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村上隆の「SHOGUN」から教えられた日本ジャポニズム
この時代にこそ日本画傑作「洛中洛外図」、「風神雷神図」を描いて現代社会に問い掛ける意味があると画家「村上隆」が日本社会にテーゼした。
2025年01月20日 記事
この超日本画家「村上隆」については、賛否両論がいまだに問われるという稀有な存在の画家だとおもう。その最大の理は日本人らしくない今どきの破天荒と、その作風が漫画チックであるし、それがまた海外の日本アニメブームとマッチして、外から脚光を浴びるという、時代の寵児といってい日本画家のようだ。それにつて異論があるだろうか。(そう、雑多な異論があるからこそ村上の真骨頂であるし、多分、それを彼は肥しとして肥沃しているのだと思う)
村上隆の本が随分前に出ているが、当然、その本も私は読んでいる。その後、本らしきものは出していないと記憶する。その本音ともとれる村上の反論、「だったらあんたらも~やればいい」、と。
村上隆が英紙に語る「日本画の傑作を現代に描き直すということ」
アニメに受け継がれる「琳派の技術」 クーリエジャポン 7min2025.1.19
2024年、京都市京セラ美術館で村上隆の個展「村上隆 もののけ 京都」が開催された。ここで展示された作品の多くは、現在ロンドンで開催中の彼の個展で見ることができる。これを機に、英紙「ガーディアン」が村上にインタビューをおこなった。
なぜいま、「洛中洛外図」や「風神雷神図」を描こうと思ったのか。テレビドラマ『SHOGUN 将軍』を見て感じたこととは──。
Photo: Kristy Sparow / Getty Images Finn Blythe 2025.1.19
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きっかけは『SHOGUN 将軍』 画像ギャラリーガーディアン(英国)ガーディアン(英国)
それはたしかに京都なのだが、我々の知る京都とは違う。桜の景色と金色の寺社は忘れよう。村上隆によるこの巨大な新作をじっくり眺めると、そこにたなびく雲には漫画風のどくろが浮かび上がる。
村上いわく、それは古代からある京都の葬送地、鳥辺野を意味しており、また彼にとっては戦後日本の幽霊たちを呼び覚ます重要なモチーフらしい。
「観光客にとって美しかったり楽しかったりするのではない京都を、どうしても描いてみたかったんです。京都の芸術や文化は、実におどろおどろしい歴史的・政治的闘争の文脈において育まれてきたことを表したくて」と村上は言う。
62歳になる彼は、どうして自国の残酷な歴史を掘り下げようと思ったのか?
そのきっかけのひとつに、彼がごく最近ハマったテレビドラマがあった。『SHOGUN 将軍』である。17世紀日本の封建社会における派閥闘争とヨーロッパの介入を描いた物語は熱狂的な支持を集めたが、2025年3月までロンドンのガゴシアン・ギャラリーで開催される村上の展覧会「ジャパニーズ・アート・ヒストリー・ア・ラ・タカシ・ムラカミ」にも大いに影響を与えたようだ。
「『SHOGUN 将軍』は日本人にとって、とても新鮮な視点から作られていました」と村上は言う。
「たとえば切腹の場面は、政治的・精神的な意味にしっかり結びつけて描かれています。切腹する人たちはそれぞれ辞世の句を遺しますが、最近の日本人監督だったらこの場面は入れないでしょう。それで、昔ながらのテーマや物語も、まったく新しい視点からアプローチできると気づいたんです」
『SHOGUN』は国際秩序が崩壊しそうな現代世界に教訓を与えた
世界的成功への道
村上はこの30年間、昔ながらのテーマに対する新鮮な視点を探しつづけてきた。1962年に東京で生まれ、東京藝術大学在学中にアニメーションから日本画研究へと転向。その後、1994年に奨学金を獲得し、MoMA PS1(クイーンズにある現代美術専門の美術館で、2000年よりMoMAと合併)の国際スタジオプログラムに1年間参加した。ニューヨークでは、アンゼルム・キーファーのモニュメンタリズムやジェフ・クーンズのスリーク・シミュラークルに感銘を受けた。西洋美術市場の基準に適応する道を模索した村上は、日本美術史に関する独自の先駆的探求を作品として発表していった。
2000年に「スーパーフラット」の概念を提唱することで、村上は「ハイアート」と「ローアート」のヒエラルキー構造を、西洋からの輸入概念であるとして批判しつつ、崇め奉られてきた歴史的傑作と現代のアニメをつなぐ美学的系譜を肯定することで、両者を分ける概念的な障壁を取り払った。
この活動は村上に世界的な大成功をもたらした。カニエ・ウェストの2007年のアルバム『グラデュエーション』のカバーアートを手がけて以来、ドレイク、エイサップ・ロッキー、そして最近ではビリー・アイリッシュや故ジュース・ワールドなど、ミュージシャンとのコラボレーションも続いている。
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村上の巧みなブランディングは、ファインアートと一般消費財の区別を消滅させつつ、新たなテクノロジーの受容によって(また、変なかぶり物趣味も相まって)若いオンライン世代のオーディエンスにも人気を博している。
2002年、ルイ・ヴィトンのハンドバックのデザインに、村上の絵がはじめて用いられた。このコラボレーションは大変な成功を収め、現在も続いている。また村上は、シュプリームやユニクロ、クロックスなどともコラボしている。
村上版「洛中洛外図」
日本の最も有名な現代アーティストの一人である村上だが、注目を集めるのはもっぱら海外においてである。京都にある京セラ美術館で2024年に開催された個展が、日本ではおよそ10年ぶりとなる展覧会だった。
ガゴシアン・ギャラリーでの展覧会に出品される作品の多くは、京セラ美術館での展覧会でも展示されたものだ。この日本での展覧会では、江戸美術のなかでも最も人気のある傑作群に対する村上的解釈が提示されている。
なかでも目玉となるのが、国宝「洛中洛外図屏風」の村上版(日本語題「洛中洛外図 岩佐又兵衛 rip」)だ。オリジナルは17世紀の画家、岩佐又兵衛によって1615年に発表された六曲一双の屏風絵で、当時新たに都市化した京都における人々の日常を、細部まで精巧な鳥瞰図として描いている。
オリジナル作品に対する村上の野心的な応答は、はじめはただのレプリカにも見える。しかし、じっくり観察してみると、村上が途切れることなく生み出してきた愉快なマスコットキャラクターたちがあちらこちらに見え、オリジナルとの差別化がなされている。最も顕著な違いは一双を通じてたゆたう金箔の霧で、各所に描かれた情景を、それぞれ小さなヴィネット(輪郭をぼかした風景)として切り取っている。
めったに妥協を許さない村上だが、この作品も全幅13メートル超えの大作で、又兵衛のオリジナルの4倍の大きさだ。先に述べたように、京都がいまほど美しくなかった時代を呼び起こすどくろたちは、この霧のなかに描かれている。
江戸の絵師たちと現代のサブカルを繋ぐ
このような「トラウマを内面化する力」は、日本のオタク・サブカルチャーが持つ重要な側面だ。「オタク」とは、家に引きこもりがちな、アニメ、漫画、ゲームの熱心なファンを指す言葉である。
これらのサブカルチャーにおいては、逆説的に「かわいい」と「終末論的世界」が共に増殖し、戦後的トラウマから逃避しつつも対峙しなければならない必然性を体現する。だが、日本で生まれたと考えられているこの「オタク」概念は、日本占領期における米国の文化帝国主義にその起源を持つ。
かつては気鋭のアニメーターであり、現在も熱心なアニメコレクターである村上にとって重要だったのは、オタク文化の二次元的・平面的な視点に、江戸の絵師たちとのつながりが見えることだった。
村上の分身としてたびたび登場するキャラクター「DOB君」は、ソニック・ザ・ヘッジホッグとドラえもんのキメラ的合成物のようでもあるが、彼を用いることで村上はその美学的祖先たちの傍にオタク文化を位置づけ、日本美術300年の歴史を単一の平面に圧縮してみせる(ゆえにそれは「スーパーフラット」と呼ばれる)。
この点において、村上の思想はその多くを高名な日本美術史学者にして江戸文化専門家である辻惟雄に負っており、村上は辻を「先生」と呼ぶ。1970年に発表された画期的著作『奇想の系譜 又兵衛―国芳』によって、辻ははじめて江戸の絵師たちと現代のアニメーターたちを結ぶ系譜を確立した。
2009年から2011年にかけて、辻と村上は日本の貴族の娯楽であった「絵合わせ」(絵画コンテスト)を復活させ、辻が歴史上の作品をお題として提示し、それに村上が新作で答えるという試みがなされた。
ガゴシアン・ギャラリーの展覧会では、この絵合わせ企画を模して、村上流「風神図」「雷神図」(2023-2024)を出品している。これまでも屏風絵として描かれてきた不朽の題材で、江戸時代には俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一といった琳派の絵師たちが歴史的傑作を残している。
「宗達の『風神雷神図』が制作されたとき、日本は戦国時代で、肉体、筋肉を誇張する中国の美術形式が入ってきたばかりの頃でした」と村上は語る。
「これをいま描くにあたって、現在の美学的トレンドを意識せざるを得ず、私は『ゆるキャラ』、つまり日本中に遍在する可愛らしいマスコットたちのことを考えました。こういうキャラクターをもてはやすのは、日本文化のかなり独特な面なので」
ゆるキャラの生き残りをかけた「仁義なき戦い」
魅かれるのは常識にとらわれない人々
「かわいい」カルチャーの幼稚化効果や、戦後日本の米国への追従に意識的な村上は、対となる神々を優しげかつ情けなく描きなおし、その筋骨隆々たる祖先たちの遥かな嘆きを表現する。
とはいえ、同展覧会の作品に多用される金をここでも用いたことで、同作は琳派の伝統に対して、確かな敬意も示している。
「絵の表面に金箔を貼ると、絵画空間が閉塞した感じになるんです。こういう背景にキャラクターを描くと、キャラクター自体が目立ってしまって、ちょうどいいバランスを見つけるのが本当に難しい。琳派の絵師たちは金箔の背景とキャラクターの関係を常に考えていたんですね」
これらの画面を圧縮するような構成技術が、金田伊功、大友克洋、宮崎駿といった日本の伝説的アニメーターたちの作品に受け継がれていると村上は見ている。
彼らは琳派や他の江戸絵師たちのエキセントリックで非慣習的なスタイルに倣うだけでなく、遊び心をもって人間や動物の姿を表現主義的に歪ませる傾向があり、それは12世紀の平安絵巻にまで遡り見出すことのできる、際立って日本的な感性を反映しているのだという。
古典日本画の分野で博士号まで取得しながら、村上は自身を優れた絵師とみなしたことはなく、こうした常識にとらわれない反体制派たちに親近感を覚えるそうだ。
「琳派の絵師たちが作品制作のノウハウについて、どんな指導書やガイドラインを参照していたのかずっと考えてきました。つまり、学び習うための素材ですね。しかし、仮にそういうものがあったとしても、絵師それぞれが違いを生み出す癖や個性を持っており、実際にはそうしたものこそが彼らに対する理解や尊敬を形作ってきたのです」
6年前にロンドンのガゴシアン・ギャラリーで村上とコラボレーション展覧会を開催したルイ・ヴィトンの元アーティスティック・ディレクター、ヴァージル・アブローは、村上と同じく自由な精神を持った開拓者だったが、2021年に亡くなった。筆者がアブローにインタビューした際、彼は村上を「世界で唯一、私よりハードに働く人間」と評していた。
62歳になり、このアーティストはペースを緩めることを考えたりしないのだろうか?
「もう考えてるかも」と村上は言う。「まだいろんなプロジェクトを進めているところで、制作中の作品もたくさんあります。でも実のところ、最近はこれまでにないほど寝てるんですよ」
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●今作の全面アートワークをプロデュースするのは、カニエ自身がファンだったという、世界のトップアーティスト=村上隆氏によるものに。第一弾ストリート・シングル「キャント・テル・ミー・ナッシング」、そしてダフト・パンクの楽曲をサンプリングしたオフィシャル・ファースト・シングル「ストロンガー」ともに、村上氏のアートワークを使用。「ストロンガー」のビデオ(ハイプ・ウィリアムズ監督)は、2007年初頭に東京新宿で撮影されたシーンをメインに作られ、カタカナでこの楽曲の一部字幕が入るなど、“日本”のカルチャーが取り込まれており、世界のカリスマ・プロデューサーがどれだけ“日本”の芸術に惚れこんでいるか?が伺える作品となっている。
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