておらず、様々な仮面の再興に取り組んでいるところです。

戦国時代の侍(殊に織田信長)は能をこよなく愛しましたが、これは彼らが常に死と向き合っていたことの反映であり、豊臣秀吉は狂言のなかに"生きている時間"の大切さを見出していました。
前田利家は能も狂言もダメで、「かぶきもの」(歌舞伎)と呼ばれましたね。徳川家康は能と狂言を上手く利用して、方言で互いに言葉の通じない全国の侍をコントロールしました。能は文語体(候=そうろう文)として、狂言は会話(~でござる)に使われたのです。歌舞伎は、徳川家康によって"世俗を乱す"―ということで全て禁じられてしまったために曲がひとつも無くなってしまいました。
そこで、能や狂言から18曲もらい、歌舞伎18番に仕上げたのです。その曲は桐の箱に入れて大事に届けた・・・それが歌舞伎で言うところの「おはこ(十八番)」なのです。日本語の表現というのは、このように伝統芸能から生まれたものが多く、雅楽においては、太鼓の音に合わせて舞うことで「打ち合わせ」と言い、狂言においては、言葉に合わせることで「申し合わせ」と言い、一緒に"間を合わせて"演じるための約束ごとでした。

現代は金儲け第一主義で「小さく」「速く」「近く」が合い言葉となり、常に新しいものを追い駆け、消費することが美徳のようになっていますが、本物の文化とは「大きく」「ゆっくりと」「遠く」、そして、細く・長く続けていくものなのではないでしょうか。~

(以上、2004年3月11日(木)・The Nippon Club, in NYCに於ける、故・野村万之丞さんによる講演『マスクロード:文化交流から文化共有へ』より、抜粋・要約・編集させて頂きました)
後記:まだまだ沢山、興味の尽きないお話があるのですが、最後にひとつだけ、万之丞さんが聴衆からの質問に答えられたご意見が心に残りましたので、ここに添えさせて頂きたいと思います。2001年9月11日のテロ以後の世界情勢について、どのように考えておられますか-という質問だったのですが、"WASP(アメリカ)とイスラムの双方に、偶像崇拝はない。仮面の存在しない文化の衝突-と受け止めている"と、お話されました。 私にとって"何故、あそこまで互いに憎みあわなくてはならないのか"-という疑問は大きかったのですが、その一部 (記事引用)

野村万之丞さんを偲ぶ


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