パラノイアという偏狭性(自称空想家)
空想家(fancy 空想, 愛好, 好尚, 移り気、別名imagineなど)
パラノイア
統合失調症に近い病気で、特定の妄想をもっている以外はなんの異常もみられない状態をいいます。 つまり、妄想はもっていても、そのことに触れなければ人とのコミュニケーションは正常であり、行動面の問題もありません。 妄想には、迫害妄想、宗教妄想、血統妄想、恋愛妄想などがあります。
の意味・使い方・読み方 - 英辞郎 - アルク
偏執病(へんしゅうびょう、偏執症)、パラノイア(英: paranoia)は、 不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分を批判しているという妄想を抱くものを指す .パラノイドは精神病ですか?
接触欠損パラノイド(Kontaktmangelparanoid)は,1973年にJanzarikによって提唱され,60歳以降に初発し,慢性統合失調症の症状を示す妄想性精神病である. 接触欠損パラノイドは,社会的に孤立した状況で発症し,住宅境界に関連した妄想主題,女性に多くみられること等を主な特徴とする.
いろいろ、それに関する名詞の意味をChatGPTでなく、Google教授とか、町の物知りに訊いてみました答えが、それです。
ええ、わたし何を隠そうパラノイア(ライブドアブログ名)であったりfancy、imagine、またparanoiaを自認してますが、表面上はいたって普通だし、突然奇声を発したりすることは在りません。
ただ、世の既成――事実にたいして異常な反逆論者で、そんなタイプがパラノイア、と思ったので、好んで使っている、そんなことです。
昨日は、「ナルト巻」アニメの話で全編、語りましたが、ぶっちゃけ過去最高記録PVを達成しましたので、ご報告申し上げます。
といってもですね、受け狙いミエミエですから、内心感心しませんでした。
それで思ったのは、「カネがほしけりゃ世間に忖度しろ」という社会の一定の価値観はゆるぎないということのようです。
そうした一定の基準が社会を支配しているとすれば、おのずと、ビジュアル視野の対象物も人間の都合のいいように変化するということです。その極端な例が、東京都会街並み景観で、まったく統一性がない。
またあったとしても高層マンションだとか、テナント高層ビルで、カネ余り投資の対象として林立しているのです。(中国はそれに特化)
その、パラパラ感はなにかといったら、ヨーロッパ地中沿岸漁師村の白壁がモデルで、それと比較したら統一性がない、というこれまたその比較対象の基本理念が不純で、個人としては許しがたい。
その高層ビルにしたって、その原資はイタリアピナツボ火山爆発の火山灰が原料になって、その世紀の「コロッセオ紀元80年」が出来ている。そんなこと知る必要もないのですが、ユークリッド幾何学の投影図て描かれた、その東京ビルの高さ、とは何を基準にきめているのでしう。
もしかして、過去の地震データ実績を基にコンピーター積算算出しているのでしょうが、そんなこといったら東日本震災原発崩壊事故、は起こらないハズ、でした。でも津波はもろに福島を襲った。
そんなことをいろいろ考えると、じゃ千年前、2千年前の風景をわれわれは、想像(イマジン)できるでしょうか。
まず第一に、スケールの問題があります。天まで届くビル高層というのがありますが、それを100棟作るのは不可能でしょう。
そして現世を投影している自然物の草木(ミクロ昆虫も)のサイズというのは、昔も今もおなじか、という疑問があります。
端的にいって、見たこともない巨木樹は、どこかの密林に存在する、というのは否定できません。
今のところ千年杉、縄文杉(一万年)は確認されてますが、恐竜時代1億年前の巨木は石炭となった、という説ですが、それを唱えたのか西洋史家ですから、都合のいい解釈して自己利益を図るという歴史は、今では暴露されているのです。
もしそんな誇大妄想が現実に、ある場所に存在していたら、これは人類史の書き換えが必要です。
そうなると、人間のサイズとかペットのサイズ、勿論、樹木年数1億年樹があって発見されたら、火星人云々のはなしどころではありません。
ニッポンアニメ
それで今日は、その受け狙いの「アニメ」後編ですが、先鞭は「ウォルトディズニー」ですから、それをスルーすることは出来ません。一通り、解説しますが、そこから日本漫画が育ったのは云うまでもありません。
それで世代的には、そのディズニー映画を学校授業の一環としてみたのを覚えています。アメリカのした一種の洗脳教育なのでしょう。
そこから生まれたのが「鉄腕アトム」(手塚治虫)であることは周知の事実です。また、枝葉的に分かれたのが宮崎駿監督とかドラゴンボールでした。そして昨日の「ナルト」ですが、今どき完結しているのにフランスでバカ受け、というのは、その海賊版の効用もあって営業的には、痛しかゆし、という話しでした。
そんなことを「fancy」系で考えると、もしかして、その映画のコンセプトは、私が今までここに書いてきた「小津監督」映画のガリ謄写版ハブではないのか、そんな気がしました。
そのきめ細かいディテール描写は、ミッキーやダックも白雪姫にはないし、仮想ファンタジ―という画としては夢心地ですが、リアルな生活感を感じさせない。
換言すると「東洋的」エキゾチック風が受けているかもしれませんが、それにしても、その媒体を支えているのが、小津映画など、金輪際縁がない、また「ナルト」巻が何かを知る必要もない。
これを一口に換言すると「世代交代交換」なにりますが、そこには人智及ばざる、芯が、それを訴えるのでしょう。
また一歩引いて、分析するなら西洋的思考の詰まり、また東洋神秘のほんの一部を覗いてみたZ世代の驚き、みたいなものがあるような気がします。
もしそうだとしたら小津監督の描いた起伏のない日常生活白黒映画は、世界の人の精神共通項に訴える力がある、そう結論されます。
2024年02月18日 記事
日本の漫画「アトム」
鉄腕アトム(手塚治虫)
アトム
声 - 清水マリ(第1・2作)、田上和枝(清水マリの産休の代理で第1作97-106話のみ)、津村まこと(第3作)、上戸彩(ハリウッド版)、村川梨衣(ろぼっとアトム)、朴璐美(GO!GO!)、日笠陽子(PLUTO)
アトムは初登場の作品である光文社の雑誌「少年」連載の漫画『アトム大使』では脇役だった。その作品自体の人気も今ひとつであったが、『少年』編集長の金井武志は「弱さや人間らしい感情のあるロボットを主人公にすれば読者に受け入れられる」と手塚に提案し、アトムを主人公として設定を少し変更した上で描かれたのが本作である。
アトム大使連載最終回には、次号からは「鉄人アトム」がはじまりますと予告されていたが「鉄腕アトム」になった。
原作の公式設定では、2003年4月7日がアトムの誕生日とされる。製作者は天馬博士。交通事故死した博士の息子の「天馬飛雄」に似せて作られ、当初は「トビオ」と呼ばれていた。
トビオは、人間とほぼ同等の感情と様々な能力を持つ優秀なロボットであったが、人間のように成長しないことに気づいた天馬博士はトビオをサーカスに売ってしまう。
サーカスにおいて団長に「アトム」と名付けられる。やがて法律が制定されて感情を持つロボットに対して人間と同等に暮らす権利が与えられるようになると、アトムの可能性に着目していたお茶の水博士に引き取られた。そして情操教育としてロボットの家族と家を与えられ、人間の小学校に通わされるようになる。学校での生活は、同級生達と紆余曲折しながらも仲良くやっている。
性格は真面目で正義感が強く、困窮した者には自身を犠牲にしてでも手を差し伸べる優しい心を持つが、時にロボットである自分に苦悩や葛藤することも多い。
また「アルプスの決闘の巻」では複雑な感情を抱けない(芸術や自然への感動や恐怖心がない)という劣等感から、お茶の水博士に人造心臓を取りつけてもらって人間と同レベルの感情を一時的に得たことがある(その後両親をさらった敵との戦闘で恐怖から体がすくんで手も足も出なくなったため、ケン一によって人造心臓を破壊された)。
誕生日の4月7日は本作の連載が始まった「少年」の発売日であった。
原作では、「ミーバの巻」(1966年9月号 - 12月号)での天馬博士のセリフなどに誕生日についての記述がある。連載当時と小学館ゴールデンコミックス版では2013年4月7日と記載されており、朝日ソノラマサンコミックス版以後2003年4月7日に改められた。アニメでも第1作目は誕生から約1年後に「ロボットC3号(俗称トビオ)」として売られた日が2001年11月、アニメ第2作は2030年に誕生など設定に違いがある。
アトムの赤い靴はアニメ第2作では名付け親であるロボットサーカスの女の子ロボットのキャシーから譲られ、最終回では形見代わりにニョーカの足が移植されている。
物語の中では苦労して市民権を得たが、現実の2003年4月7日、アトムはお茶の水博士を世帯主として手塚プロの所在地である埼玉県新座市の市民に登録され市役所の前でアニメキャラクターとしては初のアトムの特別住民票が配付された。
アトムの髪型は、作者である手塚のくせ毛がモデル。アトムの特徴はMighty Mouse(マイティ・マウス)を元にしており、英題もMighty Mouseに倣って「Mighty Atom」としている。また、『少年』連載時には手の指は4本で描かれることが多かった。
アトム大使での設定
『アトム大使』の物語では、我々が住んでいる「地球」とは別の、もうひとつの星「地球」の人々が、その星の大爆発によりロケット団で宇宙を長く放浪して偶然に我々の「地球」を発見して着陸したが、どちらの地球人もよく似ており、はじめは友好的関係を保って生活をした。しかし、食糧問題などを心配した「もともと地球に住んでいる地球人」が「宇宙を渡ってきた地球人」と対立(反対派の頭目は天馬博士)。
「地球に住む地球人」のロボットであるアトム(天馬博士のロボット)が両側の間に入って交渉して宇宙人の代表に対して誠実さの証しを見せるための自らの頭部を差し出したことで対立は収まり(天馬博士は自分の作ったクスリでゴミのように小さくなってしまう)、地球人と宇宙人は半分ずつ金星に飛び立つという物語。
なお、最後にお礼として、アトムは「宇宙を渡ってきた」地球の人々から大人の顔を貰う。
ミッキーマウスのミッキー著作権
2024年1月1日より「ミッキーマウス」が著作権切れに。『蒸気船 ...
2024年1月1日(月)よりディズニーの人気キャラクター「ミッキーマウス」と「ミニーマウス」の著作権が切れ、パブリックドメインになる。 ただし、注意すべき点として今回権利が終了するのは『蒸気船ウィリー』や『プレーン・クレイジー』といった1928年に公開された短編映画に登場するミッキーマウスのみ。2023/12/28
ウォルト・ディズニー・スタジオ
1923年にディズニー・ブラザース・カートゥーン・スタジオとして設立され、1926年にウォルト・ディズニー・スタジオと改名、1929年にウォルト・ディズニー・プロダクションとして社名変更した後、1934年に長編映画の制作を開始し、1937年には世界初の長編アニメーション映画である『白雪姫』を公開した。1986年、大規模な企業再編の中で、唯一のアニメーションスタジオから国際的な複合企業に成長したウォルト・ディズニー・プロダクションは、他の部門と区別するためにウォルト・ディズニー・カンパニーに改称され、アニメーションスタジオはウォルト・ディズニー・フィーチャー・アニメーションとなった。現在の社名は、2006年にピクサー・アニメーション・スタジオがディズニーに買収されたことを受けて、2007年に採用されたものである。
多くの人にとって、ディズニー・アニメーションはアニメーションの代名詞であり、「一企業のやり方が、これほどまでに圧倒的なまでに芸術的な価値を確立したものは、他にはない」と言われている。
ディズニー・アニメーションは、設立以来、アメリカのアニメーションスタジオの最高峰として認められ、「何十年もの間、長編アニメーションにおいて、誰もが認める世界のリーダー」であり、手描きアニメーションの定番となった多くの技術、手法、コンセプトを開発した。
また、同スタジオはストーリーボードの手法を確立し、現在ではアニメーションと実写の両方の映画製作で使用される標準的な手法となっている。ミッキーマウス、ミニーマウス、ドナルドダック、デイジーダック、グーフィー、プルートといった短編アニメーションの主役たちは、今や誰もが知っている人気のキャラクターであり、ウォルト・ディズニー・カンパニーのマスコット的存在となっている。
同スタジオの映画『アナと雪の女王』(2013年)、『ズートピア』(2016年)、『アナと雪の女王2』(2019年)はすべて、歴代興行収入ベスト50に入っている。『アナと雪の女王2』は、歴代アニメーション映画で2番目に高い興行収入を記録した。 また、任天堂とイルミネーションの『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(2023年)が公開されるまで、アニメーション映画として史上最高の世界オープニング興行収入を記録した。
2013年までに、同スタジオは手描きアニメーションの長編映画の制作を終了し、手描きアニメーション部門の大半を解雇していた。しかし、同スタジオは、将来の手描きによる長編プロジェクトについて、クリエイターからの提案に応じると述べている。
1929年–1940年 再編成、シリー・シンフォニー、白雪姫
1929年、ディズニーとパワーズの間で金銭的な問題が生じ、ディズニーのアニメーション制作会社は1929年12月16日にウォルト・ディズニー・プロダクションとして再法人化し、新たにコロンビア ピクチャーズと配給契約を締結した。パワーズはその見返りとしてアブ・アイワークスと契約し、彼は自分のスタジオでアニメーションを制作し始めたが、1940年にディズニーに復帰することになる。
コロンビアは、1932年にユナイテッド・アーティスツと新たな配給契約を結ぶまでの2年間、ディズニーの短編映画を配給した。同年、ディズニーはテクニカラーが新しい3色分解フィルムを使い、従来のカラーフィルムでは不可能だったフルカラーの再現を可能にする2年間の独占契約を締結した。その結果、全編テクニカラーで公開された最初の短編アニメーション映画として、シリー・シンフォニー・シリーズの「花と木」が完成した。
『花と木』は大成功を収め、その後、すべての『シリー・シンフォニー』はテクニカラーで制作されるようになった。
日本の映画と比較
1930年代初頭までに、ウォルト・ディズニーは、アニメーション映画の成功は、観客を掴んで飽きないような、感情移入できるストーリーを語ることにかかっていることに気づき、ストーリー開発に専念するストーリーボード・アーティストを集めた「ストーリー部門」を創設することになった。よく練られたキャラクターと興味深いストーリーで、1933年のテクニカラーのシリー・シンフォニーの「三匹の子ぶた」は興行的にも世間的にも大成功を収め、主題歌「狼なんかこわくない」は人気チャート入りするほどのヒットとなった。
低迷
1989年-1994年 ディズニー・ルネサンスの始まり、作品の成功、アニメーション業界への影響
1994年-1999年 ディズニー・ルネサンスの終焉、低迷期の再来
1999年-2005年 スランプ、人員削減、CGアニメーションへの転換、企業問題
資料ウイキペディア
以下割愛