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古代くさび文字に何が書かれたか

なんて題名がいいのか逡巡して時が過ぎていく

「白拍子」(静御前)、「くぐつ」おんな、の解説ですが、やはり現世とは、かけ離れた歴史話ですから、書く方も読む方も難解で、先に進みません。

だから、そのとっかかりを探して動画を見ますが、多いのが「アフリカ動物ハンター」の捕食シーンです。残酷は判っていますが、そうしないと生きられない事情ですからライオンも必死だし、獲物は逃げ惑う。さながらアメリカ映画のバイオレンス、そのものです。

だから筋は全部わかってい、どちらが勝つか、というはなしですから、2.3分で決着する。
それなりに迫力もあるし、次から次に展開する追撃シーンを見境なく見てしまう。そのうち飽きますから、チャンネルを変えたり切ったりして、さあ、と気分を変えたつもりのが、いつもと同じ。そんな状態が数日続いて、睡眠不足もあって、どうもすっきりしないです。

多分、日常生活というのは、そんなふうに繰り返され、気が着いたら朝になっていて、時計をみたら50年経っていたという浦島太郎の「玉手箱」です。まあ、そこが天国(地獄だってある)じゃなかったのが救いで、幸いにも、いつもの家族の顔が認識できるのですが(これが認知症だったら最悪ですよね)、ひとの人生ってなんでしょうかね?・・・。

何でもいいからやるしかない、旨い下手は関係ない、字を書けばそれが誰かは知らないが、それを読む。

日本の中世時代の人の生活

次は鎌倉時代にいたであろう「白拍子」傀儡(かいらい)オンナの話の続きをしましよう。

脚が三本指というのは大昔の「恐竜」と同じ。だから鳥は恐竜の仲間。では「白拍子」は、オンナであるのになぜ男装直垂で刀を差しているか、という謎は、誰も知らなくて説明もできていない。
そんなことで「八咫ガラス」に惑わされたマララッカが、不思議の国に迷いこんだ紀元前ギリシア神話的レバノン「ギルガメシュ叙事詩」、の話しにも似ているようなそんな話しです。

今風「アニメーション」にしたら鳥の色は白か黒か~

いまどきの、あり来たりの純愛恋愛小説でもないし、といって大都会ビル一角に棲むサラリーマン家庭の一人っ子少女(中1)「マナカ」が読んでる人気キャラクター漫画ヒロインに投影した、その声優ハスキーVoiceとも違う、そのすこし外れた違和感を醸していたとか。(もしかして好きな子ってアレだったの?)
まき暖炉の部屋で、自家製パン窯で焼いたピザを食べ一時の幸福感に浸る。それとは大幅に違った「映画」プロットじゃなきゃいけない。
そんなことを中一少女「マナカ」に訊いたら、なんていうのか、幾通りの答えを用意してみた。「白拍子」という鎌倉時代にいたシャーマンの巫女(また男)だった。

「もしかしてもしかして、そうなの、違うの、どうなの」???
そんなこと云いたそうな顔してた。
だいたい「マナカッカ」が、喋ると何か予感がするんだ。
予感・・・
そう、よ、か、ん。空気が動く、でも風じゃない。空気、空気なんだ、気というか、目にみえない透明な粒子の気(け)、みたいな。
ほら、煙りだってアレ、粒子なんだ、それに雲とか水蒸気とか、みんな細かい粒なんだ。だからその「気」なのさ。
いつも「マナカッカ」のそばにピッタリ寄り添っている「フワリート」が、そういった。
「あしたはアメか」、南西の黒い雲空を見上げて、そう叫んだ。
こんなとき古代記などに登場する鳥、ヤタガラス。それが黒い色の「カラス」だった。

三本足の「八咫烏」(やたがらす、ここでは黒)
八咫烏は、日本神話に登場するカラス。導きの神とされる。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。
八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。

また、太陽の化身ともされる。『古事記』では高木大神によって遣わされ、『日本書紀』では天照大神によって遣わされたと伝わる。
『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされるが、兄に鳴鏑(なりかぶら)で追い返されたとされる。(ほとんど理科不能な描写です)

一方『日本書紀』では兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求め、兄には「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。」と言われ弓矢で追い返されてしまうが、弟はこれに恐れて「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」と言い、葉盤八枚に食べ物を盛って烏に献上した。
それで烏は神武天皇のもとへ戻り、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝えているなど、両書の伝承に若干相違がある。
その後『日本書紀』においてはその功が労われ、頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)となり、劒根は葛城国造となっている。なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。

また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは生玉兄日子命のこととされる。
熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。(旧尺貫法や古い測定寸は、それなり意味があり18㎝は楽器の長さ、その基本寸は古来楽器鶴の骨足の長さで9千年前の中国楽器)

三本足の意味
八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている。
また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説もある。

しかしながら、『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されておらず、八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「三足烏(さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われる。 元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある。 ウィキペディア

作家の林房堆氏著『神武天皇実在論』から引用させて戴くと 「平田俊春教授は『神武天皇紀の紀年の意義』と『古代、中世における神武紀元の使用』の二論文を書いている。
その趣旨を要約抜粋すれば、「神武天皇の時代から少なくとも十数代は、全く暦の行なわれなかった時代であるから、紀年のない古事記的形態が書紀より古いものであり、書紀の紀年は故事伝承をもとにして作為したものであることはいうまでもない」。

「神武天皇元年が讖緯説(しんいせつ)に基づいて、西暦前660年に置かれている事は学会の定説になっている」。

■「この讖緯説は中国の道家の学説で、1260年ごとに大変革が起こり、その年を辛酉(しんゆう)と甲子(こうし)とするものであるが、これを日本にあてはめて神武元年を推定したのは、聖徳太子の時代であったと考えられる」。
神武紀元が讖緯説によって作為されたことは、すでに本居宣長や伴信友によって論じられたことであるが、那珂通世博士はそれを受けて、朝鮮史その他の紀年と参照して、神武紀元は約600年、不当に引きのばされていると判定し、百歳以上の天皇や武内宿祢のような三百歳以上の重臣が現われているのは、紀元延長の故だと論じた。

このあとに著者林氏は一つの私見として「神武天皇即位の年は『古事記』にはなかったので、『書紀』の編纂者たちは当時の暦学の最高水準と信じられていた讖緯説(しんいせつ)に立って、辛酉神武紀元を推定した。まさしく推定であって史実とはいえない。

しかし那珂博士の短縮論も一つの推定であって、これを絶対視することはできない。那珂説をさらに二百年ほど短縮すべしという説も現われた。

八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。また、太陽の化身ともされる。『古事記』では高木大神によって遣わされ、『日本書紀』では天照大神によって遣わされたと伝わる。

『古事記』では兄宇迦斯・弟宇迦斯兄弟に神武天皇への帰順を求めるために遣わされるが、兄に鳴鏑で追い返されたとされる。一方『日本書紀』では兄磯城・弟磯城兄弟にそれぞれ帰順を求め、兄には「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。」と言われ弓矢で追い返されてしまうが、弟はこれに恐れて「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」と言い、葉盤八枚に食べ物を盛って烏に献上した。それで烏は神武天皇のもとへ戻り、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝えているなど、両書の伝承に若干相違がある。

その後『日本書紀』においてはその功が労われ、頭八咫烏の子孫は葛野主殿縣主(かづののとのもりのあがたぬし)となり、劒根は葛城国造となっている。
なお、八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。
また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としているが、実際は神武天皇と同世代の関係から考えて、記紀に登場する八咫烏とは生玉兄日子命のこととされる。

熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素戔嗚尊)に仕える存在として信仰されており、熊野のシンボルともされる。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている。咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である。ウィキペディア

黒い「カラス」・・・、白いカラスっている。みたことないけど。

***さて話は本筋の白拍子、傀儡子(くぐつし、くぐつ、かいらいし)とは、木偶(木の人形)またはそれを操る部族のことで、流浪の民や旅芸人のうち狩猟と傀儡(人形)を使った芸能を生業とした集団、後代になると旅回りの芸人の一座を指した語。傀儡師とも書く。また女性の場合は傀儡女(くぐつ め)ともいう。西宮発祥のものは正月に家々を廻ったことから冬の季語。

平安時代(9世紀)にはすでに存在し、散楽などをする集団として、それ以前からも連綿と続いていたとされる。平安期には雑芸を演じて盛んに各地を渡り歩いたが、中世以降、土着して農民化したほか、西宮などの神社の散所民(労務を提供する代わりに年貢が免除された浮浪生活者)となり、えびす舞(えびすまわし、えびすかき)などを演じて、のちの人形芝居の源流となった。
平安時代には、狩も行っていたが諸国を旅し、芸能によって生計を営む集団になっていき、一部は寺社普請の一環として、寺社に抱えられた「日本で初めての職業芸能人」といわれている。操り人形の人形劇を行い、女性は劇に合わせた詩を唄い、男性は奇術や剣舞や相撲や滑稽芸を行っていた。呪術の要素も持ち女性は禊や祓いとして、客と閨をともにしたともいわれる。傀儡女は歌と売春を主業とし、遊女の一種だった。
寺社に抱えられたことにより、一部は公家や武家に庇護された。後白河天皇は今様の主な歌い手であった傀儡女らに歌謡を習い、『梁塵秘抄』を遺したことで知られる。また、青墓宿の傀儡女、名曳(なびき)は貴族との交流を通じて『詞花和歌集』にその和歌が収録された。

傀儡子らの芸は、のちに猿楽に昇華し、操り人形はからくりなどの人形芝居となり、江戸時代に説経節などの語り物や三味線と合体して人形浄瑠璃に発展し文楽となり、その他の芸は能楽(能、式三番、狂言)や歌舞伎へと発展していった。または、そのまま寺社の神事として剣舞や相撲などは、舞神楽として神職によって現在も伝承されている。
寺社に抱えられなかった多くも、寺社との繋がりは強くなっていき、祭りや市の隆盛もあり、旅芸人や渡り芸人としての地位を確立していった。寺社との繋がりや禊や祓いとしての客との褥から、その後の渡り巫女(歩巫女、梓巫女、市子)として変化していき、そのまま剣舞や辻相撲や滑稽芸を行うもの、大神楽や舞神楽を行う芸人やそれらを客寄せとした街商(香具師・矢師)など現在の古典芸能や幾つかの古式床しい生業として現在も引き継がれている。
傀儡子集団の源流「傀儡」は中国語で人形を意味し、中国の偶人戯(人形劇)の人形も傀儡子と呼ばれる。「くぐつ」という音は、日本語古語説、中国語説、中国語経由の朝鮮語説など諸説ある。

「奈良時代の乞食者の後身であり、古代の漁労民・狩猟民である」とする林屋辰三郎説、「芸能を生地で中国人か西域人に学んだ朝鮮からの渡来人である」とする滝川政次郎説、「過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民である」とする角田一郎説などがある。
また、平安時代の文人、大江匡房の『傀儡子記』に日本民族とは異なる習俗であるとあり、インドからヨーロッパに渡ったジプシーと同源で、インドから中国・韓国経由で日本に来た浮浪漂泊の民族とする奇説もある。白柳秀湖は、大江匡房の『傀儡子記』の記述から、「傀儡子」は大陸のジプシーが中国・朝鮮などを経て渡来した漂泊の民族であるが、「傀儡師」は時代が下り、その芸能を受け継いだ浮浪の人々であり民族的なものではない、としている。

その他に、その源流の形態を色濃く残すものとして、サンカ(山窩)との繋がりを示唆する研究者もいる。
『傀儡子記』
1087年に大江匡房によって書かれたもので、漢文体320文字程度の小品だが、当時の傀儡子たちがどのような生活様式をもち、どのように諸国を漂泊していたかがうかがわれる数少ない資料となっている。傀儡子集団は定住せず家もない、水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、皆弓や馬ができて狩猟をし2本の剣をお手玉にしたり七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある。魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である。

また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で、歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしていると述べ、東海道の美濃・三河・遠江の傀儡女がもっとも美しく、次いで山陽の播磨、山陰の但馬が続き、九州の傀儡女が最下等だと記す。なお、大江匡房は『遊女記』も著しており、「遊女」と「傀儡女」はどちらも売春を生業とするものの、区別して捉えていたとされる。

ゆかりの場所西宮神社近くに傀儡師故跡があり、首から箱を下げた傀儡師の半身像が建てられている。傀儡師が人形芝居の元祖であると言われていることから、西宮市内に戎座人形芝居館もある。愛知県半田市には、江戸後期から続く傀儡師のからくり人形が載った山車(田中組神楽車)があり、5月の亀崎潮干祭で演舞が披露される。

白拍子.2

白拍子(しらびょうし)が歌舞関連の語であることは、知識が無くても予想できるかと思うが、筆者は舞については不案内なので自分が納得できるよう詳細に調べてみたのだが、実態はビデオでも見ない限り判り辛いものかと思う。

本項に関しては、白拍子とは云々と説明できるほど情報が多く見つけられなかったため、一息に読めるよう概要を述べ、白拍子に関する逸話などをなるべく多く紹介することにする。

白拍子は、平安時代末期頃に成立し、室町時代にかけて流行した歌舞の一つで、演ずる芸人も白拍子と呼ばれ、男装の遊女が今様などを即興で歌舞を演じるもの、と一般的に言われている。

通常、鼓が伴奏に用いられ、笛なども時として用いられたようだ。男巫(巫女の男版)が神楽として歌舞を演じていたのを女性が行ったのが始まりのようで、男女問わず舞われ、男性・僧侶・稚児(ちご)により舞われる場合もあったが、後には芸に秀でた傀儡女(くぐつめ)などの遊女の芸能となり、白拍子という職業として独立していったものと考えられている。

一説には、巫女舞が原点にあり、巫女が布教の行脚中、舞を披露するうち芸を主とする遊女へと転化し、そのうち巫の伝統を受け男装したとも言われている。この芸能の伝播の担い手として主に遊女が挙げられるので、遊女について少し触れる。

狭義の遊女(売春婦)は、俗には世界最古の職業とも言われ、諸外国に存在した神殿娼婦と同様、日本にも古くから存在し、巫女として神に仕え寺社などで歌踊を行っていた者が、後に諸国を漂泊することとなり、営利のために宿場・港など人が集まる場所で歌踊を行いつつ、枕席に仕える職業になったと考えられている。

「万葉集」では遊行女婦(うかれめ)の名で登場し、宴席に侍り貴族を祝す歌を詠むなど社会的地位の高い、教養のある女性もいたようだが、一方で、山間の旅宿などで宿を貸し旅人の相手をする類の遊女もいたようだ。

その後の奈良~平安時代には、水運の要所周辺に定住し生業を立てる遊女が出現し、特に大阪湾と淀川水系の水運で栄えた江口・神崎の遊女が有名になった。群をなし小船を操って今様を歌いながら旅船に近付き、客を呼んでいた。

一方で諸国を漂泊し、宿駅で傀儡子(くぐつ・男)が人形劇を披露する傍ら「傀儡女(くぐつめ)」が売春で生計を立てる、傀儡と呼ばれる集団もいた。遊女・傀儡女は職業柄、全国にネットワークがあり、交通の要衝に本拠を置き芸能に携わったため、結果的に芸能の伝播・伝承の担い手として重要な役割を果たすこととなった。

彼女らは後に都市部・町に定住したが、院政時代頃から白拍子が流行し、また京都に遊女屋街ができたことで衰退していったとされる。

当初、白拍子は武士層の支持を受け、貴紳に愛される者も多く、広く愛好された全盛期には芸が本分であったが、衰退に伴い、次第に売春婦化していったと考えられている。貴族の屋敷に出入りする機会にも恵まれていたため、芸達者で見識の高い人が多かったといわれる。その後、遊女らは鎌倉時代に職業権を認められ、徒弟制度に基づく遊女組織を形成し、後の遊郭へと繋がってゆく。

白拍子、その名の起源は、伴奏を伴わず平音域の素声(しらごえ)で歌舞を演じたことから素拍子(しらびょうし)と呼ばれたことに起因する説と、白い装束(水干・長袴)を着けて演じることに起因するという説の二つがある。
また素拍子と書く場合は、特に無伴奏での即興舞を指すという説もあるが、いずれにしても白拍子の特徴からその名が付けられたようだ。

白拍子の装束は、下げ髪に立烏帽子を被り、白小袖・紅の単・紅の長袴・白水干を着け、白鞘巻の刀を佩刀し、蝙蝠(扇)を持つという、男性の格好であり、源義経の愛妾・静御前の姿で知られている。

後には色物の衣装を着るようになったというが、単なる男装ではなく稚児の要素も含まれた、凛々しく美しい姿だったようだ。

男装で舞うことから「男舞」(おとこまい)とも呼ばれていた。何故、男装だったのか?巫の伝統を継承して男装したとも言われるが、当時、最先端の歌謡として流行していた今様(いまよう)を、男装の麗人が演じることは斬新であり、流行に敏感であった貴族・武士階級においてこの新奇の歌謡・衣装が人気を博し、宮廷にまで流行した。

白拍子と今様は密接であり、この二つの流れはほぼ平行であるため、今様の詳細に少し触れることにする。

今様とは、現在は雅楽の中の謡物(うたいもの)と呼ばれるジャンルに含まれており、平安時代中期頃に和讃(わさん)・神歌・催馬楽(さいばら)・朗詠などから生じたとされる新興歌謡で、特に宮廷で流行し、長い院政を行ったことでも有名な後白河法皇(1127~1192年)という支持者・理解者を得、最盛期を迎える。

後白河法皇は芸に秀で、自身も喉を痛めるほど熱狂的に今様を好み、乙前(おとまえ)という青墓(現・岐阜県大垣市、中世宿場町があった)出身の傀儡女を特に今様の師と仰ぎ、師弟の契りを結んで御所に住まわせ、彼女から歌の伝受を受けた。

乙前は当時70歳を超える老女であったが、今様の名手として名高く、宿場町・青墓は多くの今様の名手を生んでいる。

法皇は、傀儡女のみならず一般市民・端者(はしたもの)・雑仕(ぞうし)・傀儡子(くぐつ)、白拍子などの遊女など、あらゆる人々の側について習ったそうである。

法皇が行った、1174年の「承安今様合」の頃が今様隆盛の頂点といわれ、今様は「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)という書として編纂され集大成された。こうして後世に伝えられている訳だが、今様は即興だからこそ粋であったので、伝承が行われ始めて以来衰退の蔭りを見せ始め、それと供に白拍子という職業芸人も次第に表舞台から消えていったようだ。

元来、民衆芸能であった今様は、「現代風」と名付けられたとおり、時流に乗って京の都に伝えられ、宮廷で大流行を呼んだのだが、その興隆の様子は、現代にも名を残す二人の女流作家、清少納言と紫式部も書に残しているので、雑学として紹介してみることにする。

清少納言は、彼女の有名な随筆「枕草子」で風俗歌や神楽歌の次に「今様」を取り上げ、

「うたは、風俗。~神楽歌もおかし。今様歌は、長うてくせついたり」と書いている。長い歌で節回しにはクセがある、とのことだ。

紫式部は、「紫式部日記」で、若い貴族らが宿直で内裏に泊まり込みの時、遊びとして「読経あらそひ」(読経の声を競う)とともに「今様」が歌われていたと書き留めている。

現代風に言えば、巷で流行歌(ポップの類)が歌われているが、俗っぽいので学者肌の女性らは冷ややかに見ていた、という趣である。

女性にはうけなかったのかも知れない。しかし、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前など名君に庇護され、愛された者も多く、静御前・佛御前、妓王、妓女・亀菊・千寿などの名が現在まで有名である。これらの名を残した白拍子について触れることにする。

まず一番有名な「静御前(しずかごぜん)」であるが、史実として名が登場するのは「吾妻鏡」のみで、生没年は不詳とされる。

香川県東かがわ市小磯の小さな漁村で、磯禅師の娘として生を受けるが、6歳で父を亡くし、母と京都へ上京した。母は舞の道を極め、禅師の称号を授けられるほどの名人で、静も幼少より舞を修め、京の地で、その巧みな舞と美しさで屈指の白拍子に成長した。

1182年、神泉苑で雨乞い神事を行った際、静が舞を披露した直後に大雨となり後白河法皇から日本一と賞賛され、一躍有名になった。源義経(幼名:牛若丸)に舞姿を見そめられ、側室となるが、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした後、兄・源頼朝に追われる身となり、静もそれに同行したが、女人禁制の吉野山に静は入れず、別れて京都へ戻る途上捕らえられた。鎌倉に呼ばれ尋問を受けるが応じず、義経の子を宿しており、1186年の懐妊6ヶ月の頃、奉納舞を懇請されて鶴岡八幡宮に召され、源頼朝の前で白拍子の舞を披露した。

 「吉野山峰の白雪ふみわけて 入りにし人の跡ぞ恋しき」

 「しづやしづ賤のをだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもがな」

敵である義経を恋い慕う歌を堂々と唄いながら舞い、鎌倉武士の度肝を抜いた逸話は有名である。頼朝の怒りに触れ、幽閉されて男児を生むが、赤子は生まれた日に頼朝により由比ヶ浜に棄てられ殺されてしまった。子を失った後の静は、禅尼となった母と共に、故郷に戻った説、自殺・客死など諸々の伝承が全国各地にある。

次に「平家物語」に登場する、平清盛(1118~1181年)の寵愛を受けた白拍子たちの逸話に触れる。

平清盛は「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの平氏の全盛期を築いた人物で、絶大な権勢を誇り、出家後も平氏一門の総帥として強い発言権を持ち続けた。

彼が頂点に上り詰めた頃、都で評判の白拍子の姉妹がいた。妓王(ぎおう)と妓女(ぎじょ)である。滋賀県野洲市の生まれで、保元の乱で父を亡くした後、母・刀自(とじ)とともに上京し、その美貌と気品ある舞により姉・妓王は清盛の寵愛を一身に受け、西八条の屋敷を与えられ、親子は人も羨む暮らしをしていた。

妓王の願いで、妓王の故郷・野洲の村人のために水路(現・祇王井川)を掘らせたことなどからも清盛の寵愛ぶりが想像できる。3年後のある日、清盛に歌舞を披露したいという若い白拍子・仏御前(ほとけごぜん)が現れ、門前払いを受ける彼女を哀れんだ祇王のとりなしで、清盛の前で歌舞を披露することとなった。

時に仏は16歳、若く美しく、声も綺麗な上、歌も上手く舞姿は比類ない…ということで、あっさり寵愛が移ってしまった。祇王に遠慮して退出を願う仏を清盛は許さず、祇王に追放を言い渡したため、祇王は襖に歌を書き残して実家へ戻り、泣き伏したという。

 「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき」

翌年、清盛から仏御前を慰めるため歌舞を披露することを強要され、祇王は今までよりずっと低い場で、哀切に今様を披露する。

 「仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ」

あまりの屈辱に、生きてまた憂き目を見るならと、母・刀自、妹・祇女とともに剃髪して嵯峨野の山里の草庵で仏門に入った。時に祇王21歳、
祇女19歳、母・刀自45歳であった。

同年、尼となった仏御前もこの寺を訪れ、一緒に念仏の日々を過ごしたという。仏御前17歳、祇王の運命を己自分に重ね世の無常を思い、清盛の下から抜け出し、皆で極楽往生を遂げたという。この説話は清盛の傍若無人な振舞いを批判して後に平家物語に付加されたとも言われている。

次に静御前と同期の白拍子・千寿(せんじゅ)の悲話について触れる。

千寿(千手)前は源平の乱世に、当代一の白拍子とも言われ、美女として名高く、平清盛の五男・重衡との悲恋が「平家物語」で語られている。

駿河国手越(現・静岡県静岡市)で長者の娘として生まれ、白拍子として成長し、源頼朝に仕えた12人の白拍子のうちでも一際美しかったらしい。捕虜となった平清盛の五男・重衡の世話を頼朝に命じられ、その死が目前とも知らず千寿は思慕を抱く。

二人は出会った日から恋に落ちたという。しかし重衡は奈良・木津川で斬首刑となり、千寿は死後もなお想い続け、21歳で尼となり、遠江国豊田郡(現・静岡県磐田市)で彼の菩提を弔うが、重衡を追うように23歳の若さでこの世を去った。「平家物語」では、亡き重衡を恋慕して憂死したと人々が噂したと記されている。

磐田市には千寿に因んだ地名が残っており、また「千寿白拍子」という地酒は地元に残されたこの逸話から命名されている。

最後に、後鳥羽上皇(1180~1239年)が寵愛した白拍子・亀菊(かめぎく)について触れる。上皇の愛妾・伊賀局(いがのつぼね)の名でも知られ、恐らく歴代の白拍子の中でも社会的に高い地位を得た方だと思われるが、上皇には愛人が多かったので、その生涯が幸福であったかは分からない。

亀菊は白拍子出身であるが、上皇の寵愛を特に受け、摂津国(現・大阪府)の長江荘・椋橋荘の荘園2ヶ所を分け与えられていた。しかし、荘園の地頭が彼女の領地を横領したため、上皇は亀菊の訴えを受け、地頭を罷免するよう強く申し入れたが、幕府の執権・北条義時はその申し入れを武力をも辞さない姿勢で拒否した。

このことが「承久の乱(1221年)」の一因になったと言われている。この逸話は、彼女の名と供に「吾妻鏡」「承久記」などに登場する。承久の乱の後、上皇は隠岐の島に配流となり、同地で亡くなるのだが、亀菊は最期まで上皇の側に仕えていたそうだ。

最後に白拍子の、その後に触れる。

徐々に猿楽などへ変容してゆくのだが、鎌倉時代末期頃、あるき白拍子と呼ばれる者により、全国に広められた。後年の芸能に与えた影響も大きく、その命脈は歌舞伎に継承され、早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起源ともなった。能や延年にも取り入れられ、室町時代初期まで民間芸能として残っていた。

猿楽同様、白拍子を現在見ることはできないが、美しく昇華され、その面影は能など他の芸能に見ることが出来る。

華々しく流行し、都で注目を集めた白拍子たちは、上流階級の出身では無かったが故に一般庶民の共感を得、いずれも哀話が数多く伝えられ、全国に散在している。それだけ同情を集め、大衆に愛されたからだろうと思われる。若くして歴史の表舞台に登場し、あっけなく散ってゆく様は一輪の花の如くである。

和名に「白拍子」と名付けられた椿がある。白く、大輪で、八重の牡丹咲きの花を咲かせるその椿は江戸生まれだという。椿の品種は多く、花姿がしっとりと和の趣があるためか、和名が故事に由来するものも多い。名付けた人の想いも重なり、白拍子は、時を越えて現在も生き続けている。
(日本舞踊):日本事典

note 自著参考  https://note.com/29530503/n/n47f762aa


白拍子 傀儡女(くぐつ)
 
平安時代(794年-1185年/1192年頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が鎌倉幕府が成立(平氏政権で一時期福原京が造営された)するまで政治上唯一の中心であったことから、平安時代と称する。傀儡子(くぐつ、傀儡とも言う)とは、流浪の民や旅芸人とされ、狩猟と芸能を生業とした半狩猟半芸能の一集団である。

■この章で「白拍子」は終わりです。
後編は、それが八咫ガラス伝説と、どう関わるかは、ある意味では「アニメファンタジー」でプロットにしようかと思います。そのキャラクターとして初音ミクみたいな、仮想ボカロイドのような永遠の14歳、キャラクターじゃないと、いけないと考えてます。

そのキャラクターは「鞠茄子マリアンデー」、という名で三日三晩、考えました。まだ生年月日まで指定してませんが、昨日のフランス外信ニュースにもあった「a」さんの場合もあるし、シャーマン系であれば、年齢不詳出所未定のような匿名性が必要かと考えております。

また記事の質の事ですが、有料にすると「創作大賞」応募不可ですから、有料にはならない。ですから三部作にして、その一部作を無料(1万字)として出品するのも一つの方法です。
いずれにしてもライバル多数ですから、入賞確率はほとんどない。であっても、まず手を挙げないことには始まらない。そして旨い、下手、を逡巡することではなく「文字を書く」に徹することです。

世界の歴史をみて判るように、数千年前の楔文粘土板、そしてパピルス伝記などは、それを解読すれば、人の生活を知ることができる。そこに文の上手い下手はまったく必要ないことです。

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