1997年11月は忘れられない
辰吉丈一郎が3度目の王座返り咲きとなった試合が1997年11月22日に行われた。
この試合、翌日のスポーツ紙は1面で取り上げた。
もしかしたら、スポーツ紙の裏1面になってしまった可能性があったことを覚えている人がいるか疑問。
以下、辰吉丈一郎についてと、裏1面になったかもしれない理由。
辰吉丈一郎は日本ボクシングのカリスマ的存在。
なぜか?と言われると即答には困る。
世界奪取記録は井岡、田中に塗り替えられた。
KOが多いわけでもない。
言動が派手だというならば亀田も同じだから理由に値しない。
あれから27年経つが自分の中の答えは出ないし、答えを出す気もない。
以下、伝説となった試合について。
世界的レフェリーのリチャード・スティールは辰吉のことを「デラホーヤ(五輪金メダリスト・プロ6階級制覇王者)に何人の若い女性ファンがいるか知らないが、彼ほど青少年を熱狂させたボクサーは他に知らない。」と言った。ベルトのホルダーが変わるとリングサイドは若い男性ファンに囲まれた光景を見ると、そうなるだろう。
この発言があったのは、Final Judgement とキャッチコピーが付いた1997年11月22日大阪城ホールでのWBC世界バンタム級タイトルマッチ12回戦。
王者:シリモンコン・ナコントンパークビュー
挑戦:辰吉丈一郎
この試合に挑むまでに、薬師寺保栄、ダニエル・サラゴサ、サラゴサとの再戦と世界戦3連敗。世界前哨戦として組まれた横浜での試合は納得がいかない判定勝ち。
シリモンコンは21歳で辰吉戦まで無敗のタイ国出身の勢いがある若き王者。
今回が初めてのアウェイでの試合。
大方の予想ではシリモンコンが勝つと言われ、辰吉にとっては事実上の引退試合になるのではと。
第5ラウンドに試合が動く。
得意の日本人離れしたリーチから繰り出される左ボディが活路となり、右を貰ったシリモンコンがダウン。
第6ラウンドはゴング前に手を振って観客にコールを要求する辰吉。ところが、息を吹き返したシリモンコンが逆襲。左がストレートの威力がありそうなほど。
そして運命の第7ラウンド、中盤までは防戦一方の辰吉。
一瞬のスキをついたワンツーからの左ボディでシリモンコンはダウン。形勢逆転。
立ち上がったシリモンコンを一気に畳みかけてTKO勝ち。
タイムは7R1分54秒。
大阪城ホールは大盛り上がり、なぜかタイガースのヒッティングマーチが流れて、人がリングに向かって走り出す。泣いているファンもいる。
リング上では辰吉がうなだれるシリモンコンに「one more」と伝え、シリモンコンの手を挙げて観客に健闘を称えた拍手を求めながらリングを一周。
勝利者インタビューではまず、観客に感謝から伝える。
「ほんま、すんません。僕みたいな男を。」
次に、亡くなった元トレーナー、盟友グレート金山選手、後援会会長に感謝の言葉。
これを見たときに「なんて謙虚なんだ」と思った。あれだけの大仕事をやり終えたはずなのに、感謝しか述べない。海外のボクサーならば、「I'm great,I'm undisputited,p4p No.1」とか言ってもおかしくない。
冒頭に触れた裏1面になったかもしれない理由。もしかしたら1面だったかもしれないが、記事は減ったはず。現在ほど、情報が飛び交わなかったことが前提。
この試合の1週間前のことだが、マレーシアのジョホールバルでサッカーのアジア第三代表決定戦が行われていた。
あのドーハの悲劇と言われたイラクの後半45分17秒の失点から約4年、再度W杯の門に手をかけ、そしてVゴールでこじ開けた。
なんでサッカー?と思うかもしれないが、この試合で敗れていれば、大陸間プレーオフの試合が日本のホームで行われることが決まっていた。
しかも11月22日19時キックオフと辰吉の試合とマル被り。
サッカーとボクシングが趣味の人間にはこれほど辛いことはなかった。
最悪のことを想定して、テレビを同じ部屋に2台準備することも考えた。
最悪は回避でき、日本代表はW杯初出場決定、辰吉が緑のベルトを巻いた。
1997年11月は忘れられない。
それにしてもドーハの悲劇の45分17秒、辰吉のKOタイム 7R1分54秒。