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ベルリン「ヴァルキューレ作戦」

「ワグネル」創設者、エフゲニー・プリゴジンの反乱
わずか1日で収束したプリゴジン氏の反乱は背景が判明するにつれ、プーチン政権に発生した亀裂の深刻さが増している。
スロビキン氏の「内通」を伝えたニューヨーク・タイムズの記事では、同氏のほか複数の軍高官も、プリゴジン氏に同調していた形跡があるとしていた。欧米の情報機関は、プリゴジン氏がロシア軍の一部も反乱に加わると信じ、弾薬や燃料、兵器を蓄えていたと分析している。2023/6/29(木) 17:00夕刊フジ 部分引用記事


この事象と1943年9月「ヘニング・フォン・トレスコウ少将らクーデタ準備」を比較した。

画像『ワルキューレの騎行』(ジョン・チャールズ・ドールマン、1909年)『ワルキューレの騎行』(アンリ・ド・グルー、1890年頃)

ウイキペディア

2019年10月26日記事
ヒットラー暗殺の企て
クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ(伯爵)・フォン・シュタウフェンベルク(1907年11月15日 - 1944年7月21日)
ドイツの軍人、貴族。軍における最終階級は参謀大佐(Oberst i.G.)。貴族の爵位は伯爵(Graf)。ドイツ陸軍国内予備軍参謀長を務めていた際の1944年7月20日に、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」において総統アドルフ・ヒトラーを時限爆弾によって暗殺する計画を実行したが、ヒトラーは軽傷を負うに留まった。
「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画にも失敗し、7月21日に上官の国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令により逮捕され、銃殺刑に処せられた。現在のドイツ連邦共和国においては、英雄として顕彰されている。

フォン・シュタウフェンベルクはこれ以上戦況が悪化する前に一日も早くヒトラーを暗殺してクーデタを起こし、米英と講和してソ連から守ってもらうしかドイツが助かる道はないと悟った。入院中、見舞いに訪れた母方の叔父ニコラウス・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵(Nikolaus Graf von Üxküll-Gyllenband)を通じて現在進行中のヒトラー暗殺計画(ルートヴィヒ・ベック退役上級大将を中心とした「黒いオーケストラ」と呼ばれた抵抗グループ)に加わる事を決意した。
抵抗グループの中心人物の一人である国内予備軍一般軍務局局長フリードリヒ・オルブリヒト大将は、一般軍務局参謀長にフォン・シュタウフェンベルク中佐を据えるよう陸軍人事局に手をまわした。フォン・シュタウフェンベルクは、7月3日にミュンヘンの病院を退院した。ヴッパータールの家族を呼びもどしてラウトリンゲンのフォン・シュタウフェンベルク家の城へ戻った。

1943年9月初めにはベルリンへ赴き、抵抗グループのメンバーであるヘニング・フォン・トレスコウ少将からクーデタ準備の手順を通達された。そのクーデターとは、ヒトラーを暗殺した後に国内予備軍司令部が国内外に17ある各軍管区司令部に対して「ヴァルキューレ作戦」(ドイツ国内有事に備えた作戦)を発令して親衛隊・ゲシュタポ・党機関の責任者を「反逆者」として拘束することであった。

9月15日、国内予備軍一般軍務局参謀長に就任し、ベルリン・ベントラー街(de:Bendlerblock)(国防省)の国内予備軍司令部に勤務した(正式な任命は11月1日。職務の引き継ぎや勉強のために就任が早まった)。このポストを得た事により、以降はフォン・シュタウフェンベルクが計画の中心になった。「ヴァルキューレ作戦」の立案を担当する立場だからである。

クーデタ計画の成功は「ヴァルキューレ作戦」を発動した時に各軍管区司令部がそれに従うかどうかにかかっていた。そのため彼は各軍管区に情報提供者の将校を最低でも一人は確保しようと務めた。彼の持つ説得力、生来の貴族の威厳、明晰な論理などにより17の軍管区のうち15の軍管区で情報提供してくれる将校を確保した。

またクーデタ後には抵抗グループが統一した政権を作りたいと考えていたので、ユリウス・レーバー、カール・ゲルデラー、ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ伯爵、ヨハネス・ポーピッツ、ウルリヒ・フォン・ハッセル、ヴィルヘルム・ロイシュナー(de:Wilhelm Leuschner)、ウルリヒ・シュヴェーリン・フォン・シュヴァーネンベルク伯爵(de:Ulrich Graf Schwerin von Schwanenfeld)といった市民レジスタンスメンバーとも交流を深めた。レーバーを通じて地下に潜っている共産党とも接触を図った。しかしフォン・シュタウフェンベルクは他のレジスタンスメンバー(特にゲルデラーとフォン・モルトケ)とはあまり折り合いが良くなかったという。

難題なのはクーデタ計画だけでなく、その前提であるヒトラー暗殺もであった。
戦況が悪化してくるとヒトラーはほとんど公の場に姿を見せなくなり、厳重に警備された総統大本営に引きこもるようになっていた。限られた側近以外は近づくことすら困難になっていた。フォン・シュタウフェンベルクら抵抗グループの中にもヒトラーに接近できる者はいなかった。ごくまれにヒトラーが公式行事に出席する機会などを狙って、覚悟のある将校に暗殺を実行させようとしたが、決定的な瞬間に怖気づいたり、あるいは計画が何らかの偶然で成就しない事が続いた。

ところが1944年5月中頃にチャンスが訪れた。フォン・シュタウフェンベルク大佐(彼は1944年4月1日に参謀大佐に昇進していた)が国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の参謀長に就任する事が内定したのだった。この地位につけば国内予備軍の任務である陸軍の人員補充と国内の治安維持を全面時に所管する事になる。ヒトラーの前に出て報告を行う事もある。また総統大本営では戦傷者はSSによるボディーチェックを免除されていた。加えて上官である国内予備軍司令官フロム上級大将は抵抗グループに加わってこそいないが、部下のオルブリヒト大将やフォン・シュタウフェンベルク大佐達がやろうとしてる事を黙認することを暗に示していた。これらの要素により抵抗グループは、フォン・シュタウフェンベルクをヒトラー暗殺の実行者に選んだ。暗殺クーデター成功の暁には彼は新政府においてオルブリヒト軍務大臣を補佐する軍務次官に就任する予定であった。

ヒトラー対面
1944年6月7日午後3時52分から4時52分にかけて、フォン・シュタウフェンベルクは、フロム上級大将とともにベルヒテスガーデンにあるヒトラーの別荘「ベルクホーフ」に招集され、ヒトラー臨席の会議に出席した。フォン・シュタウフェンベルクがヒトラーと直接に対面したのはこれが初めてだった。
フロムがフォン・シュタウフェンベルクをヒトラーに紹介すると、ヒトラーは指が三本しかないフォン・シュタウフェンベルクの左手を両手で握った。それからヒトラーは震える手で状況図を置き換えはじめ、何度もフォン・シュタウフェンベルクを見つめたという。

会議にはヒトラーの他に空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥、内務大臣・親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー、軍需大臣アルベルト・シュペーア、国防軍最高司令部(OKW)長官ヴィルヘルム・カイテル元帥という錚々たるメンバーが参加した。フォン・シュタウフェンベルクは会議後にこの場の空気を「どんよりと腐っていて、息もできないほど」と評し、このメンバーの中で良識がある人物はシュペーアだけで他は全員サイコパスだと感じたという。
ヒトラーの目はうるんでおり、みすぼらしく弱々しい印象を受けたという。この会議に彼が爆弾を持っていった形跡はない。最初の対面ということもあり、暗殺が実際に可能かどうか吟味するだけに留めたようだ。彼は「総統の側では自由に行動することが許される」という結論に達したのだった。

繰り返す暗殺計画の延期

7月15日の「狼の巣」。左からフォン・シュタウフェンベルク(拡大写真)、総統副官フォン・プットカマー海軍少将、空軍連絡官ボーデンシャッツ空軍大将(後ろ向きの人物)、ヒトラー、カイテル。
フォン・シュタウフェンベルクは1944年6月20日に正式に国内予備軍参謀長に任命された。ソ連軍が東プロイセンに迫っていた。一日でも早くヒトラーを殺し、米英と講和せねばドイツ領がソ連に踏みにじられる。

1944年7月6日にベルクホーフの会議に出席した。この時には爆弾を携帯していった。ヘルムート・シュティーフ少将が暗殺を決行してくれると期待していたようだが、シュティーフが実行せずに失敗した。

1944年7月11日のベルクホーフでの会議にも出席。しかしこの日の会議にはヒムラーとゲーリングが出席していなかった。

レジスタンスグループの中心人物であるルートヴィヒ・ベック退役上級大将はヒムラーとゲーリングは一緒に殺害した方がよいと考えていた。エーリヒ・ヘプナー退役上級大将、オルブリヒト大将、エーリヒ・フェルギーベル大将らはゲーリングについては特に問題視していなかったが、ヒムラーは絶対に殺さねばならないと主張していた。
ヒムラーが生存しているとSSと国防軍の間で内乱が始まる恐れがあったためである。オルブリヒト大将と連絡を取り、ヒムラーがいない事を告げると、彼は中止を指示した。フォン・シュタウフェンベルクはシュティーフに向かって「こん畜生め。行動すべきではないのか」と口にしたという。

1944年7月14日、ヒトラーは予告なしでベルクホーフからソ連との前線が近い東プロイセンのラステンブルクの総統大本営「狼の巣」へ移住。
フロムとフォン・シュタウフェンベルクも7月15日にそこへ来て、東部戦線へ投入する新しい師団立ち上げについて報告するよう命じられた。フォン・シュタウフェンベルクは1942年秋以来「狼の巣」に来た事がなく土地勘がほとんどなかったが、敵がドイツ国土に迫っている今、ヒトラーがベルクホーフに戻るのを待つ時間はなかった。「狼の巣」で暗殺を決行することとした。
フロムとフォン・シュタウフェンベルクがベルリンを発った後、ベルリン・ベントラー街のオルブリヒト大将とその副官アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐はフロムがいないのを好機として「ヴァルキューレ作戦」を発動し、ベルリン郊外の陸軍学校と予備訓練部隊に最高レベルの緊急出動態勢を取らせた。事前に「ヴァルキューレ作戦」を発動したのはこの時だけだった。

7月15日午前にフォン・シュタウフェンベルクが「狼の巣」に到着。この7月15日にはヒムラーも「狼の巣」に滞在していた。だが何故か同日3回行われた会議いずれもヒムラーが出席していなかった。ヒムラーが最終的に出席しない事が確認された後、フォン・シュタウフェンベルクは会議を抜け出してベントラー街のフォン・クイルンハイム大佐と連絡を取り、ヒムラーが不在だが、決行したいので許可が欲しい旨を伝えた。

フォン・クイルンハイムはその旨をオルブリヒト大将、さらに電話でベック退役上級大将、ヘプナー退役上級大将らに連絡した。しかし将軍たちは計画中止を命じた。フォン・シュタウフェンベルクは堪らず、フォン・クイルンハイムに「僕ら二人で決めるしかない」と言い、将軍たちの指示を無視する事を提案した。フォン・クイルンハイムも「やりたまえ」と答えたが、すでに時期を失していた。

ヒトラーはその後まもなく会議を終了させてしまった。一方、ベントラー街のオルブリヒト大将とフォン・クイルンハイム大佐は「演習だった」としてベルリンの警戒態勢を解除して取り繕った。後にこの「間違った警報」の件でカイテル元帥がフロム上級大将を叱り、さらにフロム上級大将がオルブリヒト大将を叱った。しかしなんとかクーデタの意志は隠し通せた。

フォン・シュタウフェンベルクが意気消沈してベルリンへ戻るとフォン・クイルンハイムと話し合った。二人の意見は次のチャンスには将軍たちの意向は無視しようということで一致していた。

(次予告 東プロイセン総統大本営:暗殺計画実行)

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)またはヴァルキュリャ(古ノルド語: valkyrja、「戦死者を選ぶもの」の意)は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。戦場で死んだ者の半分をオージンの治める死者の館ヴァルホルに連れて行く役割を担う。ヴァルホルでは、死んだ戦士たちは終末戦争ラグナロクに備える兵士エインヘリャルとなるが、ヴァルキュリャは彼らに蜜酒を与える給仕ともなる。また、ヴァルキュリャは英雄をはじめとする人間たちの恋人としても登場し、そのような場合は王族の娘として描かれることもある。ワタリガラスを伴って描かれたり、また白鳥や馬と結び付けられることもある。ヴァルキュリャは、13世紀に書かれた『スノッリのエッダ(散文のエッダ)』『古エッダ(詩のエッダ)』『ヘイムスクリングラ』『ニャールのサガ』などに記述が見られる。スカルド詩や14世紀の呪文、ルーン碑文などにも登場する。また考古学的には、ヴァルキュリャを描いたと考えられている魔除けなどが出土している。資料ウイキペディア 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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