いつか、なくなる
ずっとむかし、小学生の頃に読んだ本を探している。
それは記憶が正しければ白い装丁で、カバーらしきものはついていたか覚えていない。小学校の図書室の棚にあったものだ。つるっとした肌触りというより、のっぺりとした少しさりさりとしたものだったような気がする。ざらざらはしてなかったし、光沢は薄かった。
たぶんB5サイズくらいだった。大きすぎず、けれど新書や文庫よりは大きかった。挿絵もときどき入っていて、シリーズもので5冊以上出ていたように思う。
もしかしたら巻によってうっすら背表紙の色が違っていたかもしれない。このことは書いている今思い出した。
「マインドコンシャス」というタイトルだったように思うが、今となってはシリーズ名なのかもしれない。正しい名前が思い出せない。
記憶のかぎり探してみたけれど、どう探していいのかわからず、ここに書き記してみようと思った。
書かれていた内容はおそらくマインドコンシャスという名からも心や意識に関する、だれかの心に響いたお話をと選ばれていたように思う。
たぶん、だれかの物語だった。どこかで生きている、だれかのお話。エッセイのような。思い入れの深すぎるようなものでもなく、かといってすぐさま忘れるような浅い思いのものでもなかった。
とはいえ、私の覚えているお話は二つだけ。
一つは、阪神淡路大震災を経験した女性の話だった。
彼女は働いたお金をせっせと趣味のガラスでできたグラス、飾り物で部屋を彩っていたらしい。きれいなガラスが彼女を喜ばせ、よりどころとなっていた。ところが地震が起きたことで、それらは全て壊れた。
棚から落ちたそれは、私を傷つける凶器となった。物は何も残らなかった、私は何に執着していたのだろう。
――そんなお話が書かれていた。
もう一つは、老人ホームに出入りする美容師の女性の話だったと思う。
彼女は老人ホームに定期的に髪を切りに行くが、接する中の一人のある老女はいつもつんけんしていたらしい。あるときその老女に口紅を塗りましょうか?と問いかけて塗ってみせたところ、初めてその老女の表情がいつものつんけんしたものではなかった。
私はそれを見てうれしくなって、老女だから化粧なんていらないなんてことはなかったのだと改めて気づいた。
――そんなお話が書かれていた。
どちらも小学生の私の心に残って、忘れられない。
後者のお話は、もしかしたら国語や道徳といった教科書の話だったのかもしれないが、前者の話はまちがいなくその本のお話だった。とてつもなく強烈に、鮮烈に、残っている。
短いお話がいくつか入っていて、覚えているのもただただこの二編ばかり。
おそらく挿絵に、倒れた棚と割れたガラスの破片が散らばったイラストがあったのではないかと思う。
読んだときの記憶そのものがあるわけではないが、大事にしていたものたちが破片となって散らばって、自らを傷つけるものと変わってしまったこと。あるものはいつか壊れてなくなってしまうのだということ。それを置き去って、あの私は無惨なお気に入りたちがあった部屋を出なくてはいけなかったこと。
――いつかなくなるのだ。
大きな衝撃と、かなしみが胸の中に流れ込んできて、もしかしたらあのとき、私は泣いたのかもしれない。
あの私が傷ついてしまったあの朝、私はまだ幼くて、冷たいひんやりした空気のなか母がリビングでテレビをつけていたのをぼんやりと覚えている。布団から這い出したのか、畳の上に立っていたのか、それすらもおぼつかない。けれど、冬の朝だった。私はあのとき、何が起こったのか知らなかった。ほの青白い朝だった。
いつかなくなる、と対極なように思われる老女のお話。
もう楽しみさえおぼつかないのではと思われる人でも、心動かすことがあるのだということ。偏見で以って接していた自分の目を見開かされるような経験。
ないと思っていたものは実はあるのだと、気づかされること。
いつかなくなる、けれどなくならないものもある。
タイトルすらあやふやで、けれど私があのだれかのお話をなんとなくでも覚えているように。だれかの心に残して消えないこと。
あの散らばった破片を踏みしめて冷たい朝に家を出た彼女がその後どう思ったのかを、私はふたたび知れたらいいと思っている。
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