頼朝の東国泰平を祈願.1
上総国の歴史変遷 伝承説話.2 上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)
「自著ブログ・垣内恵美子一部抜粋」~826年、
天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子である。
※仲野親王(なかのしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の第十二皇子。
宇多天皇の外祖父。官位は二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。上総広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。
「上総介広常」の呼称が広く用いられる。房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。
上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。
上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。
※甲冑「萌黄縅胴丸」(もえぎおどしどうまる)一宮町指定文化財 有形工芸品 画像とは別
かつて上総権介広常が源頼朝の東国泰平を祈願した願文をそえ、玉前神社に甲冑一式を寄進した(戦国末期の戦乱により焼失)故事に因み、天保14年(1843)、一宮藩主加納久徴が寄進したものと伝えられる。
その縁で長い間、甲冑「萌黄縅胴丸」を保管していたのが上総国一宮玉前神社である。
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。大社1社は、名神大社である。
埴生郡玉前神社 (長生郡一宮町一宮) - 名神大社長柄郡橘神社 (現 橘樹神社、茂原市本納)海上郡島穴神社 (市原市島野)姉埼神社 (市原市姉崎)望陀郡飫富神社 (現 飽富神社、袖ケ浦市飯富)総社・一宮以下総社 戸隠神社 (市原市惣社) - 鎮座地名が「惣社」であることから、総社であったと推定されるが未詳一宮:玉前神社二宮:橘樹神社三宮:三之宮神社このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。
中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。学問的見地で捉えた上総地方玉前神社文化政策の基礎知識――国は文化にどう関わるのか?
垣内恵美子 / 文化政策 SYNODOS 2015.05.15 Fri
日本に文化政策はあるのか。そういう疑問をお持ちの方も多いと思う。
文化は大切であるという一般論には多くの方が賛同されるだろうが、実際の範囲や価値となると人によって考え方に大きく違いがある。
また、文化の多くは、必ずしも市場で成り立つわけではなく、何らかの支援が必要だということになるが、一方で、自由な表現である文化活動にそもそも支援が必要なのかという疑問もある。芸術家はハングリーでなければならない、というわけだ。
また、支援が必要であるとしても、誰の負担で、どこまで、どのようなかたちで支援するべきか、といった様々な論点が出てくる。ここでは、日本の文化政策に関し、実際に何を目指して、どのようなことを、誰が行っているのかを簡単に紹介し、課題や方向性について述べたい。
わが国における文化政策の歩み 公共政策とは、国や地方公共団体などの政府機関が、なんからの政策目的をもって行う行為である(もちろん、何もしないという選択肢も含まれるが)。
文化政策もまた、文化を守り育て、次世代に継承していくことを目的とした公共政策であるといえる。
日本において、国による文化政策がもっとも強力に行われたのは、おそらく明治維新の後であろう。
当時、植民地化を避け、西洋列強諸国にキャッチアップするため、西洋文明の導入が急ピッチで進められた。文明開化と呼ばれるこの動きのなかで、西洋にルーツをもつ芸術もまた積極的に取り入れられた。現在使われている「文化」は「文明開化」に由来する造語であるとも言われている。
実際、この影響がいかに大きかったかは、今日ほとんどの日本人が西洋音階を理解し、30を超えるプロフェッショナルオーケストラが日本で活動していることからもわかる。
一方で、開国後待ったなしで行わなければならなかったのは、固有の伝統文化の保護だった。優れた美術品の海外流出に歯止めをかけるために、守るべきものをリストアップすることから始まった文化財保護は、廃仏毀釈によって荒廃した寺院などへの支援、史跡や天然記念物の保護といった独自の展開を遂げ、現在の文化財保護法とその体制につながっていく。
第二次世界大戦後、日本は、平和で文化的な国家の建設をスローガンに掲げたが、実際には経済的な発展に邁進した。戦前の文化に対する国家検閲の反省もあいまって、文化に関わる政策はきわめて控えめなものであった。
それでも、経済社会の大きな変化のなかで、人々の意識も大きく変わっていった。 モノの豊かさよりも心の豊かさを求める人々が多くなるのは1980年代以降であり、各地にミュージアムや劇場などの文化施設が地方自治体によって建設された。ハコモノ批判も根強いものの、公の施設を民間の能力も活用して運営し、住民サービスの向上や経費縮減を目指す「指定管理者制度」の導入を契機に、効率的な運営の試みが進んでいる。指定管理者制度については、現場での批判も強いが、住民サービスの視点が明確化されたことは、今後、文化施設が地域連携を進める上で重要なことであろう。
一方、文化財保護に関しては、戦前の仕組みを統合して、世界的にも先進的な制度を構築した(文化財保護法:1950年制定)。例えば歌や踊りなどの無形文化財を保護するために、「わざ」を体現している人をいわゆる人間国宝(保持者)とすることで、そのわざを次世代に繋げようとした。この仕組みは、その後の無形遺産条約の成立にも大きく貢献した。また、文化財は現状変更を許さない保存が基本だが、近年では、歴史的な建物について、外観を中心に保存し、建物内での人々の生活や生業と折り合いをつけながら、文化財として保護する仕組みも出来てきた(重要伝統的建造物群保存地区など)。
文化芸術振興基本法による政策対象の明確化 公共政策には、一般に、政策目的を達成するため、規制や助成、指導、直接給付(例えば国立の劇場やミュージアムでサービスを提供するなど)といった様々なツールが用いられるが、最強ツールは法律である。 従来、文化政策の分野では、著作権法や文化財保護法などの個別法があったが、とくに芸術文化活動の振興に関しては財政的な支援で対応してきた。
しかしながら、例えば教育政策に教育基本法があるように、文化政策にも、目的や対象分野、国や地方公共団体の役割といったことを明らかにする基本法の必要性が指摘されていた。 このような基本法が成立するのは、21世紀に入ってからである(文化芸術振興基本法、2001年)。この法律は自民党から共産党まで、超党派の議員連盟が中心となって制定され、ここに至り、政策としてのかたちを整えることになった。(部分抜粋)
■資料自著ライブドアブログ~
画像 甲冑渡辺美術館