白壁iconの聴診センサー white-outに消えたオンナ~ (白拍子)
石橋静河が「静御前」だったという思い違い
世界世間の喧騒から逃れて、いざ鎌倉へ~
大河ドラマ「鎌倉殿」の石橋静河(静御前)がにわかにクローズアップされ、巷の話題を席捲しているようですが、私事、その(白拍子)について書いていたので、それと比較して、この説を述べたいと、いろいろ資料をそろえました。
日本を代表する天下のNHKテレビジョンですから、いい加減なことはいえないし、まして歴史の史実にのっとりドラマ化しているので時代考証にしても手抜きができないでしょう。
ま、それでも古文書を解読して、そのままドラマシナリオを作っても面白くない。だからそれをいかに面白おかしくするのが脚本家「三谷 幸喜」氏で、視聴する社会の期待も多分にある。
もともと大河ドラマは、セット撮り多様画面なので、個人的にはいつも見ている優等生ではないので、多くは語れませんが、たまたま「白拍子」シーンがあったので一言いいたくなったという経緯です。
もちろん私は、そのコンテンツにおいて素人ですから作家「三谷 幸喜」氏に対抗するなんてとんでもないことです。
ただいえることはその「白拍子」(静御前)の時代的位置が、必ずしも正当評価に値する、という地位(妾~)に甘んじて、話に色を添える、といったスパイスにするには、やや重い役かなと思うからです。
これに関しては、古くから研究されていて、諸説乱舞している中、なかなか核心がつかめないのですが、最近、最も信頼できる資料があったので、それを参考に話しを進めましょう。
以下、その引用解説文。
傀儡女の登場と変容 服藤早苗
傀儡女の登場と変容 ~日本における買売春~
服藤早苗著
傀儡女(くぐつ)は、定まれる居なく、当る家なし。穹廬氈帳、水草を遂ひてもて移徙す。頗る北荻の俗に類たり。男は皆弓馬を使へ、狩猟をもて事と為す。或は双剣を跳らせて七丸を弄び、或は木人を舞はせて桃梗を闘はす。生ける人の態を能くすること、殆に魚竜蔓蜒の戯に近し。沙石を変じて金銭と為し、草木を化して鳥獣と為し、能く人の目を□す。女は愁眉・啼粧・折腰歩・齲歯咲を為し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聟は誡せず。
と『傀儡子記』に描写したのは、大江匡房(一〇四一~一一一一)であり、晩年の作とされている。十一世紀に生きた藤原頼通(九九二~一〇七四)も、「傀儡子は、素より往来頻りにて、万里の間に、居も尚新たにす」と詠っている。十一世紀には、家を構え定着して居住するのではなく、諸国を移動しつつ生活していた。 ─ 436 ─ 冒頭文
とあるように、はじめ見出し文から「買売春」と書いてあり、それはまさに「高貴娼婦」を記述したものでした。
その文献すべてをここに展開しても、読破しないでしょう。したがって要点だけを、解説しましょう。
傀儡子集団の起源については、奈良時代の乞食者の後身とし、古代の漁労民・狩猟民に求める林屋辰三郎説などに対して、傀儡子族は朝鮮からの渡来人で芸能は生地で中国人か西域人に学んだもの、とする滝川政次郎説、過重な課役に耐えかねて逃亡した逃散農民とする角田一郎説などがある。小稿では主として平安時代以降の傀儡子集団の中での女性を対象とするので、起源等は問わない。
大江匡房は、傀儡子女性に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩き難いふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧、等々で歌を歌い淫楽をして男をさそう、父母夫聟は誡めもしない、と記す。多分に漢籍的表現であり現実の描写とするには躊躇されるが、歌を歌い売春をする姿は実態であろう。この傀儡子女性については、滝川政次郎・脇田晴子氏等は、遊女は水辺、傀儡女は陸の宿駅と区別されていた、と遊女や白拍子との相違を明確に提示しているが、いっぽうでは、「傀儡子という遊女」と記されることも多い。
たしかに、『下学集』下、態藝では、「傀儡〈日本、俗に遊女を呼びて傀儡と曰う〉」とある。しかし国語辞典である『下学集』は、文安元年(一四四四)頃の成立とされており、十五世紀には、遊女と傀儡が同じだったことは確かめられる。
しかし、何時頃から、どのような要因で傀儡子女性が遊女と呼ばれるようになったのか、詳細な研究はなされていない。日本における買売春の成立にとっては大変重要な一つの要素であり、また最近、買売春の通史も出ているが、混乱がみられるように思われる。筆者は白拍子についても同様な課題で分析したが、小稿は、傀儡子女性について、買売春の成立過程と変容の視点から、史料に即して考察を加えたい。そのため、傀儡子女性を傀儡女と記すこととする。
一、傀儡女の登場
傀儡女のことだろうと推察される早期の史料に、次の長久元年(一〇四〇)五月三日の日記がある。
右府に参る。相公亞将云わく、「今日、桂別業に向かうべし。相共に如何」。予、応許す。巳時ばかり、同乗し、彼の所に向かう。資高、資頼、資仲等、相同す。終日遊興の間、傀儡子来たりて歌い遊ぶ。はなはだ興有り、興有り。(『春記』)
以下 続く~~~~~~~~
「鎌倉殿の13人」石橋静河 派手な“静御前の舞”足を蹴り上げ「新鮮」重圧も「幸せな気持ちが勝って」[ 2022年5月22日 21:00 ]
NHK Photo by 提供写真
■都随一の白拍子 静御前/石橋静河
「鎌倉殿の13人」静御前・石橋静河 白拍子は「1人ミュージカル(笑)」“静の舞”どうなる?
5/15(日) 12:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/7eb2f5b8ae8c2cafcf36b44476a2ed2d65130313
スポニチアネックス
俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は15日、第19話が放送される。天才軍略家・源義経(菅田将暉)をめぐる正妻・里(三浦透子)と愛妾・静御前(石橋静河)のバトルに注目が集まる。
<以下、ネタバレ有>
オファーについては「冗談かなと一瞬思いました(笑)。その後、プレッシャーがグワーッと来たんですが、よくよく考えると、800年前の日本で生きていた女性が同じ名前というのは凄いことだなと。自分の名前ってアイデンティティーとして強くあるものだと思うんですけど、私自身も誇りに思えましたし、そのつながりがあるからこそ、より静御前の気持ちをしっかり演じたいなと思いました」と述懐。
「ある種、1人ミュージカルというか(笑)、てんやわんやでしたけど。今回、撮影をしながら感じたことは、白拍子は歌いながら踊りながら、それもほぼ即興なので、本当にライブの人なんだなと。その瞬間に自分が感じたことじゃないと歌えないし、踊れないと凄く感じました。だから、頼朝さんの前で踊った時もウソがつけなかったというか。でも、それは静御前が自分で選択したことというか、『私は正直に生きる』ということをしないと気が済まないような、頑固でもあり、強い女性だったんだろうなと思いました」
静御前は義経を虜にした都随一の白拍子(しらびょうし=鎌倉時代に盛行した歌舞、その歌舞を演じた舞女)。静御前は三善康信(小林隆)の詮議を否定。りく(宮沢りえ)は静御前が身籠っていると気づき、義時に伝えた。「おなかの子の父親は、たぶん九郎殿。だから名乗らない。つながりました」。頼朝は「しばらく鎌倉に留め置け。生まれてきた子が男なら、由比ヶ浜に沈めよ。九郎の子じゃ。生かしておくわけにはいかぬ」と義時に命じた。
政子は鎌倉を出ることを静御前に提案。道(堀内敬子)は「こんな女、守ってやることはありません。いいですか。九郎殿にはれっきとした奥方がおられるのです。里といって、我が比企の一族です。あなたは妾(そばめ)ではないですか。分をわきまえなさい。あなたは九郎殿から捨てられたのですよ」。静御前は意を決し「私は静です。おなかにいるのは、間違いなく源九郎義経殿のお子。もうええんです。うちは静御前でございます!信じていただけないのなら、証しをご覧にいれましょう」――。
鎌倉御所、白拍子を舞う前。静御前は「生まれた子が殺されたら、私も死ぬ」。大姫(南沙良)が「何とかしてあげて。もう人が死ぬのは見たくない」と願うと、義時は「こうなったら、わざと下手に舞うしかない。静御前の名を騙った偽物のふりをしてください」。畠山重忠 (中川大志)工藤祐経(坪倉由幸)三浦義村(山本耕史)が楽器を演奏。静御前は扇子を落とすなど一度は下手に踊ったが、再び意を決して華麗な舞。「しづやしづ しづのをだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」――。政子は「女子の覚悟です。あなたが挙兵された時、わたくしも覚悟を決めました。それと同じことです」と隣の頼朝に語り掛けた。
義経は「あいつらしいなぁ」。静御前は4カ月後に男児を出産したが、善児(梶原善)が赤子を連れ去った。静御前は鎌倉を去り、以後は行方不明。静御前に似た遊女が美濃・青墓宿にいたという話も。夜、義経は怒りに震え、案山子を真っ二つに斬った。義時は「うまく運んだようだ」とつぶやく。義時の策だった――。
番組公式ツイッターに公開された石橋の「かまコメ(撮影直前・直後の音声コメント)」は以下の通り。
▼舞を披露するシーンを演じて「プレッシャーはもちろんあったんですけど、リハーサルを何回か重ねていくうちに、すごく面白いなって感じて。こんなこと、普通は経験できないので。本当にタイムスリップしたようなセットの中で、扮装した他の役者陣の方々がいる中でこうやって踊る機会をもらえるのがすごく幸せだなという気持ちの方がプレッシャーよりも勝って、稽古は大変だったんですけど、今回これをやらせてもらえて本当によかったなと思いました」
▼白拍子を舞って「白拍子はもちろん映像では残っていないし、絵でも残っていないと思うんです。だから、どういう動きをしていたのかというのは、本当のところは誰にも分からない。だけど、静御前が“しづやしづ”と歌いながら舞ったというのはほぼ史実だということが文献に書かれているので、その踊りの部分っていうのは“こうだろう”と想像で進めていきました。刀や扇、烏帽子など男っぽい扮装をした、すごく凛々しい踊りなのですが、それがもっと日本舞踊に近いような、はんなりした女性らしい動きだったら、西洋の動き・ダンスとは全く違うので、それはそれで難しかったと思うんです。でも今回は足を蹴り上げるなど、派手な動きが結構あったので、それは今まで私がやってきたことが活かされていたかなと思いますし“こんな踊りを昔の女性がやっていたんだ”っていうのはすごく驚きで、新鮮でした」
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racoco 2021年11月18日 07:38
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