世界がひとつになる方法
担当する授業のオンライン化で良かったことの一つは、終了後の学生との雑談である。夜間のプロダクトデザイン専攻なのだが、働いている学生が多く、さまざまなバッググラウンドを持っていてとても興味深い。ITエンジニア、栄養士、海上保安官、社労士、さらには法学部、農学部の卒業生たちがデザイナーへのキャリアチェンジに挑戦している。デンマークでは平均4〜5回転職するというが、日本では職を変えることに対する根強い抵抗感がある。彼らのチャレンジが報われる社会であってほしいと切に思う。
さて、ある授業の終了後、学生から「コロナ以降、世界はひとつになれるんだろうか?」との問いが投げられた。これほど同時期に世界が共通の課題に向き合ったことはない。この時期だからこそ、世界がひとつになれるのではないかという。
私はさらに「どうひとつになるのか?」という問いを持った。そもそも多様な価値観にあふれる世界において、ひとつになるというのは、果たしてどうゆう状態なのだろうか。
隣の国は何する国ぞ。
デンマークの留学先の一つ「クロゴップ・ホイスコーレン」で「Bafa Bafa(バファバファ)」というワークショップを体験した。まず二つにグループに分かれ、それぞれ異なるゲームを行う。一方はカードを交換しあって得点を競う。ゲーム中は決められた合い言葉のみを使い、デンマーク語と英語は使わない。そして各人それぞれ6段階の階級が設定され、階級が”上”もしくは”同等”でなければカードの交換を仕掛けられないように進められる。
もう片方のグループは、ポップな音楽を流し気分を盛り上げ、互いに触れ合い、そして絵を描き合うだけのゲーム。言葉はデンマーク語と英語以外の擬音のようなものを自由に創作して話し、とにかく互いに笑い合い、喜びあい、褒め合うことだけを心がける。
この2つのグループは全く異なる文化を持ったコミュニティとして設定され、一方はヒエラルキーのある競争社会、もう片方は自由で陽気な南国社会。
時おり数人を交換留学させ、違うコミュニティに入った自分が、どのように戸惑い、何を感じるかを互いに交換しあう。そして、2回の交換留学を行った後に、それぞれのグループに戻り、片方のコミュニティについて話し合う。
競争社会における南国社会についての議論がとても面白い。「異なる色の鉛筆を使っていたが、何か階級を表しているのではないか?」「人によって話す言葉が違うが、規則性があるような気がする。」「絵が壁に貼り出されていたが、何かしらルールがあると思う。」等々。ただ前述のように南国には全くルールが存在しない。全く適当にやっているわけだが、それにも関わらずあり得ない仮説が出てくる。これは”競争社会”における価値観を基準に”南国社会”を理解しようとしたためだ。
さて「多様な価値観を理解し認め合う」とは誰しも理想とするところだが、ひょっとしたら、私たちは決して互いのことなど理解出来ないのかもしれない。理解したつもりでも、それは自分の尺度で推し量っただけの話で、真に腑に落ちるまでには至らないのではないか。極論すれば、相手を理解するには、その相手自身になるしかない。
ただ対話による一時の収束は図りえるという。本来分かり得ない相互の共生を維持するには、拙速に解決を図るのではなく、互いの主張を共有する”対話の継続”にかかっている。そのためには自ら発信するという姿勢が必要で、多様な価値観を”理解する”という受動的態度では、互いに察しあい誤解が誤解を生む。”発信する”という能動的態度を継続することが、多様性ある社会に繋がる。
世界はひとつにはなれない。
とかく、私たちは他者を理解しようとする。そしてある結論を導き出そうとする。ただそれは虚構でしかないのだ。結局のところ、他者は自分ではない。日常的に私たちは議論(Discussion)をし合意形成を図る。それは業務上、必要なことであるが、私たちはそれに慣れきってしまっている。何か、結論をださなければならないという観念に囚われている。しかし、対話(Dialogue)は二者間において結論を導き出さない。互いに話し合い、互いにそれを認め合うだけだ。
世界も結局のところ同じなのだ。他国を自国の常識で図ってはいけない。できることは、他国は他国として認めることだ。その上に世界の秩序が生まれる。
世界は、同じ思考でひとつになるわけではない。同じ思考がないということを認め合う、という点においてひとつになれるのである。
*トップ画像に掲載しているのは 障がいのある人とデザイン学生によるプロジェクト「シブヤフォント」の「ホッピング」というパターンです。当社はその運営を担っています。