紛紛聚訴で、すべて丸く収まる
それで万事、旨く行く日本的体質
「汚職」というよりそれ以前の日本人的体質・・・
それを「悪質」というなら「日本メディア」以下、国民総懺悔
「何で今ごろそれを蒸し返すのか?」、と大多数の意見は、当然だとして、では、当時のオリンピックに賛同して付和雷同した1億2千万の人は、何か悪いことでもしたかという自虐というか自問は、やはりぬぐえないだろう。
かくいう私にしたって一介の市民の分際で、「それみたことか、いわんこっちゃないだろう」という斜に構えた意見は百でも千でもいえる。
それで、いざ「2020年オリンピック」始まってしまうとサーフィン会場(千葉県一宮町海浜)に決定されたとき、もろ手を挙げて歓んだのは私以外にも沢山いたし、当然の成り行きとして、その潮流に抗えないという社会性がある。
もちろんその当時「東京五輪の“黒幕”」がいた、なんてことは誰もしらない。
また端折って云ってしまえば「参院選7月10日」応援演説の現場に「安倍氏」が立たなかったなら、この一連のスキャンダル(オリンピック疑獄事件)は、もしかして、なにもなかった、ことになったのだろうか、という一抹の不安と疑問。
そんなことを短絡的に結んでしまうと、そのパラドックスとして、それを封じることで、誰が利益を得るか、という昔ながら「歴史転換」が見え隠れする。
再三いうように、タラレバ論的に、もしそーうだったら結果はこうなった、といういつもの舌鋒になるが、いわゆる仮説また推理小説プロットとしては、幾千のパターンが書けることになる。
五輪汚職で強制捜査! 電通元専務・高橋治之氏「力は森喜朗氏より上」の素顔…本社ビルで「天空のフレンチ」仰天副業 SmartFLASH/ 2022年8月1日 6時0分
画像 組織委員会の理事会に臨む高橋氏(中央)。森喜朗氏と(写真・共同通信)
そのレストランは、大手広告代理店・電通本社ビル(東京都港区)の46階にあった。高さ200mという“汐留の天空に浮かぶがごとき”絶景から、オーナーは「ソラシオ汐留」と名づけた。「蒸しアワビのステーキや、ごま豆腐の上にフォアグラのソテーを乗せたメニューが人気の本格フレンチでした。午後8時30分には東京ディズニーランドの花火が見え、カップルにも人気でした」(店を利用したことのある客)
じつは「ソラシオ汐留」のオーナーは、電通の元専務である高橋治之氏(78)だ。高橋氏は、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会理事だった2017年、大会スポンサーで紳士服大手のAOKIから、4500万円のコンサルタント料を受け取っていたことが発覚している。
「社内では現在も東京地検による事情聴取が続き、関連部署ではパソコンや携帯、関係書類などをごっそり押収されたといいます」(電通関係者)
2002年、「ソラシオ汐留」はビルの開業とともにテナントとして入っている。
当時は一介の常務でしかなかった高橋氏が、なぜ自社ビルで“副業”に勤しむことができたのか。そして、いかにして東京五輪の“黒幕”となったのかーー。
「高橋さんほどスポーツ業界に国際的な人脈を持つ人物はいない。五輪関係者だけではなくMLB、FIFA、PGAと多種多彩で、誰もが頭が上がらないのだろう」
そう語るのは、高橋氏を古くから知る電通OBだ。高橋氏は1970年代からスポーツビジネスに携わり、サッカー界で“王様”と呼ばれたペレの引退親善試合を日本で開催。主催する日本サッカー協会に大きな収益をもたらし、信頼を勝ち取った。
「とんとん拍子で出世できたのは、“電通の天皇”と呼ばれた成田豊さんから高評価を得たことが大きかった。
当時は成田さんの出身部署である新聞局が出世コースで、先行投資が必要だった事業局は、あまり評価が高くなかった。しかし高橋さんは、たとえばサッカー日本代表がアディダスやキリンと大口の契約を結ぶなど、スポンサー料を先に取る手法を確立したんだ」(同前)
高橋氏の“集金能力”は、日本オリンピック委員会(JOC)にとっても願ってもないものだった。「JOCに電通が食い込むきっかけとなったのが、1980年のモスクワ五輪を前に始まった『がんばれ!ニッポン!キャンペーン』です。選手の肖像権を利用して協賛金を獲得し、それを選手の強化費にまわすキャンペーンで、万年資金不足だったJOCにとっては、このうえなくありがたいものでした。これを主導したのが高橋さんで、JOCの運営は電通なしには成り立たなくなりました」(電通社員)
以下割愛
昨日は、「ケネディア暗殺」を例題として書いたが、今回は政治類似例として「笹川良一」を引用して、政治が、いとも簡単に「金脈」で右往左往してしまうのか、という視点で、調べてみた。(といってもあくまで一市民の視点でありプロ職にはほど遠い)。
「笹川良一」氏は数年前までは、テレビ広告で頻繁に売名していたので、その功績をしらないものは無い。
「永田町最後のフィクサー」(笹川 堯)親父(笹川良一)親父は生きている時は大物右翼だった。
■巣鴨プリズンに収監された際に詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者及びその家族との書簡は笹川の没後に公表された。巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競走の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会(のちの公益財団法人日本財団)を創設した。ウイキペディア
安倍総理が恐れ、小池百合子は泣きついた「永田町最後のフィクサー」2018/3/2 週刊現代
この国の裏も表も知り尽くす男(笹川 堯)「顔役」なんて言われるのは親父(笹川良一)の影響じゃないかな。親父は生きている時は大物右翼だなんだってマスコミにずいぶん叩かれたからね。
でも死んだら誰も文句を言わなくなった。なぜかというと、おカネを1円も残さなかったからね。ひがみも妬みも残さなかった。日本だと政界の顔役っていいイメージじゃないよな。でも政治に熱意を持っている人間だと思ってもらえればいいんじゃないか。政治といっても年金や医療だけじゃない。
例えばスポーツ振興。俺は空手をオリンピック競技に入れた。文科省にも働きかけて中学校の学習指導要綱を変えてもらった。そうすることが青少年育成に役立つと思えばやる。経済人はおカネを提供して終わりだけど、政治家は長い目で世の中の移り変わりをみていく力が求められる。
多くの議員は辞めたら、もう自民党本部には行かないでしょう。俺は今でも元宿仁事務総長に呼ばれるから行くんだ。彼とは同郷のよしみでね。額賀派の会合もあるし、頼まれごともあるから今でも週に一度は党本部に通っているよ。(こう語るのは「笹川堯」氏。1935年東京都生まれ、父は戦後を代表する大物フィクサー笹川良一だ。'86年の衆院選で初当選。選挙区の群馬では「神」に等しい扱いを受ける権力者で、'09年引退後も政界に隠然たる影響力を持ち、永田町最後の「フィクサー」と呼ばれる。)
例えば、去年の10月の衆議院総選挙。自民党本部が山梨2区で二階派の長崎幸太郎君の出馬を認めただろう。あれでは、もともと推薦をもらって出馬していた岸田派の堀内詔子さんが困るよな。二階さんも力があるからって、ちょっとやりすぎだった。だから俺が現地に入ってひっくり返したんだ。長崎が勝つと言われていたが、蓋を開けてみたら堀内が勝った。あのとき、自民党本部は二階さんを通じて公明党に「長崎さんを頼む」と言っていたんだ。だから俺は公明党をひっくりかえす役割を果たした。
都知事選のときには小池百合子からも電話がきた。実は当時、俺は腰を痛めていて、車椅子に乗るほどだった。そんな状態だったから夜、薬を飲んで早く寝ちゃおうと思っていたの。そうしたら23時40分頃だったかな、携帯が鳴ったんだ。相手は小池百合子だった。「先生、助けて」と。「(自民党内では)誰も私を助けてくれない」って言うんだ。
「どうしたらいい?」って聞いたら、翌日に新宿西口で街頭演説するからそこに来てくれないか、ということだった。しょうがないから街頭演説しに行ったよ。自民党からは「先生、小池の応援はやめてくれ」って言われたな。森(喜朗)さんもわざわざブラジルから電話してきて「小池の応援はしないでほしい」って。
でも小池は「応援してくれ」って言ったんじゃない。「助けてくれ」って言ってきたんだ。男だったら助けないわけにはいかんだろう。もし小池が「応援にきてくれ」なんてお願いをしてきたら行かなかったね。でもあれだけ腰が痛かったのに、選挙になるとピンとしちゃうんだ。選挙カーの階段を上ったり下りたり。それでもしっかりしゃべれたから自分でも驚いた。
都知事選を制したあと、俺は小池に言ったんだ。「国政には手を出すなよ」って。でも出しちゃった。それで失敗した。去年の総選挙のあと、小池を呼びつけたら「先生、ご迷惑おかけしました」と謝っていたよ。ついでに明かすと、(自公などの推薦で立候補していた)増田寛也君も俺のところに来ていたんだ。でも彼はものの頼み方を知らない。どうしたら人の心を動かせるのかわかっていない。
中略
一日でね。角さん(田中角栄)もヘリで選挙応援に飛んでたけど、おカネを払って、運送会社から借りてたんだ。俺は自分で持っていたし、俺が乗っていたフランス製のヘリのほうがずっといいヘリだった。ヘリでよくゴルフ場にも行ったよ。朝、滋賀県のゴルフ場に行って夕方に帰ってくるなんてこともやってた。一度、軽井沢のゴルフ場に角さん、中川さん(中川一郎)、石井一と行ったことがある。中川さんが角さんに'82年の総裁選出馬の同意を得ようとしたところ、「池の鯉は跳ねても良いが、砂利の上に落ちるとスルメになるぞ」と脅して反対したのは有名な話。実はその発言はこのときに出たんだ。聞いていたのは石井と俺だけ。その帰り、角さんが中川さんに「ヘリで送っていくよ」と誘ってた。中川さんは「私はヘリは怖いんで結構です」と断っていた。後から考えると、中川さんは電車で帰ってその足で福田赳夫邸に出馬の報告をしに行ったんだね。その後、中川さんは総裁選で大敗して自殺してしまったけれど。
表も裏もいろいろ見てきた。人の一生なんてものは重い荷物を持って山道をのぼるがごとく、なんですよ。
「週刊現代」2018年2月17日・24日合併号より
■「笹川堯」来歴 笹川 堯(ささがわ たかし、1935年10月5日 - )日本の政治家。衆議院議員(7期)、国務大臣(総合科学技術会議担当)、科学技術政策担当大臣、自由民主党総務会長(第47代)、衆議院議院運営委員長(第68代)などを歴任した。 父は元衆議院議員で日本船舶振興会創設者の笹川良一。弟は日本財団会長の笹川陽平。三男に衆議院議員の笹川博義。東京都文京区生まれ。明治大学付属中野高等学校卒業。明治大学法学部に進学するも中退。1954年より全国モーターボート競走会に勤務。1956年、桐生競艇施設(現関東開発)の役員に就任した。
1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧群馬2区(定数3)から無所属で出馬するも落選。1982年5月、桐生競艇施設の全役職を辞任し、顧問相談役に就任する。1983年の第37回衆議院議員総選挙に自由民主党公認で旧群馬2区から出馬するが、次点で落選。1986年の第38回衆議院議員総選挙で、3度目の挑戦にして初当選し、旧群馬2区の3議席は全て自民党が独占した(得票数は中島源太郎、笹川、谷津義男の順。当選同期に鳩山由紀夫・斉藤斗志二・三原朝彦・村井仁・逢沢一郎・武村正義・園田博之・中山成彬・新井将敬・石破茂・武部勤・井出正一・村上誠一郎など)。1991年11月、宮澤内閣で郵政政務次官に任命される。1993年、選挙制度改革を事実上棚上げした自由民主党執行部に反発し、自民党を離党。同年の第40回衆議院議員総選挙では無所属で3選。
1994年、院内会派「改革の会」の結成に参加。その後、同じく院内会派で、日本社会党を除く当時の連立与党全党が参加した改新及び自由改革連合を経て、新進党結党に参加する。1996年の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い新設された群馬2区から新進党公認で出馬し、4選。1996年11月に新進党を離党し、翌1997年4月に自民党に復党する。自民党復党後、当時の内閣総理大臣橋本龍太郎の出身派閥である平成研究会に入会(小渕→橋本→津島派)。2000年、第42回衆議院議員総選挙で5選。同年に発足した第2次森改造内閣で総合科学技術会議担当の国務大臣に任命され、中央省庁再編に伴い科学技術政策担当大臣に任命された。2003年、自由民主党総裁選挙への立候補に熊代昭彦とともに意欲を示したが、最終的には同じ平成研究会に所属する元運輸大臣藤井孝男を支持し、自身の出馬は見送った(藤井は現職の小泉純一郎に大敗)。同年11月、衆議院予算委員長に就任。2005年の郵政国会では、小泉首相が成立に執念を燃やす郵政民営化法案に賛成票を投じる(小泉は笹川が郵政政務次官を務めていた当時の郵政大臣であり、郵政族であった笹川は郵便貯金制度をめぐって対立した)。同年の第44回衆議院議員総選挙では群馬2区で7選したが、民主党公認の石関貴史に1,422票の僅差まで詰め寄られ、石関に比例復活を許した。2007年9月、衆議院議院運営委員長に就任。同年10月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自民党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、副委員長に就任した。2008年、麻生太郎自由民主党総裁の下で自由民主党総務会長に起用され、政界入り22年目にして初めて党三役に入った。翌2009年の第45回衆議院議員総選挙では、民主党の石関に敗れ、落選。その後、フジテレビの『新報道2001』に出演した際、政界を引退する意向を表明した。
2012年11月、東京都知事石原慎太郎の辞職に伴い実施される2012年東京都知事選挙に無所属で出馬する意向を表明。13年に及ぶ石原都政を肯定的に評価した上で、石原が推進してきた五輪招致を継承する考えを示したが、大差で落選、供託金も没収された。なお、都知事選と同日に行われた第46回衆議院議員総選挙では三男・博義が群馬3区から自民党公認で出馬し、当選している。
※資料ウィキペディア
■紛紛聚訴(ふんぷんしゅうそ)多くの人が、いろいろなことを勝手にいうこと。紛は、まぎれる、まぎらわす、乱れるの意。紛紛で、入り乱れるさま。また、乱れ散るさま。