母の日に感謝なんてできない
一昨日、晩酌をしている父から「おまえ、母の日に何もしなかったろう」と話しかけられた。「知っている。だって何をするの?」と返した。
自分が働いてお金があるときだったら母の気分が上がるようなおいしそうなお菓子を選んで買ってきたろうが、今は振れる袖もない。「肩たたき券でもあげる? いらないよね、だって肩もみも嫌いだものね」と続けた。
「感謝の手紙? 喜ぶとでも思ってるの?」
「私ができること、ないよね」
言外に、だから何もしなかったと告げる。
父は、そういうことじゃないと言った。
私にはわからない。
たぶん、日頃家の中でしてくれるこまごまとしたことにありがたいなあとは思っているけれど、それを母がしなくなったところで「そう」としか思わないからだ。してくれることはありがたいことではあるが、してくれなくなっても有難いことがなくなっただけで私にとっては何も変わらないのだ。きっと。
してくれなくなったところで、自分でしなくてはいけないことが目の前に転がってくるだけで、してもらったことの有難みは噛み締める。けれど、だからなんだという話である気がしている。
「儀礼的にやれっていう意味ならわかるよ。お歳暮とかお年賀とか、そういうの。好きでしょ、世間的なことされるの」
「そうじゃない」
「……感謝を表すことで別にお礼言われたいわけじゃないけどさ。こっちだって喜んでほしいなあって思いながら物を贈ってるつもりなんだよね。物が気に入らなくて喜ばれないってのは仕方ないよ。でも感謝の気持ちだって贈るたびに嫌な顔されるの、進んでやりたくなるわけないでしょ」
父は顔をくしゃりとゆがめた。「そうじゃない」と。
私はきっと、母に感謝なんかしてないのだ。
かつて母の日にしてきたことを思い出す。
母の日は日頃の母に感謝すると同時に喜んでもらいたいと思っていたはずだった。でも、あげたものに「こんなのいらないのに」とか「ふーん」とか流されたことが積み重なった。
子どもから受け取ったものの、気に入らなかったのかもしれない。
初めて贈った花は「こんな高いの」と言われた。なけなしのお小遣いでせいいっぱい選んだつもりなのに、高すぎると言葉を返されて困惑した。いいものを、と思ったのに、いいものはいらないと言われた気がした。
花がダメなら食べ物ならいいのだろうか。
贈った食べ物は放置されて母が口にすることはなかった。まれに賞味期限や消費期限を過ぎて食べられることもあった。おいしく食べてほしいと望んだのに、おいしくない状態で食べられるか、ゴミ袋に入れられることになった。
贈り物は贈るまでが私の仕事であって、贈られたあとにその物は贈られた人間が好き勝手にするものなのだと知った。
自分がいくら心を尽くしても相手に伝わらないし、伝わらないならいっそ何をあげてもいいのだと思った。
贈り物が粗雑に扱われる運命ならば、贈る物を考えている最中だけ楽しむしかない。
だから私にとって母の日は、そのとき金銭的余裕があるならなにか選んで買って贈るし、そうでなければしない。選ぶときが最高潮。渡すときは「つまらないものですが」だ。その方が痛くない。
感謝をすることは自らそうしたいと思ってすることであって、見返りを望むことではないはずだ。知っている。けれど、感謝の念を何度も放り出されてきたのは、ひどくかなしい。いらないと言われているようで。
実際、母にとってはいらないんだろう。価値のないものなのだ。必要もない。
それを照れ隠しだなんてばかなことは言わないでほしい。だったらあのとき傷ついてきた私はなんだったのか。心をあげたつもりで心を捨てられてきたのだ。あげる心などもうありはしない。
残される手段は儀礼的慣習、それしかない。今はその儀礼さえ欠く始末であるが、たとえされなかったとしても価値がないなら世間から私の常識が疑われるだけであってそれだけの話だ。そうでしょう?
母の日ってなんなんだ。
そもそもありがとうと思ったら「ありがとう」とその場で伝えていると思う私にとって、母の日に改めて、だなんていうのは「だから?」という感じでしかない。
まとめて感謝を伝える日ってなんなんだ。言う機会のない人間がすることじゃないのか。言えない人が告白できるバレンタインデーみたいに。
今日は父の日だ。
母の日に何もしなかったから、公平を期して父にも何もしないつもりだ。