「一度でいいから、工場で働いてほしい」
私は世の中の娘という中でも、わりと父と話す回数が多い方だと思うのだが。
父と話している中でも、私の母を形容するのによく出てくる言葉がこれ。
「一度でいいから、工場で働いてほしい」
母のことを完全に非難できる立場ではないのだが、私の母は床に物を置く癖がある。
それは母が片づけることが苦手、ということもあるが、とりあえず置いておく、ということをするのだ。
困ったことに、母は自分自身が床に物を置くことには寛容であるが、他人が床に物を置いておくと途端に怒り出す。
「なんでこんなところに物を置いているの!? 危ないでしょ!」
ごもっともだ。
しかし母よ、頼むからその言葉はブーメランなのでぜひとも自分の胸に手を当てて考えていただきたい。
あなたはそのように、大口を叩けるような聖人君子なのだろうか、と。
父と私は、床に物を置く母の最大の被害者なのだ。
動線上には物を置かない。
どんなに狭い部屋であっても、自分が動くだろう足の踏み場は、きっと確保する人が多いと思うのだ。たぶん。おそらく。(もし違ったらごめんなさい)
我が家ときたら、なぜか人が歩く通り道に広告の紙が置いてある。
拾い上げ、せめてとソファの下に入れることもあるが、なぜか毎日、新聞が広げられる時間になると広告が動線上に当然あるべき姿のごとく、おいてある。
いっそ、「ここは通路じゃなくて、広告置き場なのかな?」と勘違いしそうになるくらいに。
なるべく広告の紙を踏みたくないのでどかしてみたり、注意したりして歩くようにはしているけれど、うっかり片づけそこねて踏んでしまうこともないではない。
というか、つるっと滑って腰を強かに打ち付けたこともある。
泣きそうになりながら腰を押さえている娘に、母が見て一言。
「ばっかねー、床にあるのが見えてるなら避けなさいよ」
……。
…………。
………………だれのせいだと????(手近な物を母にぶん投げたい心境)
そもそも広告の紙を床に置きっぱなしにしているのは母だ。
面倒ではあるが私はそれをどかす努力もしているつもりで、それでもやっぱり、うっかり忘れて踏みつけてしまうことだってある。
やっちゃったな、って自分でだって思う。くやしい。
それなのに、転んでしまった娘を心配するでもなく、あなたが広げたそれにすべった人をあなたは笑うのか。
怒りを通り越して、心底、あきれ果てるしかなかった。
父は父で、何度か足をぶつけている。
母が片づけずにおいていたアイロン台に気づかず、思い切り足をぶつけてしまったことがあった。
いった!という父の痛みを訴える声に、母が一言。
「なにやってるの? アイロン台、見えてるじゃない」
……怒らなかった父、すごいなと思った。
それにしても見えにくいところにあるアイロン台を、「見えてるじゃない」と母は言い切るのかと。
アイロン台を見ていなかったのは父の不注意でもあったかもしれなかったが、確認すると父の方向からはソファの陰に隠れて見えづらかったのだ。
こういうことが、儘ある。
床に置かないでくれ、とか、片づけようよ、と母へ声かけしても、「見えるのだから」と言われてしまう。
なるべくこちらで回避しようと、努力はするが、完全に防げるわけではない。
痛すぎて、「痛いじゃないの!」と怒っても、なしのつぶて。
でもこれがすごいことに、自分がやられたときは、母、しっかり怒るのだ。
ずるいよなあって思う。
起こるべくして起こった事故の発端は、間違いなく母にある。
可能なかぎり避けようとはしても、私たちとて回避しきれないこともある。
それを、「避けられるのになんで避けなかったの?」とはひどい発言だと思わずにはいられない。
正直、広告の紙だけじゃない。母が床に転がしておいた小物をうっかり踏みつけてしまうことは、わりとよくある。
痛みに呻き目尻に涙をにじませているさなか、横に来た母から「置いてあったの見えなかったの?」って言われた時は、一瞬でも「殺意を覚える」という表現が脳裏に過ぎってしまったくらいだ。
そのくらい、痛い。そしてそのくらい、母が憎たらしくて憎たらしくてたまらない。私が感じたのと同じか、それ以上の痛みを与えたくなるくらいには。
だからこそ、というか。
父と、起こるべくして起こった事柄から、「母へは工場で働いてもらいたい」などと思ってしまうのだ。
工場では動線上に転ぶような物を決して置かない。
いや、工場であろうがなかろうが、動線上に障害物をわざわざ置くことはしないだろう。
工場でなくても、作業場で、職場で、怪我や事故になりうる可能性のあるものは排除するはずなのだ。
起こりうるとわかりきっている事故を引き起こすおそれのあるものを、放置する人はいないと思う。
ガソリンの傍で火をつけようとする人間はいない。
しかし、どうにも私の母にはそういう概念が、適用されていないようなのだ。
「動線上にある床に物は置かない」って叩き込まれてほしい、などと、父と私は他力本願にも考えてしまうのだ。
でも、たぶんなのだけど、もし母が工場で働くことになったとしても、家の中での行動は変わらないかもしれないな、とも思っている。
工場は工場、という認識て工場では絶対にやらないとしても、やっぱり家の中では母は床に物を置くことをやめない気がしてならないのだ。
かなしいことに。