平家物語「祇園精舎」
『平家物語』は日本における作者不詳の軍記物語である。 鎌倉時代に成立したとされ、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などが描かれている。
保元の乱および平治の乱に勝利した平家と敗れた源氏の対照的な姿、その後の源平の戦いから平家の滅亡、そして没落しはじめた平安貴族と新たに台頭した武士たちの人間模様などを描いた。「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しでも広く知られている。
平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した『治承物語』(じしょうものがたり)と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。
正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、『治承物語』が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている。
作者
作者については不明であり、古来多くの説がある。現存最古の記述は鎌倉末期の『徒然草』(兼好法師作)で、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする。
「後鳥羽院の御時、信濃前司行長、稽古の譽れありけるが(中略)この行長入道、平家の物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて、語らせけり。」
その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。
そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物であるが、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
諸本
壇ノ浦の戦い(1185年)現存している諸本は、次の二系統に分けられる。盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの。
読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの。
語り本系
語り本系は八坂流系(城方本)と一方(都方)流系(覚一本)とに分けられる。
八坂流系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方流系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院が念仏三昧に過ごす後日談や、侍女の悲恋の物語である「灌頂徴」がある。
平曲
語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことで、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的には全く別のもので、これらを平曲とは呼ばない。
平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存在した。八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。
一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれた。波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して『平家正節』(へいけまぶし)を完成させ、以後は同書が前田流の定本となった。
明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。
2018年(平成30年)時点では三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけで、今井に弟子はいない状況である。平曲にまつわる文化を研究・伝承するため、武蔵野音楽大学の薦田治子らにより「平家語り研究会」が2015年に発足。かつては約200曲あったとされるうち現在まで伝わる8曲の譜や録音の研究、地歌や筝曲の演奏家による平曲の公演などを行っている。
平曲の発生として、東大寺大仏の開眼供養の盲目僧まで遡ることが『日本芸能史』等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明(しょうみょう)の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。
読み本系
読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきており、延慶本は歴史研究においても活用されている。
広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままである。読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、『源平闘諍録』の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。ウイキペディア
語物としての流布目次 ニッポニカ資料
本来は琵琶(びわ)という楽器の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。
庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこのためで、国民文学といわれるほどに広く流布した原因もそこに求めることができる。
『平家物語』をこの「語物」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、琵琶法師とよばれる盲目の芸能者たちであったが、古い伝えによると『平家物語』ばかりでなく、当初は『保元(ほうげん)物語』や『平治(へいじ)物語』も琵琶法師によって語られていたらしく、また承久(じょうきゅう)の乱を扱った『承久記』という作品もそのレパートリーに加えられていたといい、これらを総称して「四部の合戦状」とよんだ。
しかし他の軍記作品は語物としては発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。
この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流系と八坂流系の二つの系統に大別される。
これらに対して、読み物として享受されたのが読み物系の諸本で、『延慶(えんぎょう)本平家物語』6巻、『長門(ながと)本平家物語』20巻、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』48巻などがある。
以上のように本書には多くの伝本があり、テキストによってその内容や構成がかなり違うが、もっとも世に流布した一方流の語り本では、1131年(天承1)に清盛の父忠盛(ただもり)が鳥羽院の御願寺(ごがんじ)得長寿院(とくちょうじゅいん)を造進した功績により昇殿を許されたときのエピソードを描いた「殿上闇討(てんじょうのやみうち)」に始まり、1199年(建久10)に清盛の曽孫(そうそん)六代(ろくだい)が逗子(ずし)の田越(たごえ)河畔で処刑されて平家の子孫が絶滅するという終章の「六代被斬(ろくだいきられ)」まで、5世代(忠盛―清盛―重盛(しげもり)―維盛(これもり)―六代)約70年間に及ぶ平家一門の興亡がその対象とされている。
このうちもっとも集中的に語られているのは、1167年(仁安2)に清盛が50歳で太政(だいじょう)大臣に昇進し、栄華の絶頂を極めてから、1185年(寿永4)に平家一門が壇ノ浦で滅亡するまでの18年間で、その運命の変転の目覚ましさを描き出すことが、この物語の大きな眼目となっている。
粗筋目次を見る
その粗筋を述べると、「祇園精舎(ぎをんしゃうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎゃうむじゃう)の響(ひびき)あり、沙羅双樹(しゃらさうじゅ)の花の色、盛者必衰(じゃうじゃひっすい)の理(ことはり)をあらはす」の冒頭句で知られる序章に始まり、前半部(巻1~6)では、平家一門の興隆と栄華、それに反発する反平家勢力の策謀などが語られる。
刑部卿(ぎょうぶきょう)忠盛の昇殿によって宮廷社会に地歩を築いた平家は、清盛の世になって大きな飛躍をみせ太政大臣の栄位に上るが、権勢を掌握した清盛はやがて世を世とも思わぬ悪行の限りを尽くすようになる。
そうした平家のふるまいは人々の反発を招き、その反感がやがて平家打倒の陰謀として結集されて行く。巻1後半から巻3にかけて展開する鹿ヶ谷(ししがたに)陰謀の物語、巻4の1巻を費やして語られる源三位頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵譚(たん)がそれで、いずれも事前に発覚して惨めな失敗に終わるが、頼政の奉じた以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)が諸国の源氏の決起を促し、源頼朝(よりとも)、木曽義仲(きそよしなか)の挙兵となり、その騒然とした情勢のなかで熱病にかかり清盛が悶死(もんし)を遂げる。
後半部(巻7~12)は、源氏勢の進攻と源平合戦、そして平家の滅亡を内容とするが、まず信濃(しなの)に兵をあげた木曽義仲が北陸から都に向かって快進撃を開始、この木曽勢の進攻によって平家はついに都を捨てて西海へ逃れ去る。しかし、都入りした義仲はその勢威を維持することができず、後白河(ごしらかわ)法皇との確執から東国の頼朝の介入を招き、東国勢の猛攻を受けてあえなく滅び去る。
一方、木曽義仲を撃ち破った東国勢は、時を移さず一ノ谷に拠(よ)る平家の攻略に立ち向かう。ここから本格的な源平の対戦となるが、一ノ谷、屋島と敗北を重ねた平家は長門(ながと)の壇ノ浦に追い詰められ、幼帝安徳(あんとく)天皇は祖母二位尼(にいのあま)に抱かれて入水(じゅすい)、一門の大半はここで自決する。
物語はこのあと、捕虜となった宗盛(むねもり)や平家の遺児たちの末路を語り、平家の嫡流6代の処刑を描いて、「それよりしてこそ平家の子孫は永く絶えにけれ」と結ぶが、一方流系統の語り本は、戦後洛北(らくほく)の大原に遁世(とんせい)した建礼門院(けんれいもんいん)(清盛の娘で安徳天皇の生母)の消息を伝える「灌頂巻(かんじょうのまき)」を特立、その求道と鎮魂の祈りを通してこの悲劇的な物語に仏教文学としての締めくくりを与えている。 ウイキペディア
平清盛に寵愛された白拍子の仏御前が実は化けて出ていた?
鬼滅の戦史76 藤井勝彦 2022.05.17 中世 日本史
美人の誉れ高き白拍子(しらびょうし)の仏御前(ほとけごぜん)。愛妾(あいしょう)の祇王(ぎおう)を押しのけてその座を獲得したものの、わずか21歳で亡くなってしまう。
実は、殺されたという伝承が残っているのだ。そしてその手口が、何ともおぞましいものであった。
平家物語では祇王らと共に往生
「仏御前 助高屋高助」『地名十二ヶ月之内 七月』/都立中央図書館特別文庫室蔵
平清盛が、娘・徳子を高倉天皇に入内(じゅだい)させたことで、一層、平家一門が隆盛を極めるようになった、その頃のことである。
とかく女人に目のない清盛は当時、白拍子の名手・祇王を寵愛していた。水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)をつけて舞うところから男舞(おとこまい)と呼ばれたもので、後には水干だけを着けて舞うようになって、いつしか「白拍子」と名付けられたという、その第一人者であった。八条近くに屋敷を構え、毎月米百石銭百貫を贈られ、暮らしも贅(ぜい)を尽くしたものになったようである。
ところが、そこに現れたのが、昨今富に名を挙げはじめてきた仏御前なる白拍子であった。もちろん、祇王に負けず劣らぬ美形である。その評判の女人が、清盛の前に押しかけて舞を披露。と、これを気に入った清盛が、あろうことか、それまで寵愛していた祇王を追い出して、仏御前を招き入れてしまったのである。無慈悲にも追い出されてしまった祇王。一時は死のうとまで思いつめたものの、かろうじて思いとどまり、妹の祇女、母のとじとともに出家。嵯峨野に草庵(往生院、後の祇王寺)を結んで、ひっそり暮らし始めたのだ。
それから幾月か過ぎたある日のこと、突如仏御前が、祇王らの庵を訪ねてきた。「祇王の身は明日の我が身」と悟り、自ら清盛の元を去ってきたというのであった。
その後、4人共々仏に仕える身となり、過去のわだかまりもなく心を一つにして仏を念じたところから、いつしか「皆往生の素懐をとげけるとぞ聞えし」、つまり4人ともども、往生の本望を遂げたという。それが、『平家物語』に記された仏御前らの物語であった。
仏御前が追い出されった祇王を訪ねた草庵(往生院)、現在の嵯峨野・祇王寺/フォトライブラリー
なぜか亡霊となって現れたという謡曲『仏原』
このように『平家物語』では4人ともども成仏したと記されているはずだが、謡曲『仏原』においては、仏御前が亡霊として現れたことになっている。白山を訪れた旅僧に、仏御前の亡霊が現れて回向(えこう)を願うというものであった。運命に翻弄された女の哀しみを言い表したものと推測されているが、亡霊となって現れたというのは、それだけでは説明がつきそうもない。
本来、亡霊となって現れるには、それなりの恨みがあってこそと思えるのだが、そこでは真相が語られることがなかった。亡霊となった理由、それを知るには、とある伝承に頼るしかなさそうだ。それが伝えられているのが、石川県小松市原町である。まずは、その概要から見てみることにしよう。
石川県小松市に残る仏御前伝説
ここでは、仏御前は清盛の元を立ち去って祇王とともに暮らし始めたというところまでは同じであるが、その後すぐに清盛の子を宿していることに気がついたとしているのが異なる点だ。当然のことながら、尼寺で出産するわけにもいかず、故郷へと向かうことに。安元2(1176)年のことだった。ところが、郷里にたどり着く前に産気付いてしまう。それが、白山山麓の吉野谷村の木滑というところであった。ここで、子(男の子だったとか)が生まれたものの、儚くも死産。その後村に帰り、数年後の治承4(1180)年、21歳という若さで生涯を終えたという。
その舞台とされる石川県小松市原町には、仏御前の墓ばかりか、彼女が暮らしたとされる仏御前屋敷跡などもあるほか、毎年9月16日には、「仏御前まつり」が催され、白拍子の舞が奉納されているのだ。
子ともども殺されたことで、亡霊となって祟った?!
気になるのが、同地に伝わるもう一つの伝承である。村に戻ったとはいえ、都で随一と謳われた美人の白拍子である。村の男たちが放っておくわけがなかった。日夜、仏御前の元に集まってきたというのも無理はない。
ところが、これに怒り狂ったのが、嫉妬に駆られた女房たちであった。何と、仏御前を裏山に誘い出して殺してしまったというから恐ろしい。それも、毒殺、あるいは機織(はたお)りで横糸を通す器具として使う杼(ひ)を使って殺したというからおぞましい。杼をどのように使って殺したのかも気になるところである。
杼(ひ、とちの木)と言えば、かつてアマテラス大御神に仕えていた織女の一人がスサノオの乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)に驚いて、杼が陰部に突き刺さってしまったという『古事記』の記載も思い出される。
一説によれば、彼女の子はまだお腹の中にいたとか。我が子ともども殺されてしまったのだから、恨み骨髄に達したのも容易に想像できそう。もちろん、彼女は祟って出た。それも、ターゲットは妊婦である。地元で妊婦が出産しようとすると、「のろい風」とも呼ばれた大風(原風)を巻き起こして、恐怖に陥れたというのである。
ただし、なぜかは不明ながらも、昼間に生まれる子だけを狙ったとも。ならばということで、以降、出産の際には、産室に屏風を巡らせて、夜のように暗くするのが習わしになったという。また、彼女が村人たちに妊娠していると噂されたことに激怒して自害したとの異伝もある。
いずれにしても、鳥肌が立つようなおぞましいお話である。美人の誉れ高かった白拍子の仏御前が恨みの果てに化けて出たとは信じたくないが、うら若き美女の早世ゆえ、何かと尾ひれが付いて語られてしまったのだろう。いったい、どの説が本当なのだろうか?
https://youtu.be/gHi53yewcZs?t=29
平家物語 「祇園精舎」 / 筑前琵琶 川村旭芳
画像 作者不明 ウイキペディア