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オンナ作家「米原 万里」の書評徒然

「米原 万里」の書評に圧倒

米原万里「私の読書日記」週刊文春2002年2月28日号|
打ちのめされるようなすごい小説『夜の記憶』『心の砕ける音』作家『笹まくら』

「私の読書日記」 2017/07/05 週刊文春
×月×日
一年あまり前、友人で小説家のHから突然メールが届いた。
「トマス・H・クック著『夜の記憶』(村松潔訳 文春文庫)をお読みになりましたか?もしお読みになっていたら、ぜひメールをください。なぜ、と思われるでしょうが、理由は長くなるので、まず、読んだか否かについて先にお伺いします」「エッ、鉄道時刻表のトマス・クックじゃなくて?」という私の返答に呆れたのだろう、Hは間髪入れず決して長くはないコメントをよこした。「アゴタ・クリストフの『悪童日記』以来、これではもう私が書く意味はない、と思ったほどすごい本でした」
ミステリー作家ポールは悲劇の人だった。少年の頃、事故で両親をなくし、その直後、目の前で姉を惨殺されたのだ。長じて彼は「恐怖」の描写を生業としたが、ある日、50年前の少女殺害事件の謎ときを依頼される。それを機に"身の毛もよだつ"シーンが、ポールを執拗に苛みはじめた-人間のもっとも暗い部分が美しく描かれる。


文春


いやが上にもそそられるではないか。それにHが断筆したら人生の楽しみが減るので、早速近くの本屋に注文したものの、在庫切れで入荷時未定とのこと。インターネット書店も同様だったが、ここで初めてクックが最近、日本でも高い人気を誇るアメリカのミステリー作家であることを知る。Hの作風はどちらかというと純文学系なので、さらに興味がつのる。
ところが、ようやく待望の一冊が届いた頃は、ネコヒトイヌ総勢八頭引き連れての引っ越しの真最中で、『夜の記憶』は忘却の彼方(かなた)へ追いやられてしまったのだった。
それが深夜、書庫の整理をしていて出てきた。Hのメールを思い出して軽い気持ちで頁を捲(めく)るや、恐怖で身体が強(こわ)ばり、読み終えずに寝たら悪夢にうなされそうな気がして書庫の床に座ったまま最終頁まで突き進んだ。
幼い頃事故で両親を失った主人公は、たった一人の姉と寄り添って生きてきた。その姉を、ある夜押し入った殺人鬼に目の前で惨殺される。長じてミステリー作家となった彼は、辛い記憶を心の奥底に封印して、ニューヨークの片隅に世捨て人のように身をひそめ、冷血な殺人鬼とその卑屈な手下、彼らを追う刑事の物語を執拗(しつよう)に書き続けている。

シリーズ化されたその小説のファンだと名乗る富豪の女性から、ある日奇妙な依頼が舞い込む。五〇年前に自宅の敷地内で起きた美少女怪死事件について謎を解き明かしてくれ。ただし、必ずしも真相を突き止めなくてもいい。死期の近い少女の母を心安らかにしてあげるのが目的なので虚構でもかまわない、納得のいく物語を構築して欲しいというのだ。
事件の現場となった屋敷を訪れた主人公は、関係者たちを訪ね歩き、証言を聞き出し、丹念に捜査資料を漁(あさ)る。疑わしい人物が登場するたびに彼の脳裏には、犯人像とその動機、事件の一部始終が物語となって次から次へと湧いてくる。その虚構の中に、自身の連作小説の登場人物たちがまぎれ込んでくる。怪死した少女の年齢と殺された姉の年齢が近いせいか、姉がサディストに一晩かけて弄(もてあそ)ばれながら殺されていったシーンがことあるごとに甦(よみがえ)る。これが怖い。今でも読まなければよかったと思うほど怖い。
こうして過去と現在、現実と虚構のあいだを絶え間なく行き来しながら、少女怪死事件の謎①と姉の惨殺にまつわる謎②が絡まり合いながらも徐々に解きほぐされていく。謎①については、唐突にナチスの絶滅収容所における人体実験という要因が用意されていて、面食らう。謎①の要因が謎②の要因の絶妙な比喩になっているのだが、もう少し掘り下げてくれないとやはり取って付けたような印象が否めない。それが玉にキズ。謎②の方は、幾重もの伏線が張ってあるおかげで、解明された瞬間、主人公と読者の心にのしかかる重石(おもし)がスパッと取り外される解放感がある。

だが後味は、重く切ない。普通のミステリーのように、理不尽の裏に潜む合理的な真相を最後に突きつけることで読者を爽快な気分にして現実世界に引き戻してくれたりはしない。姉を快楽のためだけに惨殺した殺人鬼という最大の理不尽は野放しのままだからだ。しかし、だからこそ主人公の悲しみと苦悩が真実味を持って迫ってくる。謎解きそのものよりも主人公の心の闇を通して罪深い人間への愛おしさをかき立てる方に著者の狙いがあるような気がする。
×月×日重層的な構成といい、緻密(ちみつ)な細部といい、たしかにHが感心するだけのことはある。
しかし「もう書く意味はない」ほどの傑作かというと、いや同じように現在と過去を絶え間なく往復する構造ながら、もっと打ちのめされるようなすごい小説を、しかも日本人作家のそれを読んだことがあるような……それが何だったのか思い出せないもどかしさを抱えたまま、同じトマス・H・クックの最新作『心の砕ける音』(村松潔訳 文春文庫)を手に取る。
一九三〇年代アメリカ東部の港町で青年が刺殺される。地方検察官でもある青年の兄の一人称で物語は叙述される。犯人は誰でなぜ弟は殺されたのか、真相を究明する過程で、兄は弟との幼年時代からの来し方を何度も何度も振り返る。

米原万里「私の読書日記」

週刊文春2003年2月27日号『ロシア建築案内』『スポーツ解体新書』『趣味は読書。』 


脱帽の三冊
×月×日
チェチェンと戦争している間はロシアを訪れまいと心に決めていたのに、リシャット・ムラギルディン著『ロシア建築案内』(TOTO出版)をめくると、無性に行きたくなる。
タイトル通り、広大なロシアを七地域二八都市に分割して各地の代表的建物を紹介する形をとっているが、建てられた時代、都市、その後の建物を巡る歴史、政治権力や経済、社会の動向、文化的背景、建築様式の変遷等々に話は及び、結果的にロシアの文化や歴史を俯瞰(ふかん)し、現代の息吹にも触れてしまうというとんでもなく欲張りな一冊になった。
しかも、観光ガイドにありがちな通り一遍で人畜無害というのではなく、建築史や都市計画のみならず、歴史や宗教、文学についてもやたら蘊蓄(うんちく)と毒がある文章なのだ。

たとえば、一九三〇年代初めモスクワに建設された巨大豪華マンションについて建築的特徴を記しつつ、「当時ソ連ではキッチンやバスを共有する集団的共同住居が新しい生活スタイルとして脚光を浴び始めた時代であった。この建物に住みソ連スタイルの居住様式のプロパガンダを流布していたはずの官僚らは、もとよりそのような共同住居生活を自ら実践する意志はなく、共有部分はスポーツ・クラブや映画館といった娯楽施設や公共的サービス施設に限られていた」と皮肉る。「”窓からクレムリンの見える”マンションに住むことは、一般市民にとっては夢のまた夢であった。ソ連政府上層部の閣僚、文化・芸術分野の著名人、高名な学者や軍のエリートが、ここの主な住民であった」ゆえに、その多くがスターリンの粛清の犠牲となったと述べながら、さりげなくここがトリフォノフの小説『川岸の館』の舞台で、以降この建物もそう呼ばれるようになったこと、N・ミハルコフ監督の映画『太陽に灼かれて』の初めと終わりが、この”窓からクレムリンの見える”マンションの一室であったことを教えてくれる。
革命前後は隆盛を極めたものの衰退しつつある構成主義と台頭するネオ・クラシシズムの両様式が奇妙な融合を見せるホテル「モスクワ」の巨大さと醜さについては、人気風刺作家I・イリフの描写を紹介する。
ある意味では”詩的エクスタシー”かもしれない。足場がはずされると、このもうひとつの”偉大なる”建築物のラインが慄然(りつぜん)と上空へ高く舞い上がった。ロビーに入ると12本もの列柱が盛大に歓迎してくれる。ロビーを飾る装飾家具はどれも巨大で数も多く、一体どう身を置けばよいかわからなくなる。廊下の先は見えないほど長い。今回ばかりは、詩の神様もどうやらへまをやらかしたようだ

建物正面が左右非対称になった経緯については逸話を紹介。建築家のシューセフが一枚の紙に二案用意して届けたものの、スターリンは図面を理解できず、真ん中にサインし、その決定は絶対だったためとか。

これほど読み応えのあるロシア・ガイドブックを私は知らない。興味尽きないカラー写真、図版が所狭しとビッシリ詰まっていて、見ていると時間の経つのも忘れる。これに、年表、設計図面など収録していて、索引も充実。紹介される全都市の地図は和露併記になっていてソフトカバーだから携帯に便利。これはもう、現地に足を運び己の目で確認せよということ。
原書はロシアか欧米かと思いきや何と日本で作った本だった。ロシア全域の建築文化をこれだけ網羅した本はロシアを含め世界でも初めての試みと謳っている。著者は日本に留学経験のあるロシア人建築家。一九六九年生まれというその若さと才能に驚愕。才能を引き出した編集者の目と腕にも。

×月×日
日本人は団体行動は得意だが、実は、チーム・プレイは苦手である。集団での踊りやダンス、オーケストラや吹奏楽の演奏などで手足の動きを揃えたり、音を揃えるのは巧い、しかし、誰もが同じ動きをしていてはチーム・プレイは成立しない。「ゲームの流れのなかで、あらかじめ予定していたこととは異なる動きをするのがチーム・プレイ」である。日本人は、チーム・プレイ=団体行動というふうに混同しがちだけれど。

玉木正之著『スポーツ解体新書』(NHK出版/朝日文庫)は三頁に一回の割でスポーツにまつわるこういう思い込みや無知を突きながら、現在の日本のスポーツが抱える根本問題をほぼ網羅的に取り上げていく。それを考えるための基礎知識を、歴史的経緯や他国との比較を通して提供するのを目的とした本書は、スポーツは本来人間社会を幸福にするものという真っ当な主張に貫かれているのだが、啓蒙書的な説教臭はない。

たとえばアマチュアリズムについて美しくて純粋で素晴らしいものというイメージを抱く者は多い。しかし、当初それは、貴族と新興ブルジョワジーが、そのステータス・シンボルとしてのスポーツの場から、身体活動のプロであるところの肉体労働者を排除するために生み出した差別思想であった。日本には相撲のようなプロスポーツの伝統と、運動会のようにスポーツを祭りとして楽しむ文化があったというのに、明治期、帝大を中心とするエリート層は、疑問を持つこともなく、むしろ美化して、これを受け入れた。
そのため一九二〇年に行われたアントワープ・オリンピック予選大会のマラソンで、一位から五位までの上位選手がすべて失格するという事件があった。
上位入賞者のすべてが、人力車夫をはじめ、牛乳配達、新聞配達、魚売りといった《脚力もしくは体力を職業とせる者》だったからである。

こうして欧米から入ってきたスポーツ文化は「アマチュアの体育として学校を中心に発展」し、野球に見られるように後発のプロスポーツは、アマと融合することなく発達した。アマは教育(体育)でプロは興行(金儲けの見せ物)と棲み分けているようでいて、お互いよく似ている。どちらも企業スポーツで、親会社の利益が最優先される。卒直にして辛辣。該博な知識と教養が視野を広げてくれる。

×月×日
斎藤美奈子著『趣味は読書。』(平凡社/ちくま文庫)。友人に電話かけまくり、可笑しいところを読んで聞かせようとするのだが、発話器官が笑い魔に乗っ取られていてちゃんと読めない。「いいわよ、自分で読むから」と切られてしまう。
ふだん本を読まない人が読むからベストセラーになる。だからいわゆる「本読み」は、ベストセラーを読まずに批判する。が、それでいいのか?そう思った文芸評論家・斎藤美奈子が果敢に挑みました。49冊を読み倒し、見つけたベストセラーの法則が6つ。読めば、抱腹絶倒、悲憤慷慨、そして世間の事情がわかってきます。文庫化に際し書き下ろしたのは『国家の品格』『東京タワー』など6篇。大増補版。
本の悪口を書かせて、これほど面白い人は空前。巷(ちまた)に辛口評は少なくないが、どうも後味が悪い。
男性辛口評論家に多いのは、褒める本貶(けな)す本の選び方の背後に政治的思惑が見えすぎてしまうタイプ。女性辛口評論家に多いのは、好悪の感情丸出しで説得力に欠けるタイプ。
これでは貶されている本より貶してる評論家の方を嫌いになってしまう。その点、斎藤は、どの本にもどの著者にも等距離で遠慮思惑一切なし。文体は陽気に乾いていて悪口にも芸がある。
今回舌鋒の餌食(えじき)となったのは、一九九九年から三年間に世に出た四三冊のミリオン・セラー。

五木寛之『大河の一滴』(辻説法のお手本)、大野晋『日本語練習帳』(新書の読者はお金はないが勉強はしたい若者だろうなんて思ったら大まちがい。
当今の若者はお金はあるが勉強はしたくない。この本が楽しめるのは、よほどインテリゲンチャなじっちゃん。でなければ暇をもてあましてる教養コンプレックスのじっちゃんだけではあるまいか。
だってこれ、相当難儀な、要するに「クイズ本」だもの。え、なぜいま彼らがクイズ本なのかですか? 理由はひとつしか考えられませんね。ぼけ防止、でしょう、たぶん)、高森顕徹『光に向かって100の花束』(ヤマなし、オチなし、イミなし、ヒネリなし、センスなし。断片的な教訓話を一〇〇個かき集めただけ。
読むほどにだんだん頭が悪くなっていく気がする)、石原慎太郎『老いてこそ人生』(肉体派の自慢話の集積。太陽族は陽が傾いてもなおギラギラ。読んでるこっちは日射病になりそう)、中島義道『働くことがイヤな人のための本』(哲学者なんて、労働者としても生活者としても、もともと失格なわけですよ。
じゃないと哲学者にはなれないし、失格だが、人類の貴重な文化財だから社会が特別に保護してやっているのである。

そんな保護動物みたいな立場の人が、他人の悩みに首をつっこむなど、トキがパンダの心配をしているようなものである)、B・シュリンク『朗読者』(インテリ男に都合のいい小説。少年・青年・中年期を通して「ぼく」は終始一貫「いい思い」しかしていない。少年時代には頼みもしないのに性欲の処理をしてくれて、青年時代にはドラマチックな精神の葛藤を提供してくれて、最後に彼女が死んでやっかい払いができるなら、こんなにありがたい話はない。

本の朗読をしてあげた? 戦争犯罪について考えた? そんなの「いい思い」のうちですよ。だいたい、この「ぼく」ってやつがスカしたヤな野郎なのだ。
自分はいつも安全圏にいて、つべこべ思索してるだけ。で、この小説は、そんな知識階級のダメ男をたかだか「朗読」という行為によって、あっさり免罪する)、村上春樹『海辺のカフカ』(最近の若い人は比喩と伏線が読めなくなっている。
比喩が理解できなければ詩が読めず、伏線がわからなければミステリが読めない。けれども、彼らは瞬間瞬間がおもしろければよく、前後は気にしない。SFではなくファンタジー、ミステリではなくホラーに読者が流れているのがその証拠。こんがらがった比喩と伏線が最後まで解けない『海辺のカフカ』が読まれたのは、そのせいかもしれない)。

売れる本や著者を貶す戦略は、『読者は踊る』や『文壇アイドル論』など一貫していて、私など自分の本が売れない不幸よりも、斎藤に酷評されない幸運を噛みしめる。

では嫉妬と羨望を慰撫(いぶ)してくれるから面白いのかというと、その限りではない。おそらく、批判の矛先が本というより、そんな本を好む世間の趣味に向かっていて、歯の浮くような褒め言葉よりも、遠慮のない非難の方が、対象とその本質を鋭く明快に捉えることが多いせいだ。それにしても内輪でも匿名でもなく活字でこれだけ毒舌を吐くには並々ならぬ準備と覚悟がいる。

ひたすら脱帽
米原万里全書評1995‐2006。絶筆となった壮絶な闘病記(「私の読書日記」週刊文春)を収録した最初で最後の書評集。【この読書日記が収録されている書籍】打ちのめされるようなすごい本 / 米原 万里打ちのめされるようなすごい本
「ああ、私が10人いれば、すべての療法を試してみるのに」。2006年に逝った著者が最期の力をふり絞って執筆した壮絶ながん闘病気を収録する「私の読書日記」(「週刊文春」連載)と、1995年から2005年まで10年間の全書評。
ロシア語会議通訳・エッセイスト・作家として活躍した著者の、最初で最後の書評集

米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日(56歳没))は、日本のロシア語同時通訳、エッセイスト、ノンフィクション作家、小説家。
少女期をプラハで過ごす。ロシア語の同時通訳で活躍。また、異文化体験を綴った文筆家としても知られる。著作には『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』(1994年)、『魔女の1ダース』(1996年)、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)、『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年)などがある。

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没後10年、妹が語る米原万里。「姉はいつでも個性的だった」

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