高校生からの質問 「障がい者アート」という区別
ある高校生から「フクフクプラスの取り組みについて質問に答えて欲しい」との問い合わせを受けた。社会課題を探究する授業の一環だということだが、その質問には、自分たちなりの解釈と違和感を基に、シンプルながら深遠な視座も感じられた。
以前より、これからの問いに対するフクフクプラスの視座は、どこかで整理し、しっかりと伝えていかないといけないとも感じていた。
よき機会をいただいたと考え、掲載の確認をいただいた上で、質問に対する回答形式の原文そのままを掲載したい。
1,どのような取り組みを行っておられますか。また、なぜその取り組みを行っておられますか。
(1)取り組みについて
およそ17,000点の障がいのある人のアートを使った「企業向けの働き方改革サービス」と「障がいのある人の収入支援」をしています。
昨今、精神疾患のワーカーが増えています。そこでリラックスできるオフィス環境を作り出すため、企業向けに障がいのある人のアートのレンタルをしています。企業からはうつ発症の軽減も期待いただいています。
また、企業では社員間のコミュニケーションを活性化させるために、様々な研修が行われています。そこで、障がいのある人のアートを鑑賞して、自由に感想を言い合う企業研修(対話型アート鑑賞)を提供しています。ニューヨーク近代美術館で生まれたプログラムを範として、自己肯定感、他者理解、発想力など様々な効果があり、現在25社、2,500名以上のワーカーにご体験いただいています。
そして、上記アートレンタル、アート鑑賞研修の売り上げの一部を障がいのあるアーティストに還元しています。
また、渋谷区からの依頼で「シブヤフォント」という事業を運営しています。
障がいのある人の文字や絵を、デザインを学ぶ学生がフォントやパターンにして、誰にでも使えるパブリックデータに仕立てています。ご自分のパソコンにインストールして使用したり、企業の商品などにも採用されています。シブヤフォントを採用した商品の総売上は年間2,000万を超え、障がいのあるアーティストへの還元も約300万となりました。
(2)なぜこの取り組みを行っているのか?
障がいのある人の収入(2018年度就労継続支援B型施設の平均工賃 16,000円/月)は、未だ低く、このままでは自立した生活を営むことができません。現在も様々な支援が行われているますが、その中でもアートは、働くことが困難な人でも、それぞれの方法で描くことができます。
また、私自身もダウン症のあるアーティストのアートに感銘したこともあり、障がいのある人のアートの力を感じている一人でもあります。
そして、障がいのある人のアートを使った取り組みを進める上で、大切にしていることがあります。それは“社会貢献ではなく、使う人にとって価値あるもの”として届けることです。
私は富士フイルムのデザイナーをしていた頃「写ルンです」を目の見えない人が使っていることを知りました。旅行先の様子を家族に伝えるために利用されていたようですが、他のカメラではなく、あえて「写ルンです」だったのです。
「写ルンです」は“ギーギー” “ガシャ”と触覚と音で、目の見えない人でも全ての操作がわかるというのです。開発者としてはコストダウンのためだったのですが、私は“目の見えない人に新しい使い方を教えてもらった”ような気がしたのです。そしてデザイナーとして、福祉は新しいアイデアを与えてくれる未開の分野だと感じました。
このように障がいのある人と、互いに気づきを分かち合える関係になれば、“支援する”、“支援される”という一方通行の関係ではなく、あるべき共生社会につながるのではないかと思っています。
私たちは、障がいのある人のアートを社会貢献として提供するのではなく、社員のメンタルケアになったり、社員間のコミュニケーションが活性化されたり、また商品が売れたりなど、それを採用する個人、企業にとって価値あるものとして届けることにチャレンジしています。
2, 障がい者アートは、障がい者の社会参加や健常者の意識改善に役に立っているとお考えですか。理由、実際の例があればお聞かせください。
外出が困難な人や体調が安定しない人など、さまざまな理由によって就労が困難な人が数多くいらっしゃいます。その点、アートは、障がい種を問わず、場所も問わず、描く人のペースに合わせて制作することができます。
また、アートは美術館で展示するだけに留まらず、デジタルデータにしたり、商品にしたり、様々な方法で社会に届ることができます。障がいのある人と直接交流することが難しくとも、アートを通じて障がいのある人を身近に感じることができます。
アートは、多くの障がいのある人にとって社会参加できる有効な取り組みであり、また多くの人にも届けられる。健常者の意識改善にとても役立つものと考えています。
3, 障がい者アートに関する取り組みは、健常者ではなく障がい者主体で進められるべきという意見がありますが、そのように思われますか。また、それに関する、取り組みの工夫や方法があればお聞かせください。
“障がい”者というのは、その人に“障がい”があるわけでなく、その人が社会参加する上で社会側に“障がい”があるものと考えています。
車椅子を使う人にとって、スロープがあれば施設に入場に入ることができます。知的に障がいのある人にとって、アートを制作する機会が提供されれば力を発揮できるかもしれません。
そもそも、私たちは他者からの依存で暮らしています。誰一人として、自分だけで生活はできません。税金で学校の費用や健康保険で治療費が賄われているように、他者依存しながら生かし生かされています。
そして、日本国憲法には「すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」とあり、それを実現するのは国の責任だと明言されています。依存しあう前提で、私たちの社会はつくられているわけです。
そうした社会にあって、障がいのある人のアート活動を支援することに、私はなんら違和感がありません。私も、きっと誰かの依存で生活をさせていただいているのですから。
ただ、支援する上で大切なことが一つあります。
障がい者のある人の意思です。何をしたいかがはっきりしなければ、何を支援したら良いのかわかりません。本人にとって不本意なことにもなりかねません。
そのいった意味で、障がいのある人のアート活動において、障がいのある人自身にも主体性(自己決定)が必要であると思います。
ここでとても難しいのが、知的障がいのある人のアート活動かもしれません。意思が明示されないことも多く、何を支援すべきか常に判断に迷います。支援される方が、障がいのある人に寄り添い、日常生活の小さな反応から想像していくことになるでしょう。
ただ、自分の意思を明確にするのは、なにも知的障がいのある人に関わらず、誰にとっても難しいことかもしれません。「自分が何をしたいのか?」、きっと皆さんも日々の情報に心が揺れ、常に悩みながら暮らしているものと思います。
障がいのある人の支援は、誰にとっても必要な問いを考える貴重な機会でもあるのです。
4, 「障がい者アート」と言うと、他の芸術作品と区別されると思われますが、障がい者アートという区分は必要だとお考えですか。理由もお聞かせください。
アートは、作品そのもので評価されるべきものであり、誰が描いたかで評価されるべきではありません。アート鑑賞という行為において区別は不要です。
また、たとえ「障がい者アート」と区別したとしても、最後はそのアートの実力によって淘汰されるでしょう。結局のところ区別は一時的なものにしかなり得ないのです。
そういった意味で、私たちは障がいのある人のアートであれば、全てを扱うわけではなく、お客様にとって価値あるもののみをお届けするようにしています。区別しなくとも、評価されるものを目指しています。
一方、誰のために取り組んでいるのかを明示する意味で、区別が必要になることがあります。当社も、会社の理念を伝えるカタログやウェブサイトでは、障がいのある人のアートを使った事業であることを明示しています。
以上、ここまで
改めて読み返した上で、以下は本note上のみでの補足である。
「障がい者アート」という呼称をめぐっての区別は、さまざま議論のあるところである。アール・ブリュット、アウトサイダーアートなど多種多様な呼称も試されている。
ただ実のところ、私はここにあまり固執していない。
よく引き合いに出すのが「二世タレント」である。親の名をして一時的にメディアに取り上げられたとしても、実力がなければいずれ淘汰される。中には、親の名を一切公言せずに芸能活動を営む方もいるが、完全に匿名性が担保される社会でもない。
草間彌生が統合失調症であることも有名な話であるが、それだからといってアートが評価されているわけではない。最終的に、その実力に対する顧客の評価によってその存続は決定されるのである。
きっと私たちは、これからも誰のための事業であるかの明言のため「障がいのある人のアート」と”障がい”という呼称を使う。一方で、私たちの事業が評価されるか否かは、私たちが提供する商品、サービスが顧客のニーズに応え続けられるかどうかの一点につきる。だから、あまり固執しない。
さて区別を、また別の視点でみてみよう。
実は、ある社会問題の認知において区別は一定の役割を持つ。今まで認識されなかったマイノリティを、ある呼称を使って明示することで社会課題として認知され得る。
もし「障がい者」という呼称がなくなると、これはこれで不都合となる。憲法で明文化されるところの「最低限度の生活を営む権利」を国が保障する上で、全ての人が最低限の生活を営む上での社会に潜む”障害”を、国は取り除かなくてはならない。”障害”は、その当事者にあるのではなく、社会側にある。その際、社会保障を提供する対象をどう線引きするかを、”障害”という区別は担っている。
無論、区別は諸刃の剣である。
区別は固定観念を生み出し、思考停止に陥る危険を孕んでいる。障害種、LGBTQ、国籍などで区別することにより、もとより、そうした区別を超えたその人ごとの多様性を一定の枠に押し込んでしまう。
しかし、区別することで、そのマイノリティに対する社会課題の認知が進み、社会にそれを受け入れる土壌ができるのも事実である。その次にようやく、そうした区別を超えて、それぞれが多様である社会につながる。
前職のデザイナー時代に感じた「ユニバーサルデザイン」という区別の違和感。ユニバーサルデザイン商品の多くが、表面的な操作性向上に対して区別したが故に「あまり格好がよくないもの」というレッテルが貼られ、やがてその区別は使われなくなっていった。
ただ、ユニバーサルデザインという区別が社会に広がるにつれ、従来の商品開発における”障がい者向け”という概念から、より一般化しようとする概念が広がったのは、大きなパラダイムシフトであったはずである。
また長い間、ある疾患に悩まされた方が、ようやく自身の障害種を知るにあたり、自分自身の障害を受容し、新たな人生に向けての一歩を踏み出すことができる。長らく医者の診断でさえ、”単なるストレス”と片付けられてきた躁鬱病が、薬品メーカーによる新薬のキャンペーンで”心の風邪”と躁鬱病を区別したことが、周囲の理解を広げ、どれだけ多くの人々を救ったか。
区別によって、人は苦しみ、人は助けられる。
近視眼的にならず、鳥瞰的に、この区別を上手く使っていくことで社会はよりよくなっていくはずである。
*トップ画像に掲載しているのは 障がいのある人とデザイン学生によるプロジェクト「シブヤフォント」の「シブヤスクランブル ナイト」というパターンです。データの売上の一部が障がい者支援施設に還元されます。ポストカード、チラシの柄などにご活用ください。