「文筆」ノンフェクションと商業主義の付加価値バランス.2
孤高のノーベル経済学者ハイエク
「真の自由主義者は暴力を黙視しない」…東西冷戦の真っただ中、田中清玄が魅せられた“孤高のノーベル経済学者”ハイエク
2023/3/21(火) 11:12配信 文春オンライン
【画像】ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクと親交があった田中清玄を見る
その古い写真を見ただけでは、一体、どういう会合か、咄嗟に分からなかった。洋風のリビングルームのソファで、4、5人の男が話し込んでいる。一同の中心にいるのは、正客らしい欧米人だ。
アルバムにある日付けは、1965年10月20日、田中邸での夕食会とある。写っているのは、日本興業銀行頭取の中山素平、富士銀行頭取の岩佐凱実、東京電力社長の木川田一隆である。皆、当時の錚々たる財界人で、まるで生徒のように聞き耳を立てていた。
欧米人は、来日中の西ドイツのフライブルク大学教授、フリードリヒ・フォン・ハイエク。穏やかな物腰と知的な顔立ちが、貴族然とした印象を与えた。それから9年後、ハイエクは、ノーベル経済学賞を受賞し、一躍時の人となる。戦前から社会主義を批判し、自由主義を唱えた彼の学説は、各国の市場重視路線を支えた。
そして、この日、一同を世田谷の自宅に招いたのは、田中清玄だった。戦前、非合法の日本共産党の中央委員長となり、革命をめざし、武装闘争を指揮した。11年を獄中で過ごすが、その間、息子を改悛させようと母親が自殺、それを機に共産主義を捨てる。戦後は、過激化した共産党のデモに、ヤクザや荒くれ男を送って殴り倒させた。
また、海外の油田権益獲得など事業を手がけ、右翼の黒幕、国際的フィクサーとして知られた。その波乱の生涯を追ったのが、拙著「 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 」(文藝春秋)である。
そして、資本主義の象徴と言えるハイエクと、終生の友情を結んだのが、元武装共産党の田中だった。
ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれた。第一次世界大戦で帝国が崩壊すると、かつての領地にいくつもの国が誕生した。こうした秩序の激変が、彼に社会科学への関心を芽生えさせたという。
ケインズに真っ向から対立する経済理論を唱えたハイエク ウィーン大学などで学んだ後、1930年代、英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授に就く。その後、ハイエクは、経済学者のジョン・メイナード・ケインズと大論争を繰り広げた。ちょうど大恐慌が世界を襲い、失業と倒産が蔓延、その処方箋が渇望された頃だ。
ケインズは、政府が積極的に介入し、公共事業で総需要を創出すべきと主張した。財政政策と金融政策を両輪に、自由市場と政府介入で、経済を活性化すべきという。これは、不況に喘ぐ米国で採用され、彼の著書「雇用、利子および貨幣の一般理論」はベストセラーになった。
これに対し、ハイエクは、政府の介入は、却って不況とインフレを招くと主張した。経済を中央から指示するのは、社会主義と同根とし、それを精緻に述べたのが著書「隷属への道」だ。また社会主義は、自由や権利と相いれず、全体主義につながるという。
だが、戦後、米国などがケインズ主義を採用し、順調な経済発展を遂げた。それは、まるで「ケインズ革命」のように広がり、次第にハイエクの名は忘れられる。そうした中で、友人として終始一貫して支持したのが、田中だった。
田中とハイエクが知り合ったのは、1960年頃、共通の友人でハプスブルク家当主、オットー大公の紹介だったという。その自由主義の思想に共鳴した田中は、日本に招くようになる。滞在中は、有力政治家や財界人、学者との会合を設定した。そして、二人が交わした書簡を読むと、当初、田中がハイエクに、反共活動の理論的支柱を求めたのが分かる。
1964年7月の書簡で、田中は、日本のリベラリズムの脆弱さを嘆いていた。まだ戦前の思想統制の影響が残り、いつ全体主義に戻るか、分からないという。
「この思想教育は、あらゆる分野を政府が統制した戦前に蔓延し、1930年代の大恐慌時、勢いを増しました。それが、リベラルとされる者も含め、日本人が全体主義に抵抗しなかった理由だと確信します」
「過去の戦争体験を踏まえ、リベラリズムとは戦うべき価値があると信じる知識人、実業家は、ごく一部でしょう。経済は成長しても、リベラリズムという点で、まだ日本は精神的に強くないと危惧します。将来、経済が失速すれば、その時、国民は全体主義に抵抗しないかもしれません」
「暴力はにくむべきもの。だが暴力を黙視するのは決して正しい姿勢ではない」 そして、月刊誌への寄稿で、本物の自由主義者は、決して暴力に尻込みしないと宣言した。
「ここで私が云いたいのは、暴力はにくむべきものだ、だが暴力を黙視するのは決して正しい姿勢ではないということである。暴力をふるうものに対して、暴力とは元のとれないものだ、能率のよいものではないということを知らしめることが、われわれのつとめではないか。
本当の自由主義者というものは、暴力に対して決して尻ごみしない。ヨーロッパの自由主義者たちは、ファシズムの暴力に対しても、コミュニズムの暴力に対しても正面から堂々と闘ってきた。自由主義者とは戦う人なのだ。その意味では、日本の自由主義者たちは本ものではないのではないだろうか」(「文藝春秋」1963年5月号)
60年代半ばというと、東西冷戦の真っ只中、世界中で、共産圏と自由主義圏が対峙していた。日本も、共産党と社会党が勢力を増し、労働組合もその影響下にあった。そこで、精緻な理論で共産主義を批判したハイエクは、この上ない援軍だったはずだ。
それから半世紀余りが経ち、ロシアのウクライナ侵攻が世界に衝撃を与えた。そして、田中の言葉通り、欧州の人々は一致団結し、ロシアに対抗している。真の自由主義者は、暴力に屈しない。自由主義者とは、戦う人だ。これは、戦後の日本の「進歩的文化人」へのメッセージでもあった。
だが、反共活動だけが、二人を結びつけたのではない。付き合う中で、田中は、ハイエクの孤高とも言える生き様に魅せられていったようだ。
「ハイエク教授の一生はマルクス主義者からも、ケインズ学派の学者たちからも、攻撃され続けた一生でした。
でも教授は一歩もひるみませんでした。もう半世紀も昔のことですが、教授は学生に向かって、『経済学者たらんとする者は、自らに対する評価や名声を求めるべきではなく、知的探求のためなら、あえて不遇も厭うべきではない』と講義したことがあったそうです。教授と30年以上にわたってお付き合いいただいて、この信念は一生を貫いたものであったことが、実によく分かります」(「田中清玄自伝」)
事実、ハイエクの生涯を見ると、田中が言わんとするのも頷ける。「燃え尽きた年寄り」だったハイエクに手を差し伸べた ケインズとの論争で注目されたが、1930年代後半には、経済学者として忘れられてしまった。大恐慌への処方箋を与えたケインズは、若手の学者を引きつけ、神格化される。それに対し、ハイエクの教え子は、続々とケインズ派に転向していった。
大学では、学生が彼の理論を「中級の経済学」と呼び、ドイツなまりの英語をからかう有様だ。論文が引用される回数も減り、やがて深刻な鬱病を患うようになる。仕事も手につかず、経済的な苦境も拍車をかけた。
そんな中、1970年9月、ハイエクは、東京の田中に書簡を送った。せっかくの訪日の誘いだが、今回は見送りたい。年金不足を補うため働きたいが、体調から無理だ。医者によると、心理的な要因らしいという。まさに満身創痍である。
そして、その年のクリスマス直前、ハイエクの銀行口座に、突如、田中から3千ドルが振り込まれた。このプレゼントへの、ハイエクの丁重な礼状が残っている。
「この寛大な贈り物には、大いに感激しました。あなたのように、共通の理想を抱く人でなければ、あり得ないでしょう」
「この贈り物を受けるべきかどうか、最初は躊躇いました。ですが、自分が力を取り戻し、仕事を進めるための援助として、受け取らせていただきたいと思います」
学界で忘れられ、本人も「燃え尽きた年寄り」と言うほど、人生の底でもがいていた。そこへ、日本から助けの手を差し伸べたのだ。そして、それから間もなく、大きな転機がやってくる。
74年、ハイエクはノーベル経済学賞を受賞。運命が一変する
きっかけの1つは、1973年の秋に勃発した中東戦争と石油危機だった。アラブ産油国の原油値上げで物価が上昇し、世界経済は急ブレーキがかかる。経済は停滞したのにインフレが進み、それまでの理論と食い違う現象が現れてしまった。
こうして忘れられていたハイエクは復活し、クライマックスが、1974年12月、スウェーデンのストックホルムでのノーベル経済学賞の授与だった。ここでの講演で、彼は、それまでの経済学者の政策を大失敗と指摘した。そして、授賞式後の晩餐会で、友人として日本から、唯一、メインテーブルに招かれたのが、田中だ。
ノーベル経済学者の祝いの席に、武装共産党の元委員長が顔を見せる。マルクスやケインズが生きていたら、思わず苦笑するのではないか。だが、ハイエクにとり、田中は、人生の晴れ舞台にぜひ招きたい同志だったはずだ。マルクス、ケインズ主義者との論争で孤立し、侮蔑され、鬱病も患った時、決して離れず励ましてくれたのが、田中だった。
そして、ノーベル賞は、ハイエクの周辺にあらゆる変化をもたらした。「昨日の異端は、今日の正統」ではないが、世の関心が一斉に向かい始める。世界中から講演依頼が舞い込み、書籍が出され、政治家も近づいた。
ところが、それを横目に1978年9月、ハイエクは、田中の招きで来日した。京都で、ある人物と対談するためだ。その相手は、名だたる経済学者でも、経営者でも、政治家でもなく、何と生物学者だった。
続編 「アメリカの資本主義は富有階級の独裁政治にすぎない」…新自由主義の危うさに気づいた田中清玄が仕掛けた異色の対談 徳本 栄一郎
「京都の山はまろまろしゅうて、やさしいですやろ。ヨーロッパでは、山がとげとげしゅうてあきまへんなあ」
参考記事
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